【一章】迷惑な居候≪十六≫
§ § § § §
鴉がお腹を空かせて庫裏に飛び込むと、そこは戦場だった。
「なんであんたがいるのよ!」
「それはこちらのセリフだ!」
「あたしは、住職さんに誘われて……!」
「オレは毎週、寺の掃除を手伝ってるんだ!」
彩名の幼なじみだと教えられた貴之と、今日の坐禅講座に一番乗りでやってきた女が彩名を前に、言い争っていた。
「えっと……。二人のご飯もあるから、けんかしないで、ね?」
そういうことが原因でけんかをしているように見えないのに、彩名はずれたことを言って、どうにかこの場をおさめようとしていた。
「おい、彩名。飯はまだか」
そこに、さらに混乱に拍車を掛ける言葉を鴉は口にしながら庫裏の中へと入った。
庫裏に入ってきた鴉を見て、彩名は明らかに顔を引きつらせた。
鴉の声に、貴之と女─言うまでもなく、知穂だ─はそろって鴉に視線を向けた。
「おまえ……」
本堂ですでに顔を合わせていた貴之は、鴉を見て、顔をしかめた。
「あ、あなたもしかして……!」
二人の予想通りの反応に、彩名は仲裁に入るように鴉を背に隠し、二人に向き合った。
「ごっ、ご飯の用意は出来てるからっ! ほら、早く運んで!」
ご飯、の言葉にいち早く反応をしたのは、言うまでもなく、鴉だった。
「よっし、俺が……」
庫裏の真ん中に置かれているテーブルに所狭しと並べられているおかずを持っていこうとした鴉を、彩名は慌てて止めた。
「あーっ! かっ、鴉はいいからっ! とりあえず手を洗ってきて!」
「……鴉?」
彩名が鴉と呼んだことに対して、知穂が反応を示した。
「知穂ちゃん、そこのおにぎりの乗ってるお皿、持っていってくれない?」
「……はーい」
あからさまにごまかした彩名に対して色々と言いたいことがあったのだが、知穂はにやにやしながら言われた皿を手に持ち、隣の部屋へと移動した。
今日は鴉を含めた三人に、貴之と飛び込みでやってきた知穂といるので、庫裏の真ん中に置かれた今は昼食用のおかずが山のように置かれているテーブルで食事を摂るのは手狭なため、隣にある食堂で食べることにした。すでにそこは掃除もしていたので、問題なく使える。
「貴之は……焼きたてのお魚と! サラダを持っていって!」
「……分かった」
貴之はあからさまに不機嫌な表情で彩名に言われた物を手に取ると、鴉を睨み付けながら、隣の部屋へと消えた。
「ちょっと鴉!」
「……なんだよ」
彩名が小声で声を掛けてきたのを聞き、鴉は顔をしかめた。
「わたしの大切な友だちなんだから、変なこと、しないでよ!」
「……大切な友だち……?」
貴之はどう見ても明らかに彩名に気があるのだが、彩名はまったくそういったそぶりは見せていない。
(鈍感なのか、分かっていて無視しているのか……どっちだ?)
と考え、そうか、と思い出した。
(こいつは赤い糸が視えるから、あの男と繋がってないことを知っていて……?)
それでは、貴之の赤い糸はだれと繋がっているのだろう。
普段ならそんなことを気にも止めないのに、鴉は急に気になってきた。
「貴之も、知穂ちゃんも、わたしの大切な友だちなの。その二人に変なことをしたら、わたしが許さないから!」
勇猛果敢に彩名は鴉にタンカを切ったのだが……。つい、鴉はそんな彩名をからかいたくなって挑発するようなことを口にしてしまった。
「もしも俺が、あの二人を不幸に陥れたとしたら……?」
意地の悪い言葉に、彩名はキッと鴉を睨み付けた。
「そんなことをしたら……」
「したら、どうする?」
「したら……」
彩名は必死になって考えているようだ。そしてようやくひらめいたのか、自信に満ちた目で鴉を見上げてきた。
(……って、やべ。なんかこの表情、かわいいとか思ってしまっているんだが、俺)
「鴉のご飯、作ってあげない」
「なっ……!」
最終兵器を持ち出したと言わんばかりの彩名のその言葉は、鴉にとっては破壊力がありすぎた。
「かっ、かわいくないことを言うなっ」
一瞬前に彩名のことをかわいいと思ってしまった気持ちを否定するため、鴉は強がりを口にした。
「あんたにかわいいって思われたいわけじゃないし! いい、鴉っ! 貴之と知穂ちゃんになんか変なことしたら……」
「……わーったって! 分かった!」
「分かればいいのよ、分かれば!」
彩名はふんっと鼻息荒く腰に手をあて、胸を張った。
「分かったのなら、二人とけんかをしないでよ?」
「へいへい」
「もうっ! なんなのよ、その返事っ!」
ぞんざいな鴉の返事に彩名はまた腹を立てたが、鴉は無視して、テーブルの上にあった適当な皿を持ち、隣の部屋へと向かった。
「って、鴉っ! 手を洗ってから持って行きなさいよ!」
という彩名の叫び声は空しく、台所内に響いただけだった。
§ § § § §
鴉が食堂におかずを持って入ると、待ってましたと言わんばかりの知穂が駆け寄ってきた。
「あなたがここの客人なの?」
率直な質問にしかし、鴉は一瞥しただけだった。
(彩名は大切な友だちと言ったが、どーでもいい)
不幸にしてやりたいだとか、そういう感情さえ揺さぶられることのない存在。
知穂は返事をしない鴉に腹を立てつつも、持ってきた皿を受け取り、机の上に置いた。
なっているようだが、今は秀道が一人で手が回らないため、あまり利用されていないようだった。それでも彩名が毎週掃除をしているので、きれいに保たれたままだ。
鴉はどかっとおかずの目の前に座り、おかずに手を伸ばそうとして、はたと止まった。
さきほど、彩名に手を洗うように怒られたことを思い出したのだ。
そんなのどうでもいいと思いつつも、怒られるだけならまだしも、ご飯なし! なんて言われたらたまらない。
渋々と立ち上がり、台所へと戻った。
彩名はこちらに背を向けて、洗い物をしているようだった。
後ろ姿を見て、鴉は思わず、目を細めた。
(人の背中を見るのは、なんだかとても久し振りなような気がする)
由良と共にいたときは、常に由良の前に立っていた。
彩名と出逢ってからは、いつも向き合って言い合いをしていたような気がする。
『わたくしの背中を預けられるのは、あなただけです』
そう言って、肩越しに振り返ったあいつ──。
姿形も温もりも、吐息さえも忘れるはずがないと思っていたの……に。
今は恐ろしいほど、それが遠い。
鴉は遠ざかっていくそれらに向かって手を伸ばそうとしたところ、気配を感じたのか、彩名がくるりと振り返った。
「……どうしたの?」
よほど惚けた表情をしていたのか、彩名は小首を傾げて鴉を見ていた。
「あ、そうだ! ここでいいから、手を洗って! 石鹸はこれっ」
鴉は言われるがまま流しに立ち、手を洗った。
「やればできるじゃない」
下に掛かっているタオルで手を拭くために腰を屈めたとき、ふんわりと頭上になにかが掠めた。
「なっ……」
反射的に身体を起こし、数歩ほど後退した。
「あ、ごめんね」
手を伸ばしてばつが悪そうな表情をしていた彩名が立っていた。
「きちんと手を洗えたから、褒めて上げようかなって」
「あのなっ、俺はガキじゃあ……!」
「すぐに腹減っただし、ガキじゃない!」
なんとなくいい雰囲気だったのが、いつもの調子に戻ってしまった。