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私的武道講座 |
第1章 動きの意義 ・体を作る 〜 居取り 〜 親英体道では居取りと言って、正座した状態での技があり、基本とされています、特に初心者の方はまず居取りから体の動きを学び、立ち技(立った状態での技)はその後にと言った流れになっています なぜ、居取りなのでしょうか? 座ったまま動くと言うことは結構大変ですよね?正座の状態からつま先を立てて、踵の上にお尻が乗った状態(起座)で右左動いてみてください、 何回か動いていると膝は痛くなるし、姿勢だって左右に大きくぶれますよね? 姿勢良いまま移動するとなるとある程度のコツが必要になります。 やはり下半身が安定しない限りうまくいかないのです。 最近では椅子に座ることが多くなり、骨盤が小さく縮んで姿勢に影響をもたらします(私もそうでした!)、この座ったままの動きでは骨盤の運動が多く行われ、骨盤を前後左右に柔軟性のある動きにしていきます、よって縮んでいた骨盤を広げて安定感のある下半身にしていきます。 下手なりに自分で精一杯大きく動いていくと移動距離がだんだん大きくなり、技の効きもよくなります。 腰が安定してきた所で、移動距離の大きい立ち技をやると言うことになります。 ![]() |
〜 投げられるということ 〜 たとえば柔道などは投げ技が主流ですが、まず投げられ方(受身)を学びますよね(高校生のとき授業でやった記憶です)、親英体道では特に受身を教わると言うことがなく、ドタバタ音をあまり立てずに転びます。 最初は転んで気を付けてもバタンバタン音がしてしまい、なんかこう体が硬く畳にあたって痛かった覚えがあります。 体を丸めて力を抜き柔軟性をもっていけば、逆に投げられると体がほぐれます。ふんばって体をこわばらせる事は怪我にもつながり危険なのです。柔軟性をもって投げられると言うことは、技をかけられたと言うよりも体作りの為の動きの一つと考えたほうがわかりやすいと思います。 関節の柔軟性を測り、腰の動きの滑らかさを養います。この武道で言う体作り(強い体を作る)と言うことは、 鉄のような頑強な体のことではなく、本来自分の持っている体格を取り戻し、それ以上に柔軟性を増すということです。 |
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- 第一章 動きの意義 まとめ - 人それぞれ体格・性格・生活環境は異なります。 それと共に体つきも異なります。 そのもって生まれた良い個性を伸ばしていけます、自分の知らなかった部分、良い、悪い部分がはっきりと見えてきます。 悪いと感じた部分はやっぱり気になります。 前向きに 「そんな所なくしたい!」 って思ってしまうんです。 自分を知るって事は良いところ悪いところを認めると言うことだと思います。 いろんなことに囚われていると、自分が見えてこなかったりストレスになります、心も体も自然な感じに近づけていく事が今必要なことのような気がします。 その手助けという意味での武道のあり方もありではないのでしょうか? |
第2章 精神的向上 〜 第一歩 〜 武道と言えばもう一つ大事なことがあります、精神的に強くなると言うことです。 すべての物事は相反する物でできています。天と地、光と影、善と悪・・・etc お互いが同じ力でバランスよく活動するのでこの世界が動いていると言ってもおかしくありません。 これは、武道の世界でもおなじで心と体相反するものが、絶妙なバランスで動いて初めて大きな力が生まれます。 と、文章で書くのは楽チン!思った通り体を動かすのはムズカシイ! 自分の持っている動きのイメージと、実際の動きがなかなか同じになりません。(結構イライラすることも・・・) これをじっと我慢して、今のできる自分の最高の集中力を使って(気を使って)動いていくと、だんだん思った通りに動けるようになります。自然に自分の長所、短所を知るようになります。自分がわかると なぜか周りが良く見えるようになるんです。 自分を知る羽目になると → 自分がいやになる → 自暴自棄になる。 となりそうですが、そうならないのが不思議で、 ・短所→直したくなる ・長所→自分が好きになる と変わっていきます。一言でいえば前向き、楽天的に自分が変わっていくのがわかります。 何故そうなるのか? それは稽古で大きな気の流れの中で自分が、もまれていく。するとその気の中で心と体が浄化され、生成化育されるからなんです。つねに自分ではない周りのものに生かされ、育ててもらっているってことだと思います。 |
〜 第二歩 [自分をさらけ出そう!] 〜 この武道では必ず人と接触をします。(片手を取ったり、肩をつかんだり)人間というものはすごいもので、人と触れることで感情という物が伝わります。当然嫌な気持ちで相手に触れると相手に不快感を与えますし、気持ちの良い時はお互いが明るくいい信頼関係が生まれます。 武道の上では、人に触れると共にその時の感情や、体調が動きにも出てきてしまいます。 ということは周りで見ている人や、一緒に稽古している人たちに長所や短所をばっちり見られている、ってことになります。(恐ろしい・・・) 普段の生活で、「君のここが悪い!」とか言われたら腹が立って平静を失って、何とか口で弁解したりして、自分を正当化しようとします。 中々自分自身を見直すって事がないような気がします。 しかし武道では相手がある事、心持が悪いと相手に怪我をさせたり不快感を与えたりって感じになってしまいます。 なのでどうしても、自分の欠点と向き合わなくてはいけなくなってしまうんですよね。 しかも親英体道はやさしい武道と言う目標がありますので、人間的にも技的にもやさしく(表面上ではなく)常に成長していきたいと思わないと、自分自身向上できません。 自分自身を裸にすると言うことは、勇気のいることだと思いますが裸になったところから、初めて学ぶことの方がいろんなものが見えてきます。 ”恥ずかしい部分も、誇れる部分も自分自身なのだから思いっきり見せてしまえ!”みたいな感じでさらけ出せば、おのずとやるべきことが見えてくるのではないでしょうか。 |
- 第二章 精神的向上 まとめ - 人間は何のために生まれて、何のために生きているのだろう。 一生の間にいろいろな事が起こり、我慢したり腹を立てたり、何を求めてこの世に生を受けたのか、こういう事の疑問て一生続くような気がします。 そういうことの疑問に第2章で述べた事を続けることにより少しでも解消出来るのではないかと思います。 ここまでくると深い話になってしまいますが、人間我を知り長所を生かし、世の役に立つ。これがやはり自分自身がこの世に生を受けた理由なのではと思われてなりません。 そのためには、やはり自分自身を磨いてゆく事が必要になるし、その為には世間に揉まれる事が一番ではないかと思います。 武道の稽古だけではなく普段の生活に気を使い、周りの人たちと和を持ちながら、心豊かな生活を送る。心にひとつテーマを持ちながらそれに向かって生活してゆく。それが自分自身だけでなく周りに居る人々の気持ちとひとつになれる方法ではないかと思います。 その手助けという意味での武道のあり方もありではないのでしょうか? |