水燿通信とは |
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293号いつの生(よ)か鯨でありし |
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分子生物学者福岡伸一はその著『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』(2009、2、25 木楽舎刊)という本の中で、〈すべてのボディ・パーツの仕組みは機械のアナロジーとして理解できる〉(以下、『動的平衡』からの引用は〈 〉で示す)と考えたルネ・デカルトを信奉するカルティジィアン(デカルト主義者)の思考に疑問を呈し、その思考に反証するため、ライアル・ワトソンの〈問題は、動物には意識というものがないと、私たちが何時の頃からか思い込んでいることだ〉という言葉を示し、ワトソンが語った次のような話を紹介している。 |
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南アフリカのクリスナには、1世紀ほど前には500頭ほどの象が棲息していたが、徹底的な象牙乱獲の結果急激に減少し、1990年には遂にたった1頭を残すのみとなった。その1頭とは〈おそらく過去にも目撃されてきた母親象だった。推定年齢45歳。このクリスナ最後の象は、人びとから「大母(メイトリアーク)」と呼ばれる雌だった。〉それから数年後、その最後の母象が行方不明になっているという報告を聞いたワトソンは、メイトリアークを探しに、確信を持って、かつて象を見たことがある南アフリカのある場所、つまり〈クリスナ地区から国道を越え、森林地帯が終わるところ。そこでアフリカの台地は突然、崖となり、その下の海面に垂直に落ち込む。切り立った壁の上から大海原が見渡せる〉所に向かった。はたしてワトソンは、その崖の上にたたずむメイトリアークを見つけた。ワトソンは〈この偉大なる母が、生まれて初めての孤独を経験している〉様を見て〈救いのない悲しみ〉に押しつぶされそうになった。ところがつぎの瞬間、驚くべきことが起こったのだ。ワトソンは書いている。〈空気に鼓動が戻ってきた。私はそれを感じ、徐々にその意味を理解した。シロナガスクジラが海面に浮かび上がり、じっと岸のほうを向いていた。潮を吹きだす穴までがはっきりと見えた。太母は、この鯨に会いにきていたのだ。海で最も大きな生き物と、陸で最も大きな生き物が、ほんの100ヤードの距離で向かい合っている。そして間違いなく、意思を通じあわせている。超低周波音の声で語りあっている。…この美しい稀有な女性たちは、ケープの海岸の垣根越しに、互いの苦労を分かち合っていた。女同士で、太母同士で、種の終わりを目前に控えた生き残り同士で〉。 |
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象と鯨が語り合っている……、この事実を知って私はショックを受けた。私たち人間は、象と鯨が話し合うことなど出来るわけがないと思いこんでいるが、それは私たちが単に超低周波音を聴き分ける能力を持っていないからだけなのだというわけだ。おそらく他の生物の場合も、彼らは人間の知ることの出来ない多様な能力を有しているに違いない。私たちは自然界で起こっていることのほんの一部しか感知することができないのだ。ワトソンのこの話には、彼がなぜこの鯨が雌で老いていると思ったかについての説明が十分になされていないが、それでも象と鯨が超低周波音で語り合っているという話は、私に我々人間は自然界の中ではいかにも小さな存在に過ぎないのだということを強く感じさせた。 |
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私は『動的平衡』で扱われている分子生物学に関してはまるで疎いが、この老いた象と鯨の話は私の心に深く沁みこみ、美しく哀しいこの情景を永く忘れられなかった。そんなある時、『俳句研究年鑑』(2011年版)で次のような句を見つけた。 |
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象と鯨を一緒にとりあげていることに注目したが、はたして作者の小澤實はワトソンのこの話を知っていてこのような句を作ったのだろうかと、興味を覚えた。いずれにしろ俳句表現の可能性に関心のある私は、俳句がこのような世界をも表現できるのかと驚きうれしくなった。上五に〈秋夕焼〉を持ってきたことで、全体として俳句的に無難で小奇麗な印象にまとまってしまった感がするが(といってそれではどんな言葉がいいかと言われると、私には全く何も浮かばないのだが)、それでも豊かな広がりを感じさせる哀切さがあり、ワトソンの話を知った後ではその思いはことさらである。俳句になじんだ人の中には「むしろ〈秋夕焼〉があるからこそより美しく深いかなしみをたたえたものになったのではないか」という見方もあるかもしれないが、私の感じ方は先に述べたもので動かない。 |
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「鯨」は寒帯動物で、日本の近海に出没するのは主に仲秋から仲春までであり、かつて何の規制もなかった頃の捕鯨は冬に盛んに行なわれていたので、俳句では冬の季語となっている。ちなみに「象」は季語になっていなし、象を詠みこんだ俳句それ自体もわずかしか見つけることが出来ない。そこで鯨を詠んだ句について少し考えてみた。 |
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ミシュレ著『海』(藤原書店)によると、鯨はその体内に多くの富を蓄積しており、家族に対する愛情も深いが、母は一頭しか子を持てず、きわめて無防備かつ無害な生物であり、しかもその割には敵が多いという。そういった特徴を私たちは知るともなく感じているのだろうか、鯨を扱った作品には俳句に限らず独特の哀切さ、悲哀感を抱かせるものが少なくない。 |
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ここで、鯨を詠んだ大変魅かれる作品をひとつ、作者自身のこの作品に対する言葉とともに紹介したいと思う。 |
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いつの生(よ)か鯨でありし寂しかりし | 正木ゆう子 |
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ある時、鯨がたった一頭で太平洋を移動している映像を見た。そのとき出来た句。それはどんなに孤独だろうかと思った。でもこれは私が人間であるからそう思ったのであって、野生の動物は自然と一体になっているのだから、自然の全体の中の一部として、一つの命として生きているんじゃないかとも思った。 |
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(「NHK俳句」 2011、4、17日放映) |
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最後を〈寂しかり〉とせずに〈寂しかりし〉と字余りにしたあたりに、過去のこととする以上に、自分の感じたことは果たして当たっているのだろうかといった作者の微かな迷いが表現されているようで、味わいがふくらむ。 |
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鯨を詠みこんだ俳句は、捕鯨が盛んに行われていた時代には写生句が多かったが、それが禁止されるようになってからは、作者の想いを詠んだ句や幻想的なものが多くなったようだ。私には、後者のほうにより惹かれるものが多い。絶滅してしまった狼を詠んだ作品に魅力的なものが多いことと類似の現象だろうか。 |
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最後に、鯨を詠みこんだ俳句をいくつかあげておこう。 |
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月明を泳ぐとすれば潮を吹き | 高野ムツオ |
鯨には鯨の国の第九あり | 〃 |
われ鯱となりて鯨を追ふ月夜 | 真鍋呉夫 |
永い夢をみていた 鯨が鳴いていた | 中條恵行(264号で言及) |
補陀落の海の鯨と思ひけり | 小枝秀穂女 |
水温む鯨が海を選んだ日 | 土肥あき子 |
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(2011年11月20日発行) |
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発行人 根本啓子 |