【一章】迷惑な居候≪十五≫
§ § § § §
十一時過ぎに予定通り、午前中の坐禅講座は終了した。
本堂内がいつもよりもざわめいているような気がするのは、女性が多いからだろう。
秀道は一礼をすると、本堂から出て行った。
講座参加者が本堂でしばしの間、歓談するのは特に困るようなことはないため、後は参加者の意思に任せておくことにした。
「あの……!」
そうやって出て行こうとした秀道を、一人の少女が呼び止めた。
秀道は立ち止まり、少女に視線を向けた。
淡い桃色のパーカーを羽織った少女だった。
(今日、一番に来てくれた子か)
講座中、秀道の話を何となくで聞いているように見えたため、終わって呼び止められるとは思わなかったのだ。
「なんでしょうか」
振り返るとき、堂内を見回してみたが、すでに鴉は本堂から出て行ったのか、見当たらなかった。
もしもこの子に青い糸がついていたとき、どうすればいいのかと悩んでいると……。
「あのっ、あたし、彩名ちゃんと同じクラスの綾井知穂と申します」
そう名乗ってきたのを聞き、秀道は目を細めた。
「ああ、あなたが知穂さんでしたか」
夕食時、彩名から学校の様子を聞いていたのだが、その中でよく名前の挙がる子だった。話を聞く限りでは少し変わっている子なのかと思っていたが、こうしてみると、どこにでもいそうな普通の少女だった。
「あの、彩名ちゃんはいますか?」
そこで秀道は気がついた。
この子は彩名に会うために講座に参加をしたのか、と。
なるほど、と秀道はうなずき、笑みを浮かべた。
「彩名なら、裏で掃除をしておるよ」
「掃除……ですか?」
「もう少ししたらお昼になるが、知穂さんも食べていくかい?」
その誘いに、知穂はあからさまに表情を変えた。
「あのっ、いいん……です、か?」
戸惑いの声を上げているが、歓喜に満ちている。
「あまり大したものは振る舞えないが、それでもよいのなら」
「…………」
知穂は少しだけ考えていたようだが、すぐににっこりと笑みを浮かべた。
「お邪魔させていただきます!」
たぶん、知穂はどうやって彩名と会おうかと悩んでいたのだろう。まさか秀道からそういう誘いがあるとは思っていなかったようで、そのことで戸惑っていたようだ。
「それでは、ご案内いたしましょう」
そう言って、秀道は知穂に先立ち、歩き出した。知穂は慌てて秀道の後に小走りでついて来ている。
この後、ちょっとした修羅場になることに、このときの秀道は知らない……。
§ § § § §
鴉は坐禅講座の講座部分の時まで、堂内で気配を殺して様子を見ていた。
(やけに女が多いな……。普段からなのか?)
大半の参加者が実は『噂の客人』である鴉見たさにやってきていたことを知らない鴉は、不思議な光景に首を傾げていた。
堂内にいて、青い糸が付いている人を探さなくても良さそうなのに、鴉は律儀に秀道に言われたことを実行していた。
(意外にいないもんなんだな)
あれだけ町中に青い糸がばらまかれていたのだ。一人くらい餌食になっている者がいても不思議はないのに、だれの指先にも青い糸はなかった。
秀道は坐禅の取り組み方を説明している。
(──つまらんな)
鴉は役目は終わったと言わんばかりにそっと堂内から外へと出た。
そして回りにだれもいないことを確認すると、とんっと地面を蹴り、本堂の屋根へとのぼった。いつものように、瓦の上に大の字に寝転がった。
(あー、昼はまだかな)
朝食もしっかり食べたはずなのに、鴉のお腹はすでにぐーっと鳴っている。
(見た目が好みだったら、問題なかったんだがな……)
鴉はそうして、一人の女性を思い出した。しかし、どうしてだろう、前はあんなに鮮明に思い出せていたのに、今ではぼんやりとしか思い出せない。
(あんなに愛していたのに……忘れてしまうなんて)
そのことに気がつき、鴉はぶるりと震えた。
(死んでも忘れないと……誓ったのに。『赤い糸』はあいつと繋がっていた──はずなの、に)
炎に巻かれて、腕の中で息絶えていくのを看取った。
もう、自分もダメだと思った時……。
(助けてやるって手を差し出された。どうして俺はあの時、素直に手を取ったんだ?)
最愛の人が腕の中で息絶えた。だから後を追う覚悟でいたというのに。
(いや……違う。俺はあの時、炎の中で死んだ……)
すっかり忘れていたことを鴉は思い出し、瓦の上に起き上がった。
(俺はあの時、死んだ……)
鴉は自分の両手をじっと見つめた。
(どういう……ことだ? 由良(ゆら)は死んだ人間を生き返らせることができるのか?)
鴉は右手を穴が空くほど視た。
(もしかして……)
長い間、なにも食べなくても平気だった身体。そのはずなのに、彩名と再会してからはお腹が空いて仕方がない。
(そんな……馬鹿なことが)
鴉は一つの仮説を立てたが、すぐに否定した。
(由良ほどの力の持ち主なら、死んだ人間を邪刻にすることくらい、朝飯前だろう。現に俺は由良に助けられて、邪刻になった)
鴉を助けた邪刻・由良。
長い間、共にしてきたが、鴉には未だに由良の正体が分かっていない。
人間離れした、美しい女の姿をしている。
(まあ実際、邪刻であって、人間ではないのだがな)
ふっと自分の思ったことに対して、鼻で笑ってしまった。
(由良がなにを思って俺を助けたのかなんて、由良にしか分からない。……まあ、気まぐれだから助けたんだろうが……)
それにしても、と鴉は思う。
(執念深い由良からなんの音沙汰がないのは……どうにも嫌な予感がする)
鴉はもう一度、右手をじっと見た。
鴉の右中指から伸びていた黒い糸は、今は影も形もない。それなのに、どうしてだろう。ここ数日、この指がむずむずとしているのだ。
(近づいて来ている……のか?)
気配はまったくないようだが、近くにいるのかもしれない。
(青い糸ってのが妙に引っかかりを覚えるんだよな……)
鴉は彩名に聞くまで、そんなものが存在していたことを知らなかった。
(青い糸を追えば、由良に行き着くような気がするんだよな)
由良の元にいるのが嫌になって、由良と繋がっていた黒い糸を断ち切って飛び出してきた鴉。
(黒の次は赤……か)
鴉は今度は左手を視た。忌々しいほど赤い糸は、鴉をあざ笑うかのように日差しを浴びて、輝いて見えた。
(くっそ……)
由良と繋がっていた黒い糸のように、今すぐ、断ち切ってしまいたい。
(俺は……だれに縛られることなく、好きなことをしたいんだ)
鴉は無駄だと知りながら、赤い糸を千切ろうと手を伸ばした。
(ん……?)
途端、下から風に乗り、いい匂いが漂ってきた。
「お、昼飯か!」
平日の昼は、彩名が用意してくれている物を食べるだけ。味噌汁なんて面倒で、作って食べない。だが、今日は彩名がいる。
「よっと」
鴉は屋根から滑り落ちるようにして降りると、一目散に庫裏へと向かった。
「今日のお昼は……」
庫裏の引き戸を開け、鴉はその光景に固まった。