【一章】迷惑な居候≪十二≫
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今の彩名の心の中はぐちゃぐちゃだ。自分の気持ちがさっぱり分からない。
学校に着き、知穂に話しかけられても上の空。
知穂はそんな彩名を見て、なにか感じるものがあったらしい。にやりと笑みを浮かべ、二・三度、大きくうなずいた。
今週に入ってから、東青寺に客人がいるという噂を、知穂の母が聞きつけてきた。
狭くて代わり映えのしないこの町は、少し変わったことがあるとあっという間に噂が広がってしまう。しかも客人がいるというのを知ったのは、町一番の噂好きなおばさんで、数日前に鴉を取り巻いていたうちの一人だ。
(彩名ちゃんの様子がおかしくなったのも今週の半ばくらいからだし、きっとその客人ってのが問題に違いないわ。だって、若くてなかなかかっこいいってお母さんが言っていたし!)
うふふ、と思わず笑い声が洩れてしまう。
(こうなったら、明日はなにがなんでもそのいい男を見に行かないと!)
彩名がどんな人が好きなのか、知穂は友だちとして確認しなければ! と変な使命に燃えてしまっていた。
(覚悟しておきなさいよ!)
だれがなにを覚悟しなければならないのか分からないが、本堂の屋根の上で寝転んでいた鴉はこのとき、悪寒が走ったところをみると、知穂は鴉に対してライバル意識を持っていた……のかもしれない。
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金曜日の授業も終わり、彩名はぼんやりと知穂とともに帰宅した。
彩名は心ここにあらず状態ではあったが、普段と変わらず食事も作った。風呂に入って、自室に戻るとなにもやる気が起こらず、布団に横になっていた。
(わたし、なにやってるんだろう……)
夕飯の時、鴉はいつもと変わらなかった。
彩名が用意していたおかずをよく食べたし、ご飯も三杯、食べていた。味噌汁もお代わりしていたような気がする。
(鴉のせいで、食費がすごい増えたんだよね……。おじいちゃんに言って、追加をもらわないと)
普段なら、彩名と秀道の二人分なので、それほど食費は掛からない。
しかし、鴉が東青寺にやってきてからまだ数日しか経っていないはずなのに、すでに一か月分の食費を使い切ってしまいそうな勢いになっていた。
(おじいちゃんも、いつまであいつをここに置いておくつもりなんだろう)
今日の朝、鴉を起こしに行ったとき、部屋にいなかった。
これでやっかいな人がいなくなったという喜びの裏で、落ち込んだ気持ちがあった。
鴉のことは初めからどうにも気にくわなかった。知れば知るほど、嫌なヤツだと思うし、正直、早くどこかに行ってくれないかなという気持ちが大きい。それなのに、彩名は鴉がいなくなったのかもしれないと知った時、喪失感を覚えてしまった。自分の心が信じられなかった。
挨拶もしないで出て行ったのかもという、やっぱり常識外れで信じられないヤツだったという自分が抱いていた鴉像が一致したことと、最後くらいきちんと別れの挨拶くらいして行きなさいよ! と思ったなんとも言えない寂寥感。
彩名の中で鴉に対する思いは相反するものがごちゃ混ぜに入り乱れていて、心が乱れる。
(あいつと会うまでは普通の高校生活だったのに……)
今も表面的には前と変わりがないように見える。
だけど彩名の心はあの頃の平穏さとはかけ離れてしまっていた。
(どうして……わたしの赤い糸はあいつと繋がっているんだろう)
彩名はここ数日、よく視るようになった左手小指をじっと見た。
(こんなたかが一本の糸のせいで、こんなに心が乱れるなんて……)
引っ張ったところで彩名の知る青い糸のように千切れてしまわないのは分かっていても、思わず、悪あがきをしてしまう。
「んーっ!」
やっぱり、いくら引っ張っても伸びるだけ。
しかも、こんなことをしているのが鴉にばれてしまう。
だから彩名は、悔しかったけれど赤い糸から手を離した。
今、思いっきり引っ張って断ち切ってしまおうとしたことに鴉が気がついてくるかもしれないと思ったけど、来たら知らない振りをすればいいと、しばらく耳を澄ましていたのだが、やってくる気配はなかった。
会いたくない。
と思うと同時に、顔を合わせてもどうせけんかになるのが分かっていても、側にいたい──。
こんな気持ちになるのはきっと、この赤い糸のせいだ。
(わたしが鴉に惹かれているなんて、ぜーったいにあり得ないんだからっ!)
それから彩名は、鴉の嫌なところを思い出して、必死に好きにならないようにしようとしたのだが、すでに手遅れだということを、彩名は知らなかった。
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彩名の土曜日は、平日と変わらない。むしろ、土曜日の方が忙しいかもしれない。
朝もいつもの時間に起きて、私服へと着替える。
長袖のTシャツに、膝丈のスカート。下にはスパッツを穿いている。
髪の毛を少し高い場所で一つに結び、拳を握って気合いを入れた。
東青寺では毎週土曜日に初心者向けの坐禅講座を開いている。参加人数は少ないものの、それでも毎週、誰かしらが参加してくれる。そのための準備を彩名も手伝わなくてはならないのだ。
庫裏へと向かい、朝食の用意をしていると、匂いに引かれたのか、鴉がやってきた。
「おはよう。美味しそうだな」
「……おはよう。今日は忙しいんだから、邪魔しないでよ!」
彩名は炊きたてのご飯でおにぎりを作りながら、鴉を睨み付けた。
「お、おにぎりか」
手を伸ばして食べようとしたのを、鴉の手を叩いて止めた。
「もう! これはお昼ご飯用なんだから!」
「なんだよ、一つくらいいいじゃないか」
鴉は恨めしそうな表情を彩名に向けた。
「だーめっ! お腹が空いてるんなら、朝ごはんは出来てるから! 炊飯器からご飯をよそって食べて」
彩名はおにぎりの具を入れながら、鴉に指示を出した。
「じゃあ、食べる」
「悪いんだけど、味噌汁も自分でやって」
「へーい」
いそいそと準備をしている彩名を横目で見つつ、鴉は言われるがままにご飯と味噌汁をよそい、席に着いた。
「あれ、じーさんは?」
「おじいちゃんなら、朝のお勤め」
鴉を味噌汁を一口すすった後、口を開いた。
「いつもならもう、終わってる時間じゃないか?」
彩名は呆れたように手を止め、鴉を見た。
「あのね、今日はわたしの準備がいつもより早いの。おじいちゃんはいつも通り!」
彩名に言われ、鴉は時計を見た。
確かにいつもの朝食の時間より三十分ほど早いかもしれない。
「今日、なにかあるのか?」
鴉に言われ、そうだと彩名は顔を向けた。
「今日はおじいちゃんが坐禅講座をするの。だから鴉、あんたは」
人前に出てこないでと言おうとしたところ、朝のお勤めを終えた秀道が庫裏に入ってきた。
「おはよう。彩名、すまないね」
秀道の声を聞き、彩名は笑みを浮かべて振り返った。
「あ、おじいちゃん。おはようございます」
庫裏の入口に、いつもと変わらない墨染めの衣を羽織った秀道が立っていた。
「鴉よ」
秀道は席に向かいながら、鴉を見た。
「おまえさんの今日の予定はどうなっておる?」
その質問に、鴉は手を止めた。
「あん? 見ての通り、予定ったって、あるわけがないだろう」
鴉の答えに、秀道は椅子に座ると笑みを浮かべた。
「ほう。それなら、わしの助手を務めてくれぬか?」
秀道のとんでもない申し出に、鴉ではなく、彩名が悲鳴を上げた。
「おじいちゃん! こんなヤツに……!」
彩名の言葉にかぶせるように、鴉が口を開いた。
「手伝い? 彩名に毎日、ただ飯食いって言われているからな。手伝ってやってもいいぜ」
鴉の言葉に、彩名は目を見開いて、鴉を見た。