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”いのち”と”こころ”と”平和”を考えます。ジャーナリスト 中村尚樹 Nakamura Hisaki Clubhouse

平和講座PEACE STUDIES

虜囚の棺

 あたり一面、雪に覆われたた、極寒の白い大地が広がっている。氷点下35度までは、戸外での作業が容赦なく続く。あまりの寒さに凍傷になり、神経は麻痺したようで、思うように身体が動かない。仕事は固く凍り付いた大地を掘り返したり、建築用の木材を伐採したりの重労働である。

 収容所での食事は、今まであまり食べたこともない粟や大豆、コウリャンなどが主食で、大豆の時は、二日も三日も大豆ばかり、粟の時は粟ばかりが続く。一ヵ月に一回くらい、玄米をそのまま炊いたご飯にありつけることもあった。それも小さな湯呑み茶碗に、すり切り一杯が一食である。朝食は百グラムぐらいの黒パン一切れ。どうにもたまらず、ロシア人の捨てた残飯をこっそりあさるかつての兵隊たちの姿。野菜はなく、ビタミン不足が深刻で、栄養失調や病気の人たちが続出する。やがて体力が尽きて亡くなると、衣類を脱がされて裸体のまま、他の死体の上に積み上げられて行く。

 収容所によっては、思いついたように年に何回か、風呂に入れてくれたこともある。裸になると、みんながお互いの姿を見て驚いた。肋骨が浮き出ているのは当然だが、背中を向くとお尻の穴まで見えるのだ。まさに骨と皮である。それでもみんなで励ましあうのだ。こんなことで死んでたまるか、と。

 第二次世界大戦で日本が敗れた後、シベリアの収容所に抑留された人たちの、ごく普通に見られた毎日である。場所によって労働条件は違ったが、いずれにせよ、これ以上の悲惨な状態はなかっただろう。人が人として生きる状態を生活と呼ぶのであれば、それは生活とは呼べないほどの極限状態であった。

 戦後半世紀以上がたち、戦争の記憶を後世に伝えておきたいと考える人が増えている。シベリア抑留を体験した直本活太郎(じきもと・かつたろう)さんも、そんな一人である。戦後は、岡山県中部の久米南町に引き上げた。そこは母方の故郷であり、町長の後押しもあって工務店を開き、地元の住宅や施設の建築を手がけた。

 1913年(大正2年)、大阪で呉服屋の長男として生まれた直本さんは、活気のある大阪商人の姿に小さな頃から憧れていた。しかし両親の離婚で母親に引き取られた直本さんは、小学校を出るとすぐに、祖父のいいつけに従って大工に弟子入りした。直本さんの祖父は、大工の腕があれば、どこにいても皆なに重宝がられると考えたからだった。そこで身につけた技術が、やがて直本さんの命を救うことになったのだった。

 戦争中満州にわたり、建築会社に勤めていた直本さんは、敗戦直前の1945年(昭和20年)4月、31歳の時、召集されて陸軍に入った。その4ヵ月後、ノンジャンという町で敗戦を迎えた直本さんたちは、進駐してきたソ連軍に武装解除させられた。

「絶対に手向かってはならない」と命令が出ていたので、逆らうことはなかった。

 それからしばらくした九月中旬のことだった。

「お前たちは帰国させるから準備をするように」と命令が出された。直本さんたちは大喜びしたが、まもなくそれは嘘だったことが分かった。シベリアに抑留された人たちは、ほとんどがこうして「帰国」と告げられ、シベリア行きの列車に乗せられたのだった。

 やがて直本さんたちはバイカル湖の手前のスコボロジノウという所で、古い兵舎を改造した収容所に入れられた。それから、強制労働の毎日である。朝早くから夕方まで、戸外で厳しい作業が続く。白樺の木を切ったり、道路の拡幅工事をしたり、あるいは列車が走れるよう線路に積もって凍り付いた雪を取り除く作業など、馴れない重労働ばかりである。仲間が次々と倒れて行った。1945年の暮れから翌46年の春にかけて、直本さんのいた収容所ではおよそ千人の抑留者の内、二百人以上が亡くなった。皆、飢えと寒さが原因だった。

 こうした厳しい環境の下で、ひとつの友情が芽生えた。収容所の日本人は、それぞれの作業によっていくつかの班に分けられている。この内直本さんが属していた班には、嫌われ者の班長がいた。歳は若いのに、班員の人たちに無理な命令を出したり、従わないと殴ったりする。中でもこの班長からいつもいじめられていたのが、平野さんという人だった。ある日、班長は平野さんにまた暴力を振るおうとした。直本さんは見かねて、「そんなに殴るんなら、代わりに俺を殴れ」と啖呵をきった。直本さんはその言葉どおり、代わりに殴られた。しかし、それをきっかけに平野さんと友達になった。戦争中、満州で会社員をしていたという平野さんは、直本さんと同年輩で、二人は不思議と馬が合った。平野さんは直本さんより体力が劣ったが、二人は仕事をするのも、食事をするのいつも一緒だった。夜は二段ベッドで横になる。ベッドといっても、大きな木の箱のようなもので、一つのベッドに五、六人が詰め込まれる。丸いストーブのペーチカはあるものの、大きな部屋は冷え込んでくる。直本さんと平野さんは、「日本に帰る時は一緒だぜ」と励ましあいながら、冷えた身体を寄せ合っては眠りにつく毎日だった。

 1945年(昭和20年)の年の暮れ、亡くなった人たちを葬るため、棺桶を作るための特技班が急遽、編成された。ソビエト軍が、抑留者の中から20人ほどを選抜したのだ。大工の経験を買われた直本さんも選ばれたが、他に腕に覚えのある者はいない。そこで直本さんが班長となって作業を始めた。直本さんの推薦で平野さんも一緒である。哀しいかな、死者はあとからあとから出てくるので、直本さんたちは大忙しである。技術を持つ物は優先される。直本さんは大工の腕を認められて、様々な建築作業にも携わるようになった。時には室内のストーブのそばでの作業を許され、体力を消耗するばかりの重労働から解放された。結果的に仲間の死が、直本さんを救うことになったのだ。

 ある晩平野さんが「たばこ、ないか」と声を掛けた。たばこは配給制で、すぐになくなってしまう。

「とっときがある」、直本さんはそう答えて、鞄の奥に隠しておいた最後のたばこを取り出した。ソビエトの新聞を切った小さな紙の上にたばこを乗せ、片端をつばで濡らすと、くるっと丸めて火を着けた。

「お前、先に吸えよ」

「うん、ありがとう」、平野さんはさもうまそうにたばこを吸った。

「みんな吸うなよな」と言って一本のたばこを分け合って吸い、「うまいなあ」と笑いあった。

「無事内地に帰ったら、必ず俺んちに来てくれよ」

「ああ、行くとも。お前もくるんだぞ。お互い畳の上で死のうぜ」と言葉を交わし、ベッドで抱き合うようにしてお互いの温もりを分け合いながら眠ったのだった。

 翌朝目を覚ますと、そばで寝ていた直本さんに何の知らせもなく、平野さんは静かに帰らぬ人となっていた。苦しむ力もなく、何かを言い残す力もなく、ただ眠るがごとく、息絶えていた。昨夜の平野さんにはそんな気配はみじんもなかった。直本さんは茫然とするより他なかった。昨夜が最後のたばこになろうとは。

 やがて我に帰った直本さんは、濡らしたタオルで平野さんの顔を拭いてやり、手を組み合わせて胸にそっと置いてあげた。明日は我が身、と思いながら。

 直本さんはその時を振り返ると、今でも悔しさで胸が一杯になる。

「異郷の地で、捕虜という汚名のもと、最愛の妻、子どもたちへ心を残しながら、二度と帰らぬ遠い天国へ旅立ってしまったその友を思うと、やたらと腹立たしさを抑えようもなかった。いかに国の掟とはいえ、どうしてこのような運命になったのだろうかと痛切に感じたのです」

 直本さんはせめてもの思い出にと、人の手を借りず、一人で棺桶を作った。これが友に対するせめてもの、最後の贈り物と思ったからだった。

 感傷にひたる間もなく、次々と仲間は亡くなっていった。やがて棺桶を作るための木材もなくなり、棺桶は遺体を運ぶための道具となった。遺体は墓地に移され、まとめて埋められるようになった。一人ひとりの命が、シベリアでは二束三文の価値しかなくなってしまっていた。

 シベリアに抑留された人たちは、「捕虜になった以上、日本へは帰れないかもしれない」と感じていた。これも運命と、強制労働に抗議する気力も失われていた。

 1947年(昭和22年)10月、直本さんは無事帰国した。

 その頃のことを振り返って、直本さんは思う。

「満州国で建築の仕事をしていた頃は、給料も良く、日本人だというだけで、羽振りが良かった。しかしそれも今になって思うと、日本という後ろ盾があってのことだった。日本は戦争に負けてよかった」

 確かに直本さんは、敗戦でシベリアに抑留された。しかし、仮に戦争に勝っていたとしたら、多くの日本人、そして外国人がアジアで様々な苦労を余儀なくさせられたことだろう。確かに自分は抑留された側だが、抑留する側にもなりたくはない。戦争は勝っても、負けても、庶民には苦労だけが募る。そして多くの人が死んで行く。

 直本さんの体験を紹介したのは、抑留された他の人たちよりも、悲惨な経験だったからではない。私が取材で出会った内の一人が、直本さんだったということである。シベリアに抑留されて生き残った人たちは百人が百人とも、他の人にはないつらい思い出を胸に秘めながら、今も暮らしているのである。 

 シベリアに抑留された経験のある画家、香月泰男さんは、シベリアで極限状態に置かれた男たちや、香月さんの眼に映った収容所での風景を次々と作品に描いた。香月さんは、代表作『シベリア・シリーズ』で日本画壇に特異な地位を占め、その死後、評価は増々高まっている。

 1911年(明治44年)現在の山口県三隅町に生まれた香月さんは1931年(昭和6年)東京美術学校西洋画科に入学する。ゴッホに関心を寄せ、当時の香月さんの部屋に一冊だけあった本は『ゴッホの手紙』だったという。美術学校を卒業した香月さんは美術の教師となり、山口県立下関高等女学校に勤務しながら、画風もさだまって評価もようやく上がってきた頃の1943年(昭和18年)、32歳で召集される。満州国当時のハイラル市に動員され、やがて敗戦を迎えた香月さんは、ソビエト軍に武装解除され、セーヤ収容所に送られてシベリアでの抑留が始まった。1947年(昭和22年)、36歳で帰国するまで、一年半におよぶシベリアを経験した。

 香月さんはシベリア時代について「将校連中の肖像画やスターリンの肖像など、(中略)絵を描く仕事をずいぶんやらされた」と回想している。「絵を描かされている間はずいぶんのんびりしていた。ときどき手が空いたときも作業に出されず、グラブラしていた。自分の描きたいモチーフのエスキスを試みるひまさえあった」と著書『私のシベリヤ』の中で書いている。当初は火力発電所のための薪作りなど戸外での重労働に従事されられた香月さんだが、やがて絵筆の才が究極の場面で自らを助けることになったのだ。

 香月さんの『シベリア・シリーズ』は1947年から制作が開始され、1974年の画家の死でピリオドが打たれるまで57点が制作された。

 『シベリア・シリーズ』は、一見して他のどの画家の作品とも異なる雰囲気を持っている。その基調は黒であり、香月さんは独自の黒を作り出すために様々な工夫を続けた。十年の歳月をかけてやっとたどりついたその表現方法は、日本画の素材である方解末を塗り重ねて下地を作り、その上に油で溶いた木炭の粉末絵具を何重にも塗り重ねるという特異な技法だった。日本画の手法を油絵にも応用出来ないかと研究を重ねてきた成果である。同時に、彼のシベリア時代の体験も重要な下地になっている。画材に事欠く収容所で、ストーブや屋根裏にこびりついた煤をかき集めたものを、機械油や木材の樹脂などで溶いて絵の具を作った。それで木の板などに描き付けた当時の思い出も、重ね合わさっているのだ。

 濃淡をつけて立体的に表現された黒の陰影は、まさに底無しの人生の深淵を覗き込むようだ。絵の具が厚く塗り込められたキャンバスの中で、表情を失い、言葉をなくした人々が、それでも生きようともがいている。そして死は静かである。

 『シベリア・シリーズ』の作品の一つで死者を描いた『涅槃』という作品について、香月さんはこう語っている。

「私は死者の顔を忘れない。どの顔も美しかった。肉が落ち、目がくぼみ、頬骨だけが突き出した死者の顔は、何か中世絵画のキリストの、デスマスクを思わせるものがあった」 香月さんの描く人物の表情は、みな同じスタイルに単純化されている。アメリカの原住民が作るトーテムポールの顔のように見える時もあり、作品によってはユーモラスな印象さえ受ける。『シベリア・シリーズ』の『涅槃』のエスキス的作品で、同じ題名の『涅槃』ではあたかも菩薩のように後光のさした慈愛に満ちた表情が描かれ、『シベリア・シリーズ』を発展させた『感謝する人』は、あたかも人の善い牧師のように、あまりにも穏やかである。こうした香月さんの描く人物は、いずれも彫りが深く、縦長の大きな顔である。日本人離れしているようにも思える。それは、『シベリア・シリーズ』が日本人の恨みと解釈されることを嫌って、普遍的な人間を描こうとしたのではないだろうか。

 絵の具で厚く塗り込まれた顔を見ると、私はルオーが描く一連の『道化師』をテーマにした絵画を連想する。道化師の表情に込められた人間の苦悩は、現代に生きる私たちが永遠に引きづって行かねばならないテーマである。しかしキリストの教えを信じるルオーは、苦悩を感じる人間そのものに、一縷の望みを託そうとしているように思える。香月さんの描く人物には、手を合わせて祈ったり、感謝したりする姿は描かれてはいるが、そうした宗教性は感じられない。ただ、怒りや悲しみといった、人間としての素直な感情が表現されているように思う。ちなみに香月さんは、針金やブリキなどを使っておもちゃも作っているが、人形を作るとき、そのテーマは道化師が多かった。

『シベリア・シリーズ』の『雪』では、香月さんが入れられていたセーヤ収容所での埋葬を描いている。

「毛布が柩のかわりであった。死者が出ると、それを毛布にくるんで通夜をした。はげしい飢えの果てに死んだ者へ、コーリャンのにぎり飯をそなえるのが、せめてもの慰めであったが、それも夜中に盗まれる始末だった。凍てつく雪の夜、軍隊毛布につつまれた戦友の霊は、仲間に別離を告げながら、故郷の空へ飛び去る。そして、あとに残った者には先も知れぬ苦しみが続く。いっそ霊魂と化して帰国したい。現身の苦悩から解放された死者を、どれほど羨ましく思ったことだろう」

 前段で紹介した直本さんたちが作ったような棺桶は、ここではもはや存在しない。しかし毛布で代用された虜囚の柩であろうと、それは人としての扱いを受けなかった死者を、最後は人間として葬ってやりたいと願う仲間たちの、精一杯の気持ちである。

 香月さんの『シベリア・シリーズ』では、『日の出』、『青の太陽』など、太陽をテーマに描いた作品が数点ある。極寒の地で仰ぎ見る太陽はどこか寂しく、美しい。しかも故郷を照らしだす太陽と同じ太陽であり、香月さんの郷愁をさそった。極寒の中で生きる望みをかけられるものは、わずかな暖かさをもたらしてくれる太陽しかなかった。しかし『黒い太陽』という作品では、その表題の通り、太陽が真っ黒に塗り潰されている。太陽でさえ輝きを失ったのだ。いつも心に抱いていた太陽が暗黒の太陽に変わった時、人間は生きる屍となるのかもしれない。

『シベリア・シリーズ』を発展させた作品の『祈り』では、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェーユが祈りについて述べたように、神が存在しないことを知りつつ祈っているように思える。絶望と人間とが両立するのかどうか、香月さんは表現しなければならないという思いで、極限のシベリアを生き抜いたのではないだろうか。

 人は、酷い扱いを受けると怒る。しかしシベリアで、人々はあらゆるものを奪い取られ、怒りの感情さえ残されてはいなかった。香月さんは、その感情さえ奪われた人間も、やはり人間なのだと訴える。強固な精神を持った人でさえ、残飯をあさるようにならざるを得ない極限状況、その中での人間性とは一体何なのか。

 直本さんは棺桶を作ることで、香月さんは帰国したらシベリアに抑留された人々を描こうと心に誓うことで、苛酷なシベリアを生きぬいた。棺桶もシベリア・シリーズも死者のためのレクイエムである。そこには死者の尊厳を伝えねばならないという使命があったのだ。それが生きる力となったのである。

 シベリアから帰国した香月さんは、戦後の経済成長の時代を、生まれ故郷の三隅町で過ごした。どれだけ作品の評価が上がり、様々な賞を受けようと、香月さんは故郷を離れることはなかった。そこが香月さんの世界そのものだからである。

『シベリア・シリーズ』を締め括る作品の一つ、『 私の 地球』は、周囲を山に囲まれた故郷の三隅町を描いた作品である。かつて地球は平板であり、その先には何もないと思われていた時代の地球を、小さな町だけに限定したようなイメージである。この作品について香月さんはこう記している。

「ここが私の空であり、大地だ。ここで死にたい。ここの土になりたいと思う。思い通りの家の、思い通りの仕事場で絵を描くことが出来る。それが私の地球である」

 シベリア抑留は確かに半世紀前の出来事である。しかしそのシベリアを体験した人たちがこの時代を生きて、第二のシベリアが生まれないよう、静かに私たちに語り掛けている。シベリアを考えること、それは人間が人間として生き続けることの意味を問い続けることである。


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