1 はじめに
まずは今月、1998年5月が米国、フィリピン両国にとって重要なセンテニアルであることを確認しなければならない。この全体会の主役・米国は、百年前の5月1日、米西戦争の火蓋を切ったマニラ湾海戦をもって太平洋の大国となった。また、1898年5月は、フィリピンにとっても、スペイン支配の打倒、独立、そして米国への編入という2重・3重の歴史のドラマが始まりを告げた月であった。マニラ湾海戦後の5月19日、フィリピン独立革命の最高指導者アギナルドが、亡命先の香港から米軍艦McCulloch号で5ヶ月ぶりに帰っている。このとき独立に対する米国の支援を信じていたアギナルドは、百年前の明日、5月24日には臨時独裁政府を樹立して、6月12日にはフィリピン独立を宣言する。しかし、12月のパリ講和条約で米国は、敗戦国スペインに2000万ドルを支払ってフィリピン諸島を併合、このあと独立革命を軍事弾圧して植民地支配を確立するのである#1。
さて、この全体会のテーマ#2、私なりに言いかえると「20世紀世界史における<アメリカニゼーション>をめぐる諸問題を<アメリカニゼーション>の対象地域の歴史過程のなかに見いだそうとする試み」に、私は、とくに<規範のアメリカニゼーション>すなわち「アメリカ民主主義」を翻案して生まれた「フィリピン民主制」の生い立ちを考えることで貢献したい。なおここでは「アメリカ民主主義」を、米国史のなかで形成された特徴を含む規範、さらに米国がその占領地や勢力圏で実施しようとした政治規範、共有しようとした価値(広い意味での帝国の規範)という意味で用いたい。さらに、米国統治下で創造され、日本軍占領期とマルコス独裁時代をのぞいておおむね維持されてきたフィリピンの政治制度を、藤原・川中らにならって「フィリピン民主制」と呼ぶ。その性格----選挙・政党・言論の自由権を制度的に保障しつつ、機能的には中央・地方を通じて少数の有力家族や実力者による政治支配や利権争奪(寡頭民主制)によって特徴づけられてきた政治制度----については、資料44-50に示したように、多くの研究がその定義を試みてきた。ただし本報告のねらいは、「フィリピン民主制」を政治学的に定義することではなく「民主制」をめぐる米比関係の百年を整理することである。米国は、フィリピンの<アメリカニゼーション>を、米国の「国益」に照らして望ましい方向に制御できたのか。そして、フィリピンの人々にとって、<アメリカニゼーション>は何を意味していたのか。これらの問いを、<規範のアメリカニゼーション>としての「民主制」を焦点に検討するのが、この報告のねらいである。以下、まず植民地期、ついでポスト植民地期に分けて民主制をめぐる米比関係の百年史を概観、最後に分析・評価を行いたい。
2 「民主制」をめぐる米比百年史(I):植民地期(1898−1946)
この過程を通じて、米国政府は一貫して、今日云われるところの「民主化」に近い表現で、フィリピン併合を正当化した(資料2「友愛的同化」宣言:自由な国民の伝統であるところの個人の諸権利と自由をあらゆる可能な方法で保障し、専制支配にかわる正義と権利による寛容な支配をめざす)。もちろん、世紀転換期の米国では、まだ、民主主義・民主化という言葉は一般的ではなく、リパブリカニズムが制度的民主主義(正当に選挙された代表を通じた政治)をさす言葉として、また、プログレッシビズム、リフォーム、マッセズのための政治といった言葉が社会経済的不平等の是正、政治権力・経済権益の独占集中の排除、腐敗・汚職の追放などをめざす政治改革すなわち民主化という含みで使われることが多かった。本報告では、これらの概念を、それぞれの時点における用語法によってではなく、民主制、民主化のふたつの用語に統一して話を進める。
もちろん、米国はフィリピンを「民主化」するために植民地にしたわけではなかった。今世紀を通じて、米国のフィリピンに対する関心は、第一義的には地政学上の関心であった(資料12)。しかし、大義名分とはいえ、「民主化」論が強調されたことも事実である。その前提として、まず、フィリピン独立革命が、当時プリンシパリーアと呼ばれていた地方の在郷地主系エリートによって主導されたという事実があった。彼らは先スペイン期の首長層(datu)に起源をもつスペイン植民地政策のもとでの世襲的特権階層であり、キリスト教平地社会のあいだで同質性の強い支配層を形成して、地主・地方政治家・教養人などさまざまの役割を演じてきた。これら地主エリートを、米国は、民衆を抑圧する強欲な封建的支配層として、米国を無知な民衆の保護者として位置付けることでフィリピン支配を正当性したのである(資料3,4)。併合当時それは、戦争で対決する地主エリートを糾弾すると同時に、フィリピン併合に反対する米国内の反帝国主義運動が、独立革命を弾圧して併合を強行するのは「被治者の同意」に基づく統治という米国建国の根本精神を侵すものだという非難に対して、独立革命がフィリピン人民の意思を代表していないとして反論する意味もあったのである。
統治が安定すると、米国は、1905年に町、6年に州、そして7年には全国議会へと、段階的に選挙制度を導入した。#4この第1回議会に選出された議員80名の7割以上は、独立革命政府の参加者で、その大半がすでに米国統治下で官職についていた。またこの選挙では、米国政府が育てようとした都市知識人中心の進歩党(プログレシスタ)は地方の支持基盤を欠いて敗北(2割)、独立革命を担い、一度は反米の旗を掲げた、より若く、民族主義的で、地主層に支持基盤をおき、米国からの独立を主張するナショナリスタ党が7割以上を獲得して圧勝、その後の議会でも圧倒多数の第1党となった。このあとナショナリスタ党は2大指導者──マヌエル・ケソンとセルヒヨ・オスメーニャ──の両派がしばしば分裂・合同を繰り返しながらも議会で圧倒多数を占める支配政党となった。このように自治化政策は、当初敵対した地主エリートに植民地政治の実権を与えた。とはいえ、それは意に反した結果というよりは、エリート懐柔の成功を物語るものだった。フィリピンを地政学的な意味での「基地」と捉える米国政府には、フィリピン社会の隅々までを掌握・支配する必要は無く、むしろ地方の地主エリートとの協力は統治安定のために必要不可欠だったのだ。
さらに、1909年に始まった米比間の相互無関税貿易は、米国市場向けの輸出農業や内地向け商業米作の発展をもたらし、地主、農業資本家としてのエリートに卓越した経済基盤を提供した。タフトは、経済上の特恵関係と自治化政策が結びついたとき、フィリピン・エリートの要求が、米国との関係維持を求める自治領運動に変化するだろうと予測した(資料6)。事実、ナショナリスタ党は、独立の旗こそ下ろすことはなかったが、米国依存の深まりに応じて、独立達成と米比特殊関係維持の両立を追求するようになる。(資料7)スティムソンはそれが自治要求に過ぎないと喝破し、ナショナリスタ党指導者にして自治政府コモンウェルス大統領となったケソンは、独立よりも市民的自由の保障こそが自分の求めていたものだった、と晩年の自伝で(コンテクストには注意しなければならないが)述べている(資料8)。以上を要すれば、米国が導入した自治、選挙制度は、統治目的として主張された「民主化」論とは裏腹に、エリートとの和解と協調を実現し、さらに選挙を通じてそれを民意に裏付けられたものとして正当化する、統治の現実的な手段だったと言い得るのである。
エリートによる「民主制」の独占は、しかし、反エリート運動の挑戦を受けなかったわけではなかった。独立革命を担ったエリートが、独立の大義を裏切り、米国の協力者に成り下がったという反エリートの言説は、米国統治初期から確実に存在していた。さらに1920年代後半には、独立・反米と反エリート・反地主の言説が結びついた急進的民族主義運動や、社会主義・共産主義思想の受容に伴う左翼的小作農民運動が成長した。これらの「民衆運動」は植民地の政治体制全体を揺るがすほどの力は持たなかったが、幾つかの民衆蜂起事件を起こしたり、選挙に当選するほどに成長し、「フィリピン民主制」は、1930年代には、はじめてその危機の時代を迎えたのである(資料9、11)。これらの運動に対して、米国政府や米国人植民地官僚は米国支配への悪影響を警戒しつつ、しばしば同情的であった。エリート批判と土地改革論を「民衆運動」としばしば共有した(資料10,11)彼らの見解には、「より強力な階級」の民衆支配を根拠にして、フィリピンにおける米国の「義務は解除されない」と見なす植民地維持の論理が見え隠れしていた。それゆえ、このような米国側の問題認識を、フィリピン・エリートは、しばしば「インペリアリスタ」と非難した。いずれにせよフィリピン・エリートと米国統治の協調関係の底流には、米比戦争にさかのぼる緊張が存在し続けたのである。
しかし、第2次世界大戦に向けて全体主義対民主主義という世界体制上の対立の構図が鮮明になるにつれて、集権化の傾向を強めたケソン政権の性格をめぐって、米比間には緊張が走った。1939年9月、ヨーロッパにおける大戦の勃発と同時にコモンウェルス政府に高等弁務官として赴任したフランシス・セイヤーは、ケソン政権の集権化(大統領任期の延長を可能にする憲法改正、非常権限法)や、その権威主義的な民主主義論(資料15)、さらには、スペイン・ファランヘ党との関係などを弾劾、フランクリン・ローズヴェルト大統領に対して、<アメリカ民主主義からの逸脱是正>のため圧力の行使を進言した(資料16)。それは単に「民主主義」観だけでなく、戦争の脅威が迫るなかで、親スペイン的で、対日融和・中立主義志向を示すケソンの米国と民主主義陣営に対する「忠誠」を問う問題でもあった(資料17)。しかし、セイヤーの批判にもかかわらず、米国政府・ローズヴェルトは、ケソンとの協調の維持を最優先した。緊張する国際情勢のなかで「基地」としての価値を増したフィリピン確保のために、米国はケソン政権の<民主主義からの逸脱>を批判するよりも協調を優先したのである。このパターンは、のちにマルコス独裁時代に繰り返されることになる。
「民主制」をめぐって動揺した米比関係にとって、日本軍のフィリピン侵攻は、まさに試練であった。民主主義と全体主義、米国と日本の間を揺れ動いたケソンは、ローズヴェルトの日本打倒とフィリピン回復への断固たる態度(資料19、20)を前に、<アメリカ民主主義>との同盟に賭けることを決意、米国に亡命する(資料21)。一方、日本軍占領下のフィリピンでは、ケソン子飼いのラウレルをはじめとするエリートが営んだ対日協力政府が、「民主制」の実質を失いはしたものの、国家体制としては、戦前との最大限の連続性を確保してゆく。事実上、それはコモンウェルス政府の戒厳令体制であった。諸島全土では、米国、コモンウェルスそして民主主義に忠誠を誓う抗日ゲリラ運動が展開した。ケソンは亡命先の米国で1944年8月に死去するが、その直前まで、<アメリカ民主主義>を基礎に据えた戦後・独立後の米比協力関係の構築、基地の提供、戦後復興への米国の約束をとりつけることなどに力を注いだ。そして、戦後アジアにおいてフィリピンが<アメリカ民主主義の効果的な宣伝者>となり、米国の協力を得て<新しい東洋を建設する指導的役割と東洋と西洋の翻訳・仲介者>になることを夢見た(資料22、23)。はたしてその夢は実現したのであろうか?
3 「民主制」をめぐる米比百年史(II):ポスト植民地期(1946−1998)
1950年11月のNSC84/2(資料28)は、アジア「冷戦」の本格化とフィリピンの政治経済的混乱を直接の契機として、独立後フィリピンにおける米国の国家目標を再定義した重要な文書として知られている。同覚書は、(a)国民の親米的傾向を維持強化する有効な政府(b)国内治安を回復・維持できるフィリピン軍(c)自立した安定経済確立の3大目的を示し、さらに、その実現のために、(a)フィリピン政府に諸改革を実施させること、(b)軍事援助、(c)経済援助、(d)共産主義の脅威に米軍が関与する用意#5の4点をあげていた。とりわけ「諸改革の実施」にNSCの関心は集中していたが、そこには植民地時代以来エリートが独占する「民主制」下の腐敗・不正・不平等などから発する政治的混乱が、やがて米国の戦略上の利益を損なったり、過剰な財政負担を強いることへの懸念が反映していた。「フィリピン民主制」「民主化」のための改革・介入が必要だと考えられたのである。
宗主国としてフィリピンの政治発展の全体を制度的に条件づけることができた植民地時代とはことなり、介入の方法は、援助の見返りとして「改革」実施を要求する利益誘導型の介入が主となった。1950年11月、NSC84/2の決定直後に米比両政府間で結ばれたキリノ・フォスター協定(財政改革、最低賃金の農業労働者への適用、労働者保護など)はその典型である。また政府間だけでなく、個々の政治家・政党・非政府組織に対しても、米国は、資金援助などを通じて望ましい政治家・政治組織の育成をはかった。これも利益誘導型介入の一種といえる。さらに、必ずしも利益誘導がなくとも、米比間にのこるコロニアルな心理を背景として、米国政府・マスコミの一挙手一投足が、しばしばフィリピン政治に大きな影響を与えた。「宣伝」あるいは口先介入と呼び得るパターンであった。むろんこれらの手法は、何も目的が「民主化」でなくとも用いられた。さらに、これらと平行して「民主化」の美名とは程遠い容赦のない軍事的な対ゲリラ戦が実行された(1950年代前半だけでもフク団参加者の損害は死者6246人、負傷者1882人にのぼった)。とはいえ「民主化」・改革が、米比関係上、重要な言説でありつづけたことも否定できない。それでは「民主化」介入は、実際に、戦後「フィリピン民主制」の展開に、どの程度どのような影響を与えたのか。介入の焦点となった、国政選挙とりわけ大統領選挙を中心として米国の関与を追ってみよう。#6
まず、米側からみた成功物語のあらましを述べる。工作の中心人物ランズデール大佐は、親米的で庶民的人気があり米国が望む改革にも熱心と見なされたマグサイサイ国防長官をフク反乱制圧の英雄として宣伝、大統領にまで担ぎ上げた。また、ニューヨークの共和党系ユダヤ人政治家カプランは、自由選挙国民運動(NAMFREL)をはじめとする「官製」市民運動の組織化に力を発揮した。1951年中間選挙では、NAMFRELと国軍が与党リベラル党の組織的な選挙不正を押さえて政府批判で勢いに乗る野党ナショナリスタ党が圧勝した(資料29)。さらに、CIAはマグサイサイ擁立運動(MPM)を組織、与党政権の国防長官を野党ナショナリスタ党の大統領候補として迎えることについてラウレル、レクトらナショナリスタ党長老との交渉にも成功、1953年選挙では地すべり的勝利を獲得した(資料30)。このとき、マグサイサイ擁立に参集した若手政治家(マナハン、マングラプス、ペラエスなど)は、このあとも親米的な進歩派政治家として米国・CIAの後援を受ける。さらにマグサイサイ政権発足後CIAはカプランを中心に、社会改良をめざすコミュニティ・ディベロップメント、地方新聞、シビック・エデュケーション諸事業などを設立、援助した。#7一方、フク団には徹底した対反乱戦略が実行され、1954年、指導者のひとりルイス・タルクが政府に投降、反乱は収束に向かい、米国は「アジア共産主義封じ込め」の輝かしい成功例を手中にした。 さらにつけくわえると、1950年代を通じて、フィリピンの「反共十字軍」への協力はインドシナ戦争やインドネシア国軍反乱の支援などで半ばCIAの共謀者となるまでに進んだ。ランズデールに協力したフィリピン軍人ナポレオン・バレリアーノが、その右腕としてインドシナ工作に加わり、若く向こう見ずな冒険家であったアキノが、タルラク州の自らの広大な地所をインドネシア反乱支援の訓練基地に提供、自らインドネシアに潜入したのもこの時代である。
このような米国・CIAの成功物語は、しかし、フィリピン側の回想、伝記、研究から見ると、かなり異なった像を結ぶ。マグサイサイは、主体的に権力を追求して地位を上り詰めたしたたかな政治家であり、その擁立工作も若手政治家・知識人の懸命の工作によるもので、ランズデールはマグサイサイの脇に控えるアドバイサーに過ぎない。鍵を握ったのは、ナショナリスタ党指導者ラウレルとレクトが、それぞれ、対日協力政府の大統領、外務大臣であったことから大統領選出馬を見合わせてマグサイサイのパトロンになることを選んだその決断であった。その決断の背景には、確かに米国・CIAがマグサイサイを支持しているという事実があったが、それは彼らにとって、むしろ利用し得る重要な政治的リソースであった。米国政府・CIAは、マグサイサイを勝利に導く物語のなかで主役を演じていると、巧妙に信じ込ませられていた、とも言えるのである。
さらに、介入目的であったはずの長期的な改革・民主化という点では、マグサイサイ政権の政策は実態を欠くものだった。米国が期待した土地改革は、在郷地主系のエリートが支配する議会下院の抵抗で掛け声倒れに終わった。マグサイサイ陣営のバンドワゴンには、大地主、利権や国家の保護を求めるレント・シーカーが殺到して改革派を圧倒した。マグサイサイ自身これらの諸利害を調整して改革を実行する政治力に欠け、総じて、その3年あまりの政治は成果に乏しかったのである。しかし、改革の不実行に対して、米国は寛容であった。米国の大目的が「親米国家の安定」であった以上、いったん「国家を安定させ得る米国の協力者」を確保して、内乱を制圧、政治体制が安定すれば、米国にとって「民主化」改革の意義が後退してしまうのも当然だったのである。
1957年3月、マグサイサイは大統領専用機ピナツボ号がセブ山中に墜落して死亡した。最良の協力者を失ったCIAの衝撃は大きかった。このあと1957、59、61年までの3回の国政選挙にも米国政府はCIAを通じて引き続き介入したが、米国の介入は「民主化」という点では明らかに行き詰まりを見せ、介入目的は、「親米」政権の確保あるいは「反米ナショナリズム」の排除にシフトした。なかでも米国がもっとも警戒したのが、1950年代を通じて次第に高まった「ナショナリズム」の代表的論客となったレクトであった。今日振り返るとその主張は、米国との絶縁を主張する反米主義ではなく、基地協定や通商協定における平等と正義やアジア近隣諸国との協調外交を求めたに過ぎなかった。しかし、1950年代の硬直した反共的世界観にとらわれていた米国政府・CIAはレクトを敵視した。そして、4候補が乱立した1957年大統領選挙で、CIAは、誰を当選させるかではなくレクト落選に力を入れ、汚いトリックを使ったのである(資料31)。#8
一方、「民主化」介入(改革)の論理も、「残り火」のようにではあるが生き続けた。(資料32)インドネシアで反スカルノ政権の陰謀工作に従事したCIA工作員ジョセフ・スミスは、フィリピンで「第2のマグサイサイ」を見つけ、自ら「第2のランズデール」になろうと野心を抱き、カプランの残した地方コミュニティ振興事業を見て「社会革命の夢」に「心を躍らせる」。しかしそれらはすでに予算削減・整理の対象になりかけていた。そしてスミスは、1959年中間選挙で、親米進歩派候補を何とか中央政界に送り込むために、かつての敵リベラル党との選挙連合(グランド・アライアンス)に奔走する。しかし内戦の脅威が去り、それなりに安定したこの時期のフィリピンにCIA予算はあまり配分されず、スミスが用意できた選挙資金はわずかで、フィリピンの選挙政治のなかでは大海の一滴に過ぎなかった。結果は、リベラル党は勝利したものの、CIAが推した候補は敗北する。
その後、1961年大統領選挙で、米国政府・CIAは、ナショナリスタ党ガルシア政権の汚職・腐敗そして輸入代替工業化促進のための保護主義政策を嫌って、親米改革派と見なされ、かつフィリピン政界では稀有の小作農家出身のリベラル党マカパガル候補の支援を決める。(資料33)このときCIAはポーランド系アメリカ人でフィリピン政界に深く食い込んでいたGIあがりの実業家ストーンヒルを利用、マカパガルと票を奪い合う第3党候補デ・ラ・ロサの立候補取り下げ説得とマカパガル陣営の終盤追い込みのために合わせて300万ドルを支出させた。しかし、マカパガルの当選後、ストーンヒルはスキャンダルに巻き込まれ、選挙干渉の全貌が発覚することを恐れた米比両政府は、「知りすぎた男」ストーンヒルを国外追放処分にしてしまう。これらの出来事は、過去の成功の夢を追うCIAの介入が、手段、目的、結果ともに次第に矮小化していったことを示している。フク反乱の沈静化もあってCIAの秘密工作のなかでフィリピンの位置(支出額)は低下する一方、フィリピンの選挙政治は膨張しつづけたので、CIAの役割は一層低下した。1961年には現職候補を破って米国が推す候補を当選させたとはいうものの、その手法は、もはや十字軍的な自由選挙運動や国民運動ではなく、札束と密室政治そのものであった。
ストーンヒル事件をもって、米国の露骨な選挙介入はひとまずピリオドを打った。そして、再選を目指すマカパガルとマルコスが争った1965年選挙では、どちらを支援すべきかについて米国政府部内でも意見が割れた。1961年に米国が推したマカパガルは、人望と政策実行力に欠けていた。一方、マルコスは、ナショナリズムよりの立場をとり、米国政府筋との濃密な接触に欠けていた点はマイナスであったが、実行力とビジョンをもった強力な政治家という期待も一部にあった。結局、激しい選挙戦の末にマルコスが勝利した。そして選挙戦の最中には反対していたベトナム派兵を大統領就任後一転支持したマルコスに、米国は高い評価と信頼を与えたのである。
1971年に開催された憲法会議(CONCON)は、疲弊するフィリピン「民主制」の閉塞状況を打開し、憲法改正によって既成の社会経済秩序を急進的に改革することへの世論の期待を担ってスタートした(資料37、画3)。しかし、会議は、たちまちマルコス派与党の政権延長の野心(大統領任期2期8年からの延長)とこれに反対する野党・市民グループの対立で行き詰まってしまい、人々はCONCONの政治化に失望した(画4)。1972年の戒厳令体制への移行は文字通り戦後「フィリピン民主制」の敗北を告げる出来事であった。むろん戒厳令の直接のきっかけは、マルコス大統領の永久政権化への野心、周辺アジア諸国の独裁化、ベトナム戦争末期の国際環境などであったが、戒厳令が当時、意外なほどスムーズに国民に受容され、反マルコス派・人権派・市民派政治家が孤立状態に陥ったのは、「民主制」の機能不全に対する国民の深い失望があったがゆえであった。当時憲法会議代議員であったエスピリトゥの日記には、かつて経験しなかった強権政治への恐怖に怯え、また敗北感に打ちひしがれる市民運動派・知識人たちの姿が鮮やかに描かれている(資料38)。
米国は、この過程を通じて、再び顕在化したフィリピンの危機と「反米化」の気運に懸念を強めながら、露骨な介入には出ず、戒厳令体制への移行を容認するというかたちで影響力を行使した。また、1965年以降、米国の関心はベトナム戦争への協力という外交上の関心に集約され、内政改革促進よりも米比両政府間のスムーズな交渉チャネルの確保がより重要と見なされたのである。さらに、1960年代後半以後70年代に入って次々と親米諸国の権威主義体制・開発独裁への移行が進むなかで、米国の関心は「民主化」論よりも「安定した親米国家」の確保にシフトした。しかもマルコスは、戒厳令公布にあたって、戦後「民主制」の病根としての寡頭政治・寡頭財閥の支配の打倒、土地改革断行など、フィリピン社会の急速な改革の実行を約束した。米国政府は、「民主化」のための「独裁」を語るマルコスの開発独裁に明らかに魅了された。総じて言えば、ケソン時代同様、「優れた寛容な独裁者」と慣れ親しむことは、複雑で混乱した民主制の現実と根気よくつきあうことよりも、米国にとってはるかに魅力的だったのだ(資料39)。
マルコス独裁体制はまもなく急速に腐食して、権威主義的民主主義、立憲革命の美辞麗句とは裏腹に、クローニー・キャピタリズムが肥大、1980年の石油ショックをきっかけにその立ち遅れた経済構造は弱さを露呈して成長するアジアから脱落した。米国は、この事態の変化に明らかに乗り遅れた。「人権外交」を唱えたカーター政権期にも米国政府は一貫してフィリピンにおいて戦略上の利益を優先してマルコス政権を支持することを内外に表明した。レーガン政権は、公然と、マルコス独裁を支持した。マルコス大統領「再選」後の就任式に参加したブッシュ副大統領は、マルコスの「民主主義的諸原則・プロセスの堅持」に賛辞を送った(画5)。さらにアキノ暗殺から1986年2月のEDSA革命に到るまで、レーガン大統領は、マルコス支持に執着し続けた。1986年2月のレーガン声明(資料42、画6)は、いかに独裁者とワルツを踊ることが米国にとって魅力的でやめ難かったかを示している。このような米国の戒厳令体制容認は、CIAがかつて育成した親米改革派の多く、たとえばマングラプスやアキノにさえ大きな失望をもって迎えられた。<U.S.-Marcos Dictatorship>という非難の言辞は、米国政府自体の認識を超えて、フィリピン政治の物語のなかで米国のマルコス支持が重大な意味をもっていたことを示している。
ただしこれらの事例は、「民主制」への復帰と維持をめざしたエリートの意向に沿った、いわば「招かれた介入」であって、米国がフィリピンの政治過程を操作したとは言いにくい。その後、基地協定の廃棄、ラモス政権の6年間、そして今回のエストラーダ大統領選出に到る過程を見ると、依然としてフィリピン政治の物語のなかでアメリカがリソースとして、あるいは<脇役>ないし<悪役>として必要とされる場面は無くなってはいないものの、政治過程の米国離れの傾向は明瞭であり、緩慢な脱植民地化がようやくそのプロセスを終わりかけている、という印象が否めない。
4 評価
この「成功」は、モノやヒトの<アメリカニゼーション>ではなく、<規範のアメリカニゼーション=民主制移植>ゆえに可能だった。そして「民主制」は、その受容のインセンティヴを最大限に与えられたエリートを担い手として、はじめて急速に浸透した。しかし、そこに米国の「成功」の限界、あるいは「民主制」失敗の原因が宿っていた。世襲化したエリート支配に彩られた「強い社会」と米国型選挙政治が接合した瞬間に、20世紀フィリピン民主制のベクトルは大方定まったとさえ言えるのではないだろうか。「民主制」の現実は、米国政府関係者からみるとしばしば許しがたいほど、あるいはフィリピンの確保に不安を覚えさせるほどに、<アメリカ民主主義>の制度・規範の「本質」から「逸脱」した。米国政府関係者や研究者はその現状にコロニアルな批判の視線を送り、「民主制」の矛盾から生じた政治・社会危機に際して、しばしば「改革」の必要性を訴えながら、フィリピンの政治過程に介入し、あるいは深く関与してきた。
百年史を振り返ると、独立後1960年代までのCIAを通じた選挙干渉が、この報告で使ってきた用語を使えば「民主制」の「民主化」、あるいは<改革>、あるいは<逸脱>の是正を目的とする<介入>のパターンにもっともよくあてはまる。そしてそれらは、構造改革の必要性が認識されながら、実際には、「親米改革派」育成に目的・手段ともに矮小化して、結局は、戒厳令体制に到るフィリピンの政治過程を追認するに終わった。そこには、「帝国の規範」としての「アメリカ民主主義」の問題点が浮かび上がっている。もちろん、米国の「国益」追求の文脈で構造改革の優先度が結局は低かったということがまず指摘されなければならない。しかしまた、「スミス氏都に行く」に見られるような、正義と良心に溢れた人材が手詰まりの状況を劇的に打開するという、性急で、ミッショナリー的な世界観の影響も認めないわけにもいかない。また、この百年史を通じて米国は、エリート支配を打破して平民的な政治をめざす価値観を示すと同時に、改革政治の担い手あるいは米国のパートナーとしては、エリート主義的な好み(価値観・利害の共有に安心のもてるエリートを求める傾向)を示してきたこの点については、米国の改革政治すなわち革新主義やニューディール政策じたいのもっていたエリート主義的性格が与えた影響を考慮に入れる必要があるかもしれない。いずれにしても、このような米国側の構えは、フィリピン・エリートから見ると、利用し得るひとつの重要なリソースと映ったのであった。
総じて言えば、「帝国の規範」としての「アメリカ民主主義」は、外来の規範を私益追求のための知的資源として翻訳・翻案・利用することに長けた----フィリピン・エリートによって「換骨奪胎」されて、寡頭民主制に翻案された。また、このように翻案し得る限りにおいて、エリートは、「アメリカ民主主義」を受容し、米国の支配を受け入れた、言いかえればエリートは「自由の帝国」と契約したのであった。もしも、見かけ上の分かりやすさ・普遍性・浸透性をもつがゆえに、奔放な読み替え・翻訳にさらされ易いのが20世紀の<アメリカニゼーション>のさまざまな局面に見られた現象であるとすれば、フィリピン民主制へと翻訳された「アメリカ民主主義」の物語はまさにそのような意味における<アメリカニゼーション>の典型例と言い得るであろう。
このような「民主制」の現状について、研究者の多くは、「民主主義」本質論的バイアスでフィリピンの歴史と現在をあるべき本質からの「逸脱」として見がちである。これは、「民主主義」をめぐる問題をどうしても普遍主義・規範的に解釈しがちなためであろう。しかし、このような「逸脱」的「フィリピン民主制」像が描く民衆像--垂直的動員の対象となるだけの受身の「愚民」的存在--は、私にはやや厳しすぎる見方のように思われる。不平等をめぐる緊張・対立・その調整は、フィリピン政治の日常の営みにおいて重要な位置を占めている。そしてその基礎には、政治的正当性をめぐるフィリピン化された「民主主義」の言説が確かに存在している(資料48)。それを<規範のアメリカニゼーション>とどう結びつけるかを評価するためには、もっとミクロの政治学、ミクロの政治史研究の成果を待たなければならないが、「民主制」の歴史のなかで育まれた「フィリピン民主主義」の影響力は、もう少し注目されても良いのではないか。また、「逸脱的」「民主制」論は、欧米からも、またアジア的価値観を主張する周辺アジア諸国からも、どこか不徹底なまがい物として批判されがちであり、批判されるべきものであることはこの報告が明らかにしてきた通りである。しかし、規範からの逸脱とその容認だけでなく、その是正をめぐる緊張関係が20世紀フィリピン民主制史のなかに存在していたことは見逃せない。ランズデールやスミスに「主役」を演じているとの幻想を抱かせるほどに<アメリカ>を巻き込んだその物語は、しかしどこまでもフィリピン人の物語である。そして、他国からは軽視されがちなフィリピンの普遍的民主主義へのこだわりは、しかしフィリピンの国家、エリート、マス・メディア、さらには「フィリピンの7100万国民」全てとまでは言えないとしても、恐らくかなり広範な市民層にとって、彼らのアイデンティティを成す不可欠の要素となっているように思われるのである。総じて言えば、20世紀「フィリピン民主主義」の歴史は、たとえ欧米からはその「逸脱」を、アジア諸国の指導者からはその「模倣」や「行き過ぎ」をしばしば批判されてきたとしても、欧米とも周辺アジア諸国とも異なる「フィリピン民主主義社会」としか名づけようのないユニークな「共同体」あるいは「闘技場」を作りあげてきた。このことも忘れるべきではないだろう。