12月10日(木)晴
ついにアフリカ大陸上陸

この日は朝8時に起きて地中海にオレンジ色の太陽が昇るのをじっと見ていた。いよいよモロッコに行く日が始まるのだと思うと感慨深かった。
その後、ホテルの食堂で軽く朝ご飯を食べたが、静かな食堂の中で朝から日本人ビジネスマンが携帯で「セニョール ナイトウ」と言う言葉を繰り返し言いながらでっかい声でしゃべっていて、電話を切ると「びしっと言ってやったから大丈夫だ!」と相棒に言って興奮していた。ご苦労様である。

フェリーは朝9時半発、タンジール着10時半(モロッコの時差はスペイン-1時間なので実質2時間)。意外と近代的なターミナルに行って、EU圏内を出る出国手続きをとったが、この時押されたスランプは船で出国した事を示す「船マーク付き」で、工藤君は「これは貴重だ!」と言って喜んでいた。

我々は早速大型のフェリー(船名はPunta Europa" =Europa Point)に乗り込んで席に座ったが、僕はこんな大きな船は久しぶりだなあと思った瞬間、僕の頭の中にセリーヌ・ディオンのMY HERT WILL GO ONががんがん鳴り始め「Every night in my dreams〜♪」という歌声が止まらなくなってしまい、フェリーがタイタニックに大変身。ついにはローズ!ジャック!と名場面が思い浮かび、たまたま船の最後尾で海を見ていたアメリカ人の熟年おばさんが老年期のローズおばあちゃんの姿にダブって見え、写真(下)まで撮ってしまった。我ながらつくづく単純なヤツである。

この時、まだ寒い風を受けながら後部甲板のスペイン国旗のポールの下に立ち遠くに見えるジブラルタルを見ている時や、船が海峡に出て甲板に革ジャンを敷いてアフリカの太陽を受けて日なたぼっこをしている時が、この旅で来て良かったと一番思った瞬間かもしれない。昔、実家の縁側で干した布団の上で昼寝をした事を思い出し、できる事ならばその場で寝てしまいたかった。

僕は船内をふらふらしているとパスポートを持って並んでいるモロッコ人を発見、良く見ると白人のバックパッカー君も並んでいたので入国審査に違いないと思ってパスポートを持って並ぶと、やはりそうで入国管理官(メガネをかけたフランス留学しました風の30前後のモロッコ人)が1人だけ座って黙々とチェックをしていた(入国管理官が座っていたテーブルの写真が下)。

このフェリーは国際航路なので船の船首にある単なる食堂の一室を臨時に貸し切ってそこの食堂の白いテーブルで入国審査をやっていた。
僕はスタンプを押してもらって、席に戻って工藤君に教えると彼も早速行ったが、チェックしてもらおうとすると、入ってはいけないその食堂にアメリカ人の熟年のおっさんが入って来て、ふらふらするので管理官さんが工藤君に「おまえの連れか?」と聞き、工藤君が「違う」と言ったので、管理官が注意したのに気づかないので、工藤君が
「耳が遠くて聞こえなんじゃないか?」と言うと、管理官さんは
「あいつらはステューピッド(バカ・マヌケ)だ、ここで手続きをしないと後で大変なんだ。モロッコ人を見ろ、乗船したらすぐ俺のところにやって来る」
とブーブー言っていたそうで、工藤君はおもしろかったと喜んで席に帰って来た。


船はアルヘシラスから一旦時計回りに湾を出てからはあとはひたすら西南に向かい、途中ヨーロッパ最南端のタリファ岬(ジブラルタルは最南端では無い)の灯台が遠くに見え、工藤君が持って来た双眼鏡で灯台を見せてもらった(彼はカメラを持って来ないのに双眼鏡を2つも持って来る変わった人だ)。タリファ岬を通過すそこからはもう大西洋。甲板の風が気持ち良かった。
出航してから約2時間半経ってようやく船が南に船首を向け、アフリカの大地がどんどん迫って来て海の色も濃紺から緑がかった色に変わり、遠くになだらかな丘全体に白い家々が建ち並び、丘の上にモスクのミナレット(お祈りの時間を知らせる光塔)が建つタンジールの街が見えて来て、フェリーはいよいよ白い壁の家々が並ぶタンジール港に入港した。

タンジールは古くからベルベル人が住む街で、戦略的要所なので紀元前から都市として栄えたが、調べてみるとなんとも数奇な運命を辿って来た街だ。
ものの本によると、古くはフェニキア、ローマ、後ウマイヤ朝。15世紀以降はスペインとポルトガルが代わるがわる支配し、1661年にはポルトガル王女の持参金(!)代わりとしてイギリスに贈られ、その後1684年にイスラム勢力に奪還されたが、モロッコ全土がフランス保護領になった後はタンジールはフランス・イギリス・スペインが覇権を争い、ようやく1928年に10数カ国(第一世界大戦の戦勝国の日本も含む)の共同管理になった。この時代のタンジールは自由貿易港になって実業家、密輸入商人、スパイ、画家、小説家達がひしめき合ったある種の最盛期で、1900年〜1940年代まではマチス、ドラクロア、ドンゲンがこの地で数々の絵を描いた。その後スペインがまた支配したが、1957年にモロッコ独立後やっとベルベル人のもとに戻ったそうだ。
実に数々の支配者に支配されても紀元前からベルベル人が住んでいたわけで、このような状態の都市に先祖代々住んでいる人達はどのような気質なのだろうかと興味が湧いた。

しかし、答えはすぐわかった。

船を降りると胸に顔写真付きの身分証明書を付けた自称ガイドに取り囲まれ、うるさいうるさい。
「ノノノノノノノノノノ」
とずーっと「ノ」と言っているとガイドの気勢をそいだようで、工藤証言によると後ろにいた自称ガイドが「ノノノノ」とマネをしていたそうだ。また、なぜか工藤君ではなく僕にだけ売り込みがあったそうだが、僕はまっすぐ前を向いてつき進んでいたので周りの状況は良くわからなかった。フェリー降り場から300m以上も歩いてもまだ売り込みが続き、変な若いヤツが
「アイム スチューデント」
と言い寄って来た。スチューデントと言う言葉にいったい何の意味があると言うのだ。学生だと言うと安心するとでも思っているのだろうか?目的が見え透いている。
僕は「ノノノノ」
と言うと
「ホワイ ノー?」
と言われたが、無視して突き進んだ。
「アーユージャパニーズ?」とも言われたが
「我是中国人(ウォーシーチュンクオレン)」と中国語で言って撃退しようとしたがそれでもつきまとわれたので「プーヨー(不要)、プーヨー(不要)」とだけ言った。
彼らの目的はわかっていた。カーペット屋に連れて行ってカーペットを買わせたいのだ。どこの国であろうと外国人はタンジールにお金を落としていけばいいのだ、金を持っている人間はタンジールのベルベル人の言う通り金を使って当然なのだ。
ところが、彼らは当然知らないが、僕はカーペットを買っても良いと考えていたまれにみる上客だったのだ!^O^

売り込みを振り切りながら早歩きで歩いて、ようやく港の出口の門(フェリー降り場から500m位ある)を出た頃は汗をかく程になっていて、ここで初めてタンジールの暖かさに気づいた。気温は20度以上はあった。
我々はとりあえずメディナ(旧市街)に入ってホテル・コンチネンタルという高級ホテルでミント・ティーを飲むことにしてメディナの入口から入ったら、もうそこは迷路の世界。
狭い路地が続き、高い白や灰色の壁に囲まれてしまうので、自分がどこにいるのかさっぱりわからなくなり、しばらく歩くとモスク(グラン・モスクだったらしい)の前を通り港が見える高台に出たのでなんとなく位置がわかったが、疲れたので僕の提案で街の地元色100%のカフェに入った。
ここで、日が当たる席に座って初めて本場のミント・ティーを注文。
出てきたミント・ティーは甘くて熱い紅茶が寸胴のコップに入っていて、コップの中は上半分がミントの葉で埋まっていた(写真下)。

意外な程ミント臭く無く、ミントのすっとした感じが良かった。おいしかったが、猫手、猫舌の工藤君にはなかなか飲めなかったようだ。値段は2人で30ディラハムだった(1ディラハムは13円程度=390円。タンジールではスペインペセタ、アメリカドルも使える)。ここで生まれて始めてアラビア語で「シュクラン」(ありがとう)と言った。
しばらくじっとしていたが、日が当たる席は暑く、我々は日陰の席に移った。このカフェから見える通行人はやはり今まで見たこともない人達で、黄緑色やベージュの長い服にベールをかぶった女性、頭に水色や紺色の小さなベレー帽のような帽子をかぶった老人、全身を隠すような黒くて長い服を着た「ネズミ男」みたいな男性、長方形の服地の真ん中に穴を開けて頭を通しただけに見える上着を着た若者等々、見ていて飽きなかった。
われわれはカフェを出て、商店街がある通りの先にあるというメディナの中心にある広場プチ・ソッコを目指してまた歩き始めたら建物の上の方から「ドコカラキタ?」と(アクセントが全く無い発音で)まる
で天の声の様に言われてしまい笑ってしまった。
カフェを出ると我々はまた迷ってしまい、途中通りが少しだけ広くなっている所があって「ここがプチ・ソッコだったら詐欺だよね〜」などと言いながら歩いた(そこがプチ・ソッコでしたby工藤)、大きな広場(グラン・ソッコ)に出て、イスラム風の門を入りヨーロッパ風の建物が並ぶ街のきたない道を歩いてみると、

店内は赤を基調としたイスラム風のインテリア(写真下)で、店内のスタッフも白くて高さが15cm位あるトルコ帽をかぶり、赤い民族衣装を着ていた。

ところが広い店内はガラガラ、貸し切り状態でお客は柱の影にいて姿が見えないもう1組と我々だけだった。工藤君が地図を見ると我々はメディナの中で迷っていると思っていたが、このレストランはメディナの外にあった、我々はいつの間にかメディナの外側をうろうろしていたのだ。

さて、待ちに待ったモロッコ料理。テーブルに付くとゆったりとした物腰の民族衣装を着た英語、スペイン語が達者なおじさんが来て、飲み物の注文取りの時に
「日本人か?中国人か?」と聞かれたので
「日本人」と答えるとにこっとして
「ノーコミュニストマネー」
と笑顔で言って去っていった。今時共産主義者のお金はお断りなんて随分古いジョークだと思ったが笑ってしまった。
店の中では店員の会話の中にしょっちゅう「ジャパンジャパン」と出てきて、なんだか「マネーマネー」と言われているような気がしてあまり良い気持ちがしなかった。

料理の注文は、念願の羊の串焼き「カバブ」、アフリカ風餃子「パスティーリャ」、アフリカを代表する主食「クスクス」、そしてまたまた「ミント・ティー」を注文。
モロッコに行った事がある人は料理がおいしいと証言していたので結構期待していたが、羊の「カバブ」(シシ・カバブはつくねの様に羊の肉のミンチを串に巻いて焼いたもの。カバブは肉を串に通して焼いたもの)は、1人2串で羊はハーブがほんのり効いておいしく、期待通りうまかった。塩加減や油の加減が日本人の味覚に合っているのだろう(写真下左)。
アフリカ風餃子「パスティーリャ」は一辺10cm位ある三角形で、確かにぱりぱりの皮の中にカレー味のチキン(ガイドブックには鳩の肉も使うと書いてあったが、僕にはチキンと区別がつかなかった)と野菜が入っていて餃子的でおいしかったが、何故か粉砂糖と少量のシナモンの粉がかけてあった。

クスクスが出てきた時はこれがクスクスかと感慨深かった。直径15cm位の大きさに黄色いクスクスが円形に盛りつけられていて、その上にピクルスに似たもの、人参、プルーン、キャベツを柔らかく煮たものが盛りつけられ、食べると中に大きな羊肉のブロックが入っていて、これがスプーンでも崩れる位に柔らかく煮えていた(写真下右)。

 
クスクスは小麦粉(スパゲティーに使うセモリナの粉)をふるったものを蒸して作るんだそうだが、薄味でおいしかった。スープをかけて食べるのが普通だとも聞いていたがここの店ではスープは出てこなかった(普通はクスクスの中に盛ってあった肉や野菜とスープが別皿に盛られてくるらしいのです=カレーライスのルーとライスの関係 by工藤)。クスクスは腹持ちが非常に良く、僕はこの日夕食を食べないで済んでしまった、僕としては画期的な事だ。工藤君にはこのクスクスはかなりヘビーだったようで1/4位残していた。
デザートはアーモンドの粉を白い皮で包んで焼いた、これまた餃子のような形をしたお菓子と、やはりア
ーモンドの粉を甘いぱりぱりの皮で包んで揚げた三角形のお菓子が出てきて、コップの中の3/4がミントの葉で埋めつくされたミント・ティーをすすりながら食べた。民族衣装のおじさんは「ムスレムはお酒を飲まないのでこれを飲む」と解説してくれたが、お酒の変わりに飲む飲み物とは思えなかった、デザートも工藤君は手をつけられなかったので、僕は「餃子タイプ」のお菓子を紙ナプキンにつつんで持ち帰った。
食べている時に白い衣装に金色の唐草模様の帽子をかぶった音楽隊がモロッコの民族音楽を演奏してくれたが、他にお客がいなくて、店の奥を向いて座っている私の顔を見ながら演奏するので真剣に聞いてしまった(ところがこの音楽隊にチップ=写真を買う形を500Pts払ったのは工藤君だった。食事代はアメリカドルで50ドル=5,800円を払った。下の写真がその時の写真)。

モロッコに入ってから工藤君が「いかがですか?だんな様?」とツアコンモードの会話のお客様がいつの間にかだんな様に変化していて、「何それ?」と聞くと「なんだかそうなった」と言っていた。
彼は大英帝国ジブラルタル領では「いかがでございますか?閣下」と言っていたので僕の頭の中の音楽と一緒で自然にそうなってしまうのだろう。

最後に店を出る時に、アラビア語で「ブッスラーマ」(さようなら)と言うと、音楽隊は喜んでくれて口々に「ブッスラーマ」と言っていた(出発の前々週に見た「世界ウルルン滞在記」で「モロッコの迷宮都市フェズで俳優の伊藤英明が金を稼ぐ!」という回があって、そこで紹介していたアラビア語は(ぶつかりそうになってたりして)「ちょっとすみません」は「すんまへんな」(正確にはィスマヘンナ。「すんまへんな」と言っても充分通じる)、親愛の情を示す「お前はおれの兄弟だ」は「あんたアホや」(正確にはアンタアホーヤ)で、なぜか大阪弁に似ていた。テレビで見ている時は本当か?と思っていたが、現地の人に確認したら本当だった)。

食事が終わって、またプチ・ソッコ周辺を歩いていると、またまた
「エクスキューズミー!エクスキューズミー!アイム ステューデント」
と言う威勢の良いヤツがまた僕に寄って来て、追い払おうと思ったが、こいつは誘い方がうまかったのか満腹状態で気持ちに余裕があったからか、なんとなく後をついていってしまった。
「マイネーム イズ ハッサン」(工藤証言によると、最初の自己紹介はアブドゥラーと言っていたそうだが、道で会う人がみんなハッサンと呼んでいたので以下ハッサンと呼ぶ)と言うこいつは、自称25歳の学生で、白と黒の細かい縦の編み目の長方形の麻のような服地に穴を開け、左右に袖を付けただけのような服を着てスニーカーをはいていた。子供が2人いるそうで、自分はベルベル人だから安心して下さい、バッドピープルとは違うとか言って自己PRをしていた。僕はタンジールはほどんどベルベル人なのにベルベル人であることを売り物にすることが不思議だったが、工藤証言によるとアラビア人と比較していたそうだ。

彼は頼みもしないのにパンを焼いている所や、炭をおこしている場所を案内して「フォト OK !」と言われたがお金をとられると思って撮らなかった。そうこうしているうちに、メディナの路地をどんどん進み、やはりと言うか定番と言うかカーペット屋にひゅっと入った。

暗いカーペット屋には禿おやじ(意外と若いかもしれない。左の写真の右側がカーペット屋、左側がハッサン)が待っていて、店の一番奥の椅子に座ると、ガイドブックに書かれていた通りアメリカ人や日本人が書いた船便の伝票を見せて安心させようとしていた。僕がカーペットを見始めると、このカーペットはシルク100%だからライターで火をつけても焦げないとか(後で触ってみたらしっかり焦げていた)、カーペットをひっくり返して見せて夏はこっちの面を上にすれば涼しげで良いとか言っていたが、買ってもいいかなあと思い「僕の予算は200ドルだ」と言うと商談開始。日本のふとんの2まわり位大きいサイズのカーペットを何枚も見せられたが、薦められるデザインが気に入らなかったので、これもダメ、あれもダメと言っていたら、これなら買ってもいいかと思わせる赤い柄のカーペットがあって、大騒ぎの値引き交渉の末400ドル(46,000円)だと言っていたカーペットをカーペットの良し悪しを見る目も無く、しかも値切りが足りないと思ったが2,500ディラハム(約32,000円)で買ってしまった(写真左下が問題のカーペット=薄かった)。

僕は現金で2,500ディラハムも持っている訳がないので、持っていないと言うと新市街にある銀行のATM まで行こうという事になって、ハッサンと一緒にメディナを抜けて歩いて行った。
途中わざわざ市場の中を歩いて案内してくれたが、ハッサンは10m歩く度に知り合いに合い挨拶していた。驚く程の知り合いの数で、人口が30万人もいる都市なのにこれは意外だった。工藤君は「ユー アー ベリー ポピュラー」と言っていたが、本当に知り合いが多い。
ATMでお金を降ろしてお金が足りない足りてるのすったもんだの末、お金を渡して商談は終了(ほとんど100ディラハム札=1,300円だったのでやけに大金に見えた。ハッサンの態度がお金を渡す段になると急に強気になったのが気に入らなかった。7万円のカーペットを買った人のトラブル体験記が載っている「海外トラブルメニュー」は
こちら)。
ここで夕方の4時になっていたので、7時にフェリーで帰る予定だった我々はハッサンに見晴らしが良いとガイドブックに書いてあった見晴らし台のカスバに行く道を聞いて別れた。ハッサンは別れ際にチップをくれと言ったが、僕はカーペット代で充分だろうと思っていたので「まだ言うか」とムっとして応じなかったが、工藤君は「田中さん渋いねー」と言いながら渡していた。
その後、カフェでコップに入ったミルクコーヒーを飲んで休憩。通りを歩く人達を見ていたが、ここでスーツを着た若いビジネスマンを初めて見た。タンジールでは東洋人も見なかったがスーツを着た人もこの時見た1人だけだった。

休憩後はハッサンに言われた通りに歩いたが、どう見ても違うので最も大きな広場グラン・ソッコに出たら、またまたハッサンに会ってしまった。
「オー!なにやってるんですか?」
と聞くので、
「良い景色が見たい」
と言ったら、
「オーケー タクシーで行きましょう」
と言ってくれて小さなタクシーでガイドブックに載っていない見晴らし台(位置的にはカスバ=行こうと思っていた場所の裏手と思われます by工藤)まで連れて行ってくれた。ここは手すりも無い半ドーム状の大きな灰色の岩で、所々にローマ時代の遺跡の跡だという墓穴のような長方形の穴があった。
真下に大西洋が広がり、上から見るタンジールの街が右手に広がり、その向こうにはフェリーが停泊している港が見えた。

遥か下(100m位下)に海岸が見え、我々がいる岩の上まで波が砕ける音が聞こえた。海岸に打ち寄せる大きな波は地中海沿岸では見れないものなので、外洋=大西洋に面している事を実感した(写真左)。
ハッサンがヨーロッパ最南端のタリファ岬までは14kmしか離れていないと教えてくれた、ここは本当に良い景色で写真を撮ろうと前に進むとハッサンが
「エクスキューズミー!エクスキューズミー!そこは危ないです。昔落ちた人がいます」
と注意してくれた。

帰りはタクシーがつかまらなかったので歩いて丘を下ったが、途中ローマ時代の墓地の跡や小さなパン工場を案内してくれて蒸す前のクスクスを写真に撮った(単なる粉だが)。
ハッサンは丘を下る時も知り合いだらけで、5人いる兄弟のうち2人まで会った。しかも彼は道端に座って物乞いしている人に例外なく施しをしていて、それも道の反対側に座っている物乞いにわざわざ道を渡して行くので、いったいこれはいかなる事かと不思議に思って見ていると、工藤君が「施しはイスラムの伝統なんです。確か本来は商売だって認められていないんじゃないかな?」と解説してくれた。
帰国後読んだものの本によると、コーランでは罰は殺人・傷害・姦通・中傷・飲酒・窃盗・豚肉/死肉を食べる事、利子をとる事で、信仰上守らなければならないものとしては「五行」と呼ばれるものがあり、信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼が「行」として守られているとの事。
「喜捨」(きしゃ)は施しの事で、アラーの神の恩寵によって得た財産は喜んで施すので「喜捨」と言うそうで、コーランではこの世の終わりの時に人間は1人残らず墓から出され、死ぬ前と同じ服装で神の前に出て審判を受けるが、この時生前の善行が書かれたノートを計りにかけてノートが重いと楽園に行けると書かれているそうだ。
施しは「義務」で、もらう方は「権利」と思っているそうだ。そうとわかって思いおこすと、ハッサンは信仰心が厚い人間だったのだ。

さて、ハッサンにはお土産を買いたいと言ったが、タンジールは日が落ちると店が閉まってデンジャラスだと言うので早く帰った方が良いと言われたので、最初に考えていた7時のフェリーを6時に早めて帰る事にした。
ハッサンには港に行く道を教えてもらって別れた、「また来たらグラン・ソッコにいるから」と言って最後までPRしていたが、最終的にはうさん臭いが憎めないヤツだったので、アラビア式の別れの挨拶(両側の頬にキスをする挨拶)に応じてしまった(髭が痛かった)。

工藤君はハッサンと別れた後、
「ここは典型的なムラ社会なので、よそ者が現地人を一人もそばに連れていないとどんな目に遭うか判ったもんじゃないので、そういう意味ではガイドを雇うというのは理にかなっているのかも知れない。」
とコメントしていた(左の写真はハッサンと別れた直後に撮った、タンジールの典型的な街角の風景)。

道を歩いている人の視線は、カーペットを買う前はカメラに注がれていたが、ハッサンから黒いビニール袋に入ったカーペットを受け取った途端、みなさんの目は筒状の黒いビニール袋に集中していた。カーペット、イコール金なのだろう。
ちなみに「世界ウルルン滞在記」で荷物運びして買ったお金で買ったロバの値段とカーペットの値段が全く同じだった。モロッコでは32,000円でロバかカーペットが買えるのだ(実はカーペットの方が安いかもしれない。僕は当分の間デパートのカーペット売場には恐くて行けない......。帰国後カーペット屋でカーペットを広げるアルバイトをしていたという会社の松原君(
憧れの「ギリシャ・エーゲ海、バンコク日記」の作者)に値段を言ったら、「3万円?玄関マットですか?僕が広げていたカーペットは20万円位でしたよ」と言っていた。会社の経理部の女性がモロッコに行った時は同じツアーの新婚さんが20万円のカーペットを買ったそうで3万円は相当安いカーペットのようだった。そもそもビニール袋にまるめて入れて持ち歩けるカーペットなんて高級品とは言えないだろう)。

フェリー乗り場には黒山の人だかりがあって、胸に顔写真入りの身分証明書らしきものを付けたおっさんが「ついて来い」と言うので、今度は何をしてお金を要求するつもりだと思いながら歩いて行った方向が出国ゲートなので同じ方向に歩いていくと、実はそいつは出国カードの代書屋で、
「来る時にもらった紙は入国用で出国には使えない。私が持ってるから書いてあげる」
と言って勝手にへたな字で書いてしまった、こういう事かと思っていると、手数料をくれと言いだしたので4ドルをあげて、やれやれと思っていると、俺にもくれと代書もしていないくっついて来ただけの仲間がしつこく言ってくるので、施しの精神で1〜2ドルくれてやろうとして札を見せると、少ないと贅沢な文句を事を言うので
「もう彼に払った、あっち行け ゲラウトヒア!ゲラウト!」
と大きな声で言ったら黙ってどこかに行った。あんなヤツに施しなんかやる必要はない!

ようやく騒ぎも収まり、今度は大きな荷物を持ったモロッコ人が圧倒的に多い出国手続きの人の列に並んでいると、僕の前に並んでいた女性の手のひらと手の甲全体に焦げ茶色の粗いレースのような模様が書いてあってしげしげと見てしまった。これは消えてしまう入れ墨で没食子(もつしょくし=正体不明)、炭、油、香料を混ぜた「ハルクス」と呼ばれる絵の具で書くそうだ。アラブの女性は顔と手以外は表に出ていないので数少ないおしゃれとして顔にも「ハルクス」で線や点を書き、手にレース模様の様なものを書くのは肌の白さを際だたせる為のおしゃれなんだそうだ。人種が変わると価値観も随分違うものだ。

帰りに乗ったフェリーはフランスの会社の船(Banasa Tanger号)で、来る時のフェリーとは随分違う新しく大きな船で、キャビンには綺麗な免税店があるし、カフェテリアも綺麗だった。
我々はカフェテリアのテーブルに日本から持って来たコンパスを置いて船の進行方向を確認しながらのんびりした。日没後のタンジールを見るとハッサンが言ったように、明かりが少なく暗かった。
ハッサンが「来週(12/19〜)からラマダン(断食月)だ」と言っていたが、日没後しかものが食べれないラマダン中はタンジールも夜はぎやかになるのだろう。
(断食は五行の一つで重要な行事で、ラマダン月はイスラム歴の9月にあり、日の出から日没までは飲食・喫煙は一切禁止。イスラム歴は1年が354日なので太陽暦とはずれていくので、去年は年明けにやった。ちなみにイスラム教はユダヤ教から発したのでキリスト教とは兄弟関係。1998年12月19日はイスラム歴で1377年9月1日、イスラム歴の起算年はマホメットがメッカからメディナにヒジュラ=聖遷をした年だそうだ)
真っ暗な海峡をフェリーは進み、スペインに着いたのは午後9時半過ぎ。
やれやれと思って出口に行くと、出口に大勢のモロッコ人がいて、出口が開くと大きな荷物を持ったモロッコ人が我も我もと殺到して、無秩序そのもの、あげくの果てには出口の手前で大きな荷物を持った若いモロッコ人のにいちゃんが混雑に怒っていきなりスーツケースや手に持っていた大きな荷物を放り出してどこかに行ってしまうものだから、さらに大混乱。
工藤君は「この人達とだけはタイタニックに一緒に乗りたくない」とか「トルシエが、以前アフリカチームの監督に就任して、まず最初に行ったのが秩序の徹底だと言っていたが、その意味が今になってわかった」と言っていた。

アルヘシラス港に着くとうるさい売り込みが1人もいない静かな埠頭で、最短14kmしか離れていない海峡の北と南ではこうも世界が違うものかと感慨深かった。

この日は昼に食べたクスクスのおかげでお腹が空かなかったので、10時過ぎにホテルに帰って夕御飯を食べないで寝てしまった(工藤君はユーロスポーツチャンネルでダーツの大会をおもしろそうに見ていた。彼はまた僕が寝てからもサッカーを見ていたらしい)。


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