20世紀フィリピンと「アメリカ民主主義」
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中野聡(一橋大学社会学部)

資料 民主制をめぐる米比百年史

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独立革命、米比戦争、自治化

1. McKinley大統領(1899):「フィリピンをスペインに返すわけにはいかない。それは臆病で不名誉です。それを東洋における商業上のライバルであるフランスやドイツに渡すわけにもいかない・…フィリピン人自身に任すわけにもいかない。彼らは自治に不向きで、すぐに無秩序とスペイン時代以上の混乱を招来すでしょう。私達が取り得る唯一の道は、フィリピン全諸島を領有し、フィリピン人を教育し、彼らの生活を向上させ、文明化しキリスト教化して、神の栄光によって私達が成し得る最善のことをして、キリストもまたそのために死んだ所の同胞として扱おうと考えたのです」William McKinley, November 21, 1899 [Zaide 1990, Vol.10, 218-220].

2. 友愛的同化(benevolent assimilation)宣言(1898):「(占領)軍政の誠実で至高の目的は、自由な国民の伝統であるところの個人の諸権利と自由をあらゆる可能な方法で保障し、合衆国の使命は友愛的同化であり、専制支配にかわる正義と権利による寛容な支配であることを証明することによって、フィリピン住民の信頼、尊敬、好意を勝ち得るものでなければならない」William McKinley, Dec. 21, 1898. [Miller 1982, ii].

3. Taftの統治哲学(1900):「帰順者たちによればAguinaldo政府のもとで民衆におしつけられた圧制と、反乱者の間に存在する腐敗は凄まじいもので、それはフィリピン人の独立政府が地獄よりなお悪い状況をうみだすことを示し、我々にこの地にとどまることを命じるものなのです」Howard Taft to Elihu Root (Sec. of War), August 18, 1900 [Alfonso 1970, 46].「我々はフィリピンの全国民、とりわけ無知な大衆の信託を受けた統治者であり保護者なのです。これらの大衆が十分な教育を得て、自らの公民権を知り、これをより強力な階級の手から守り、安全に参政権を行使できるようになるまで、我々の義務は解除されないのです」Taft to Theodore Roosevelt, Jan. 23, 1908 [RG350, NARA].

4. LeRoyのフィリピン論(1905):フィリピンの社会政治的進歩に対する最大の障害はカシキズムである(172)。カシケたちのなかには、独立を、いかに達成し、またいかにして維持すべきかも分からないままに声高に要求している者たちがある。彼らは、余りにもしばしば、改革についての現実的認識や、大衆にとって価値のある改革が何を意味しなければならないのかについての認識が欠けている(195-196)。しかし、富と教育機会に恵まれた者たちの中にも、真に愛郷心に富み、また大衆を含めた政治的進歩を心から望む者たちがいる(197)。そして、学校教育の進展にともない、彼らカシケの支配も消えてゆくに違いない(201)。[LeRoy 1905].

5. フィリピン委員会の旅(1901):「次の州はパンガシナンだった…それまでの旅と同じ光景が各駅で繰り返された。人々はひとめでもフィリピン委員会を見ようと集まり、どこでも2、3組の楽隊が出てきた…翌朝ダグパンの会館で会議がもたれ、州の31の町から350名の代表が集まり、見物人も押しかけ、立席の盛況となった…午前中は代表の紹介、そしてTaft氏による州法の説明があり、午後は州特別法についての審議に入った。はじめ人々の反応は鈍かったが、思慮深い質問をしているうちに討議は活発となり、今度は止めるのが一苦労となった(Feb., 1901)」;「(ブラカンの州都は革命戦争以来、荒廃していたので)州都の移動が討議され、マロロス町への移動などが検討されたが、議論は白熱、結局、翌朝の投票を待つことになった。議論の途中で、測量技師に州を測量してもらいちょうど中央の位置に首都を設ければよいという議論が出たり、ブラカン州の悪習はギャンブルであるとして、州知事にギャンブルを懲罰する権限を与えてほしいという動議が出たりと議論百出であった(March, 1901)」。Williams, 151-152, 159.
 

植民地民主制の成長と危機

6. Taftの予言(1905):「私は、フィリピン人がアメリカ人と一世代以上にわたって協力しあい、関税特恵の壁の内側に見い出すであろう豊かさを味わえば、おそらくフィリピン人は完全独立よりも、カナダのイギリスに対するような関係をアメリカと結ぼうとするのではないかと思います」Taft to John N. Blair, March 16, 1905 [Alfonso, 52].

7. Stimsonのフィリピン独立運動観(1932):「フィリピン人は独立を求めると同時に、私たちとの関係の維持を求めている。そして彼らは独立という言葉を自治という意味において使っているのだ」[Ibid., Feb. 3, 1932]。

8. Quezon大統領の「自由」論:「若い革命家として戦った時を除けば、『独立』という言葉は、私にとってはあまり重要な意味をもたなかった・…名目上は独立していても実際には外国の支配下におかれた国がある・…名実ともに独立していても、国民には飢える自由、沈黙する自由、投獄される自由、そして銃殺される自由しか知らない国がある・・・・私がその全人生を捧げてきたのは、名目や形式ではなく、実質的で本質的な意味での自由を国民に保障することだった。そして私が、ナショナリスタ党の即時・無条件・完全独立の政策を受け入れ、これに従ったのは、米国人の精神にはなじまない・・・・大英帝国とその白人植民地との関係をめざした(セオドア)ローズヴェルト、タフト、スティムソン大佐の政策よりも、平均的な米国人が理解のできる「独立」への道を通じてフィリピン人の自由と解放を獲得する方がより容易だと考えたからだった」Quezon, 142-143.

9. Pedro Calosa,Colorum蜂起(1930)の回想:「我々は独立を求めていた・・・・(蜂起では)独立を得られるとは信じない者もいたけれども、我々はそれでも革命を起こす価値があると信じた。蜂起によって我々は米国人に──マニラの、そしてもっと大切なのは米国の米国人達に──民衆のいない町はない、どんなに小さな町であろうが“本当の”民衆がいない町はいないということを伝えようとしたのだ」"An Interview with Pedro Calosa," (March, 1966), Sturtevant, 271-276.

10. Davis総督の土地改革論(1930):地主と小作農民の対立は将来深刻な危機の源になる可能性がある。所有権の確立した土地をもち、債務に悩まされず、自らが主人となる、自立した農民層を築くためにあらゆる努力が払われなければならない。自立した中間層は、いかなる国においても最も偉大な防波堤となり、抑圧された農民は逆に最大の危険をもたらすのだ。Gleeck 1986, 252-253.

11. Hayden副総督のSakdal蜂起(1935)論:「サクダル蜂起は独立を求めた蜂起であると同時に、カシキズム(大地主支配)と対決する蜂起でもあった。大衆の心の中ではカシキズムは・・・・アメリカの支配と結びついている。タオ(民衆)の眼に映ったケソン、オスメーニャ、ロハス、パレデスやその仲間達は、アメリカ人の“奴隷”であり“執事”であって、アメリカの銃剣の保護のもとで彼らや彼らの階級が彼ら自身の国の民衆を搾取するために、アメリカの支配を続けたいと願っている裏切り者なのである。“持たざる者達”はアメリカが撤退すれば彼らが“支配者”を倒せると聞かされ、多くの者達がそれを信じているのだ」[Hayden, 400].
 
 

「アメリカ民主主義」からの「逸脱」

12. Diplomatic Weaponフィリピン (1936):「対日関係上もっとも強力なふたつの外交上の武器は、米国が、日本よりも巨大な海軍を容易に建造でき、また現在、主権を有している地に、要塞や海軍基地を容易に構築して極東における日本の帝国主義的膨張を大いに制限できるという事実である」[Stanley K. Hornbeck, December 31, 1936].

13. McNutt高等弁務官(1937):「経済的・財政的考慮も重要だが、アメリカはもっと大きく広い利害をフィリピンに有している。米国は東洋におけるキリスト教社会を守り啓蒙するために、またアメリカの人道主義、民主主義そして社会的進歩の概念をもたらすために血を流し心を砕いてきたのだ」Paul V. McNutt to J.V. MacMurray, October 25, 1937 [#731 JPCPA/RG59,  NARA].

14. 1935年憲法・大統領大権問題:Claro M. Recto「議会が失敗し、国民が無力で誤った統治と混乱から自らを救えないときに、独裁は・…国民の最後の避難所となってきた」。Salvador Araneta「民主主義と独裁というふたつのあい対立する政治思想に対して、わが憲法会議は幸福にもその中間を選択した」[Villarruz, 57-58].

15. Quezonの一党民主主義論(1940):「我々は、ふたつのこだわり(fetishes)を捨てなければならない・・・・ひとつは、民主主義は複数政党なしには存在できないというこだわり・・・・もうひとつは、民主主義制度のもとでは個人の自由を制限してはならないという考えだ」[Francis B. Sayre to FDR, July 25, 1941. Box 18, OF400, FDRL].

16. Sayre高等弁務官のQuezon批判(1940):「今日の苦悶する世界のなかで民主主義の最強のチャンピオンである米国が、米国旗の翻るその領土の一部において、私たちが米国において知っているところの民主主義からの、かくも実質的な離脱を容認すべきなのかどうかは深刻な問題です」[Sayre to FDR, August 1, 1940. Box 7, FBS, LCMD].

17. SalisburyのQuezon批判:「私も含めて多くの識者が、Quezon氏の最大の関心は指導者として居座り自己の資産を増やすことで、もしそれが利益ならどんな主人──スペイン人や日本人──にも仕えるだろうと信じています」[Laurence E. Salisbury to Hornbeck, Dec.13, 1940. Box 369, SKH/ HIWRP.]。「Quezon氏の取り巻き政治家や資産家の多くは全体主義に共感を抱いている・・・・資産家の中には親フランコ派のスペイン人やフィリピン人、それほど目立たないが親日派のフィリピン人もいる」[Salisbury, "The Political Situation," Nov. 1941, Box 7, FBS, LCMD].

18. 米国共産党幹部James S. AllenのQuezon観:「彼(Quezon)は、フィリピンはいまだかつて民主主義体制になったことはないし、今でも憲法やコモンウェルスのみせかけだけで民主主義体制ではなく、民主主義の何たるかを知っているのも極小数に過ぎないと述べた・…選挙は無意味だ、と彼は言った。なぜなら選挙は富裕な地主やカシケに支配されていて、彼自身も彼が望めば町長や州知事を辞めさせられるからである・…私は彼が非常に優れたカシケ、農民の不満や社会不安の危険を十分に悟っている情け深い独裁者であると思った・…いずれにしても彼は何が大衆にとって最良かを自分は知っていると私に語った」Allen 1985, 29.
 

血の絆で結ばれた米比関係

19. Franklin Rooseveltの誓約:「私はフィリピン国民に対し、その自由が取り戻され、その独立が確立され守られることを厳粛に誓約する。米国のあらゆる人的・物的資源がこの誓約の背後に控えている」Dec.28, 1941. USHC 6 (1943): 9.

20. Roosevelt第2の誓約:「米国は40年以上にわたってフィリピンが個人の自由と経済的力強さをともなった自治・独立の国民になる熱望を助けるために努力し・…自治化と経済自立のための注意深く練られた諸段階を米比があい協力して歩んできた・…この戦争で連合諸国は枢軸体制・枢軸諸国の全体を完全に打倒するまでその戦いを止めない・…米国兵士は1934年独立法の誓約を実現するために・…代償を度外視してあくまで戦い抜く。米国旗がフィリピンの土の上にひるがえる限り・・・・それは我々アメリカ人によって死を賭しても守られる。現在の戦闘部隊に何が起ころうとも、我々は・・・・フィリピンの国土から侵略者をひとり残らず追い払うまで、その手をゆるめない」FRUS 1942, I, 897-898.

21. Quezonの誓約:「(アメリカ人の自己犠牲のうえにフィリピン防衛の責務を全うしようとするローズヴェルトの決意を知ったとき)私は、私自身と我が国民に及ぶ結果を度外視して、命ある限り米国の側に立つことを私自身と神に誓った」Quezon,275.

22. Quezon(1942):「米比両国民の友好が血によって確かめられたことを考えれば、日本の侵攻も災いだけではありませんでした・…戦後フィリピンが豊かで、幸福で、自由な国となることを保証するために米国が全力を尽くすだろうという確信が私を大いに慰めてくれます」Quezon to FDR, Dec. 5, 1942. OF400, FDRL.

23. Quezon戦後構想:(戦後フィリピンは米国に対して)戦略的空海軍基地の使用を、寛大な貸与条件のもとで認め、これらの基地は米国に友好・協力的で理解のある国家・国民のなかに位置することにより強力で確実なものになる・…(2)フィリピンは、極東諸民族のなかで米国民主主義の効果的な宣伝者となる・…(3)米国資本の助力を得て開発される産業は米国と競合せず、またフィリピンの工業化は極東における経済力のバランスが米国の非友好国の手に集中することを防ぐだろう・…「フィリピンの将来は新しい東洋を建設する指導的役割と東洋と西洋の翻訳・仲介者の役割を演じることにかかっており、米国の協力を得てはじめてこの役割を果たせるのだ」Quezon to FDR (not sent), Jan. 25, 1943. Box 116, GCF/MLQ, PNL.

24. Roosevelt対日協力者問題声明:「(再建されたコモンウェルス政府は)フィリピン国民の物理的・経済的困難の緩和とわが国が約束した独立の受容と実践のための準備と取り組まなければならない。後者は、きわめて重要なふたつの任務を含んでいる。対敵協力者は、国の政治・経済への権限と影響力のある地位から排除されなければならない。フィリピン憲法において保障された民主的体制の政府が、諸島人民の利益のために再建されなければならない」Elizalde to Quezon, June 30, 1944. Box 120, GCF/MLQ, PNL.

25. Truman大統領声明「(大戦における)米国に対する不忠誠は、コモンウェルス政府およびフィリピン国民に対する不忠誠であったという原則がフィリピンでは十分に確立されている。この原則をフィリピンの法廷は受け入れている(ゆえに協力者裁判に米国は介入しない)」USHC7(1947):64.
 

共和国歴代大統領選挙と米国

26. 1946年・McNutt高等弁務官の「中立」(ロハス支持)声明:「我々は、直接にも間接にも、いかなる候補も応援しないし、疎んじることもない。米国政府は、フィリピン国民がたとえ誰を大統領に選んでも、援助の約束を履行する。我々は、フィリピン国民が・・・・民主主義と米比両国民歴史的友好の最良の伝統に基づいて賢明な選択をすることに全幅の信頼をおいている」USHC 7 (1947): 78-79.

27. 1949年選挙:「同年の選挙は、1947年中間選挙より一層ひどい暴力と不正によって特徴づけられるもので、多くの人々がこの国の民主的政府維持の可能性への絶望を語った。ラナオ州では、死人ばかりか、鳥や蜂まで投票した、と言われているのがこの選挙である」Gleeck 1993, 95.

28. 対比基本政策NSC84/2(1950):米国のフィリピンにおける目的は、(a)国民の親米的傾向を維持強化する有効な政府(b)国内治安を回復・維持する能力をもったフィリピン軍(c)自立した安定経済の確立と維持である。このために、米国は(a)あらゆる適切な手段を講じてフィリピン政府に国の安定性を改善する政治・財政・経済・農業改革を確実に実施させ、(b)フィリピン政府が受入可能で米国が適切と考える軍事的指導・援助を与え、(c)米国の監督と管理のもとで、国内の安定の基本的条件を創出できるような進歩をもたらす程度まで適切な経済援助を拡張し、(d)諸島の対外防衛に引き続き責任を持ち、必要ならばフィリピンの共産支配を阻止するために米軍が関与する用意を整えておかなければならない。FRUS 1950, 1514-20.

29. CIAランズデール大佐、1951年中間選挙介入の回想:「フィリピンの『古狐』政治家たちはアメリカの政治マシンで知られていた地方・国政選挙のトリックをかき集め、さらに自前で編み出した様々な不正行為をつけ加えた。ならず者を投票者や政敵の圧迫に利用する政治家もいて、暴力の危険もあった。1951年を真の自由選挙にするための統一キャンペーンが突然出現したことは、彼らを大いに驚かせた。陸軍部隊が自由な演説を守るために集会を護衛し、投票所の周辺をパトロールして選挙委員や投票者への嫌がらせを阻止した。投票所じたいも、軍やNAMFRELが送迎する高校・大学のROTC予備士官訓練生たちによって守られ、彼らは開票時には、選挙委員会の管理下で開票監視員Poll Watcherをつとめた」Lansdale, 90
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30. 1953年選挙Magsaysay擁立工作・CIA  Smith工作員の回想:「NAMFRELを実際に指揮していたのはGabe (Kaplan)で、CIAから資金を得ていた・…もうひとつの大組織がMagsaysay for President Movementだった。(ナショナリスタ党指導者の)LaurelやRectoを(擁立について)説得するのは簡単だった。彼らは状況を抜け目なく観察して、幽霊のようにつきまとう彼らの対日協力者歴をEd Lansdaleのチームに加わることで帳消にしたかったのだ…数年後レクトは私に語った。『私の名誉を不当にも汚すことに夢中になった米軍と取引するのは面白いと思ったのだ。Ramon(Magsaysay)はdumbだから操れると分かっていたのさ』Smith 1976, 108-109.

31. 1957年選挙・Recto潰し工作:「1957年選挙は4人の争いとなり、CIA支局は誰を支持すべきか迷った・…(汚職問題絡みでGarcia不支持を決めたあと)、自由党のYulo-Macapagal正副大統領候補の支持を決めたが、支局との古くからのつながりもあるので、(Magsaysay系の)Manahan候補も援助することにした・…こうして支局の工作は、(ナショナリストとして警戒されていた)Rectoをいかに落選させるかに傾けられることになった・…(のちに)私が知って驚いた、レクトに仕掛けられた汚いトリックのひとつは、Recto Campaignと書かれた封筒いっぱいに、『Rectoの好意により』とマークをした、しかもその全てに穴が開けられて使い物にならないコンドームが詰められていたことだった」Smith 1976, 254-255,280.

32. 1959年中間選挙・Smithの親米進歩派(Magsaysay men)育成工作:Lansdale以来、若手親米エリートがCIAの資金援助を受けて続けてきた幾つかの社会改良プロジェクト(C.D.; Provincial Pressなど)の整理を命じられたSmithは、しかし「我々は社会革命を支援しているのだと思うと心が踊った(274)」。1959年中間選挙で彼らMagsaysay men(プログレッシブ党)の上院進出を果たすため、Macapagalリベラル党とのGrand Alliance(選挙連合)工作を展開。結果は、プログレッシブ党系政治家は落選におわる(1961年選挙で「努力」は実ることになる)。Smith 1976.

33. 1961年選挙・Stonelhill事件:「1961年、米国人Harry Stonehillは、CIAの要請を受けて、150万ドルを投じて(第3候補)De la Rosa上院議員の大統領選出馬を取り下げさせた(Garciaと一騎打ちにして勝つため)。また、最後の数週間、Macapagalの選挙資金を援助した(150万ドル)。その見返りとして、財務長官を含む複数の閣僚の指名権を得るとともに、彼の事業に政府が便宜をはかることになった」。ところが翌62年、会社の内紛がきっかけでStonehillは脱税等の嫌疑をかけられ、選挙干渉・汚職関与への批判を恐れた米国大使館などもStonehill排除に乗り出し、結局、国外追放の処分を受け、在比財産の全てを没収されて、フィリピン実業界・政界から抹殺されてしまった。Gleeck 1989, 47.

34. 1965年選挙:「現職政府は選挙結果を自己に有利に操作する機会に恵まれており、1965年選挙におけるリベラル党(Macapagal)もその例外ではない。識者によれば、現職側が開票掲示板を見て延命のために選挙結果を操作するのは無理だと分からせるためには、反対党候補者は少なくとも50万票、できれば100万票の差をつける必要がある。もちろん、ナショナリスタ党(Marcos)のような強力な野党は、その地盤において開票結果を操作できる。ただ全体として見れば、この面ではやはり政府側が有利である。初期の開票結果が接戦で、その後もどちらかが一方的に優勢という結果がでない場合には、両陣営が、互いに相手側が暴力に訴えて勝利を獲得しようと考え、緊張した状況が生まれるかもしれないと憂慮する者もいる。ただし、フィリピン人はやや状況を大げさに誇張するきらいがあり、脅し言葉と現実の行動には落差があることも念頭に置く必要があるだろう」。“Philippine Election Campaign: One Month to Go,” Embassy’s Airgram A-315, October 13, 1965. POL-14 PHIL Central Foreign Policy File, RG59, NARA.
 

戒厳令体制への移行

35. 1969年選挙:--は、史上最も高価な選挙、そして最も不正が横行した選挙のひとつであった。それは街頭デモ、学生・労働運動の急進化、地方における新たな共産党系反乱など社会不安の様相を帯びるなかで行われた選挙であり、新しいナショナリズム、第3世界意識、そしてベトナム戦争のなかで行われた選挙でもあった…この新たなものが期待されるとき、Marcosは1960年代ナショナリズムに同調したが、Osmena, Jr.は1950年代に逆戻りしている印象を人々に与えた・…人々の選挙への無関心は過去のどの選挙をも凌いでいた・…そして結局のところ、それは優劣のはっきりした力の問題によって決まったのだった・…偽の投票箱、投票箱の交換、開票時の故意の読み間違え、開票結果の改ざんが横行した。Osmenaは、41州の228町2212開票所で得票ゼロ、さらに3,139開票所で10票以下であった…」。Mojares 139-142.

36. 1969年選挙がもたらした経済危機:1969年選挙支出は未曾有の額に達した。上院公聴会提出資料の推計によれば、総計9億ペソが使われ、うち1億6千万ペソがバリオ改良基金、6000万ペソが医療基金、2億ペソが公共事業基金に使われた。Marcosはまた全国の村長に一律2000ペソの小切手を私的に送ったことが知られている。その結果、国内債務は1965年の31億ペソ(GNP14.7%)から58億ペソ(18%)に上昇、 対外公的債務は4億9100万ドルから8億2800万ドルに上昇した。公的・私的債務の総額は16億ドルにのぼり、うち4億5千万ドルの支払いが1970年内に、また3分の2の支払いが4年以内に履行されなければならなかった。このため政府はIMFに緊急融資を要請した。Doronila, 154-155.

37. 憲法会議への期待(1970):「憲法会議開会が非常に急がれるのは、おそらく、憲法会議が、法的・民主的プロセスを通じて、社会の諸勢力から強く求められている急進的な国家的変革を検討する最も有効な方法と思われるからであろう」UP Law Center 1970,ix.

38. 戒厳令に屈した憲法会議(1971-1972)・Espiritu憲法会議日記(1972.11.29)より:(戒厳令体制を合法化する憲法草案最終投票で)反対票を投じるつもりでいた「無所属・進歩」系代議員の何人かは、(一昨日から軍の取り調べを受けている)私が兵士に伴われて会議場に戻ってきたのを見て賛成票を投じることに決めた。明らかに怯えたのだ。「Raul Manglapusは亡命した。Tito Guingonaは収容所に送られた。そしてあなたはいまこうして兵士に伴われている。我々はどう投票したらよいのですか?」「たいしたアドバイスはできない。良心に従って投票したまえ。身に危険が及んでいなければ私はもちろん反対する。危険があれば、賛成するよ」こんな答えしかできなかった・…Johny Liwagが最初に呼ばれた。過去何日かわれわれ仲間の集まりで「子どもたちの命が僕らにかかっている」と何度も訴えていた男だ。「賛成!」彼の声が議場に響き渡った。残りも彼に従った。Jess Matasは、消え入らんばかりの声で「賛成、ただし心では留保しつつ」と言うなり、椅子にからだをあずけて深い物思いに沈んでいった・…「賛成」票を投じたとはいえ、多くの代議員が明日の署名には姿を見せないと誓った。「どこかに消えてしまおう」私は提案した。「そうだ、消えてしまおう」十数名はいただろう、悲しい呟き声が返ってきた。Espiritu, 148.

39. Gleeck元米大使館員(歴史家)の戒厳令評価:「(Henry) Byroade大使を、Marcosの戒厳令布告を思いとどまらせなかったとして責めるのは間違いである。そのような試みは許されない政治干渉となったであろうだけでなく、当時の状況からすれば誤った判断となっていたであろう。筆者の観点からすれば、戒厳令布告は、当時としては、より危険な事態の発展を避けるための正しい行動だったのだ」Gleeck 1988, 269.
 

民主制への復帰

40. Aquino「帰国声明」文(1983):我々は、1971年9月21日以前に我々が享受していた全ての権利と自由が完全に回復したときにのみ、団結できるのだ。フィリピン人は、1935年憲法--建国の父祖達の最も神聖な遺産--によって保障された権利と自由以上のなにものも求めず、またそれ以下のなにものも受け入れはしないであろう。Maramba, 253-255.

41. NSC Study Directive (1984):信頼のおける民主的制度、権力悪用を減らす国軍改革、抜本的経済改革がなければ、(共産化の)危険は疑いもなく増すだろう・…ただし改革が短期的には現政府への支持基盤を弱める可能性もあり、政府は改革に抵抗するだろう。マルコス大統領は、彼自身が問題の一部であると同時に解決策の一部でもある。我々は彼と共に仕事をしながら、よく練りあげた誘導策を通じて彼に影響力をおよぼし、後継政府への平和的で最終的な移行がいつ起きても良いように舞台を整えなくてはならない。マルコス側は、我々を利用して権力に永久的に居座ろうとするだろう。NSC Study Directive, November 1984. Schirmer & Shalom, 321-326.

42. 1986年2月11日・レーガン声明:確かに暴力がふるわれており、選挙不正が行われている可能性もある。ただそれは両陣営で起きていることです。同時に、我々は、フィリピンに2大政党制があり、国民に有益な多元主義があるということに勇気づけられているのです。Schirmer & Shalom, 348-349.

43. 対反乱ビジランテ組織化(1986):1986年10月を境に米国は本格的な対反乱戦略に乗り出した。そして、世界反共連盟議長であり、ベトナム戦争のフェニックス作戦の主要人物にして、オリバー・ノースの親友、CIAのベテランでもあるJohn Singlaub少将が盛んにフィリピンを訪れるようになった。Singlaubとの話し合いを経て、フィリピン国軍は反共ビジランテ(自警団)運動を開始した。外交筋が後に明らかにしたところでは、CIAはフィリピンの対反乱対策に1000万ドルを拠出した。この作戦は、フィリピンではMagsaysay時代以来の大規模な介入であった。Wurfel, 316.
 

フィリピン現代民主制論

44. Lande(1964):フィリピン議会政治における見かけ上の2大政党政治は、いかなる意味においても地域・産業・階級・政治的信条などに基づいたものではなく、パトロン・クライアント関係によって垂直的に統合された政治グループ間の権力の争奪をめざした水平的な競合関係に基づく。Lande, 1964.

45. Stanley(1984):「フィリピンに米国が与えたインパクトは、良きにつけ悪しきにつけ、これまで想像されていたよりもはるかに小さかった・・・・イスパノ・フィリピン的な社会慣行の弾力性やフィリピン固有の社会経済的リズムを過小評価し、自己の力を過大評価したために、アメリカ人は自らが成し遂げたと語るよりもはるかに小さな結果しか達成することができなかった」Stanley, 1984, 2.

46. Anderson(1988):「アメリカ的選挙政治は、スペイン的カシキズムと結びついてもなお、いや、そのときにこそ一層、地理的に断片化され、多民族的で、経済的には破綻した政体において魅力的なのだ。それは権力を水平的に分散させると同時に垂直的に集中させる。そして権力の水平的分散はその垂直的集中の実態を部分的にせよ覆い隠す」 Anderson 1988, 31.

47. 藤原(1988):競争的代議制すなわち単なる「民主制」と社会経済的解放を追求する「運動としての民主主義」を峻別したうえで、フィリピン現代政治を複数の民主主義(寡頭民主制・ブルジョワ民主制・参加民主主義・革命的民主主義)の対抗・競合関係として捉え、寡頭民主制の興亡を軸にフィリピン現代政治の展開を整理。1986年2月革命後のフィリピン政治を「参加民主主義」を排除しつつ、「寡頭民主制」と「ブルジョワ民主制」が競合しつつも共存する状態と論じた。藤原1988.

48. Kerkvliet(1990):フィリピン政治を説明するとき派閥/パトロン・クライアントモデルでは、異なる階層間の敵意・対立の存在をうまく捉えることができない。ヌエバ・エシハ州サン・リカルドのような米作農村における「日常の政治」は、階層・地位の異なる人々の、土地、雇用、労働条件、物価、生活改善の機会、政府のプログラムなどのリソースの使用・生産・分配をめぐる、協調だけでなく対立によっても特徴づけられている。貧しい農民による「日常の抵抗」は、収穫のひそかな横領、リソースの使用・分配の適切さをめぐる政治的言説(「助ける」など)、地主による機械化への抵抗、組織的な土地の占拠などを通じて村の政治に重要な影響を与えているのである。Kerkvliet 1990, 244-247.Smith(1991):フィリピンのように地主支配の強固な農業社会に民主制を移植する場合、土地分配の是正が必要であるにも関わらず、土地改革を行わず、貿易を通じて地主階級の利害を育成したために、民主化が不徹底に終わったと指摘。Smith 1991, 54.

49. McCoy(1993):家族(閨閥)に基づく寡頭政治とエリート諸家族間の諸関係がフィリピン史に明確な影響を与えてきたこと、複雑な双系制のパターンの上に築かれた有力家族の組織が、結束の固い親族的組織と流動性の強い派閥抗争というふたつの要素を政界に持ち込んできた(10-27)。さらに、エリートの政治経済的行動様式として、資本家的な経営利潤の獲得ではなく、国家からの融資や、国家が規制・管理する諸業界の利権獲得を通じた利益獲得をもとめる「レント・シーキング」を挙げ、エリート有力家族の「レント・シーキング」と国家との関係が現代フィリピン史を紐解く重要な鍵であると強調している( 429-34)。McCoy 1993.

50. 川中(1997):「アメリカの民主主義における階級対立認識の欠如、大統領制に代表される分権的な特徴、そして反国家主義的色彩は、寡頭エリートの競争的関係を頂点として、その株に垂直的政治動員の関係を有するフィリピンの政治社会を、保護することはあっても解体することはなかった。マルコスはこうした政治社会の存在を認識し、その解体と『新社会』の実現によって新たな民主主義体制を構築するという論理を用いたが、結局、その本質は独裁の正当化であり、自らも旧社会の論理にからめとられてしまった。しかし急速に進展しつつある工業化、都市化、そして海外労働の拡大は、大衆社会化という政治社会の変容を生み出しつつあり、それと平行して、寡頭エリート支配の解体を目的のひとつとする経済自由化や、住民の政策への参加を促す地方分権などが、体制の民主主義において出現しつつある」川中 1997, 132?133.
 
 

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