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”いのち”と”こころ”と”平和”を考えます。ジャーナリスト 中村尚樹 Nakamura Hisaki Clubhouse

平和講座PEACE STUDIES

認知症と患者の人権

「近頃、どうも物忘れがひどくて、認知症じゃないでしょうか?」

 時折、こんな問いかけを受けることがある。冗談まじりの口調の人が大半なのだが、しかしその裏には、ひょっとしたら自分や家族が認知症になるのではないかという恐怖感が潜んでいる。

 なぜそんな質問を私が受けるのかというと、認知症治療の最前線を紹介した本を出版したことがあるからだ。取材を進めながら痛感したのは、認知症という病気や患者の真実の姿、あるいはどう対処すればよいのかについて、適切で具体的な知識のある医師や介護福祉士が、まだまだ少ないということだ。

一般の開業医では「年を取りましたからねえ」で終わり、精神科にかかっても「言葉が少なく、意欲がなさそうに見える」という人は、うつ病と誤診されるケースが少なくない。その逆に、認知症と診断されたものの、本当は別の病気であったため誤った治療が行われ、症状が悪化したケースもある。

確かに認知症は、恐ろしい病である。徘徊や妄想、幻覚や暴力で周囲を混乱させ、わずかの内に人間性や社会性がまったく失われてゆく場合がある。だが専門家によれば、その多くは、作られた症状なのである。

ぼけ予防協会が2008年にまとめた報告書によると、認知症の専門医が患者を治療した結果、3分の1以上の人が大きく改善され、症状を「わずかに軽減できた」まで含めれば9割以上の人が改善されたという。しかもこうした患者の多くには、前にかかっていた医師があり、その診療科の半数以上は認知症治療を専門とすべき精神科や神経内科などであった。

あるいは、認知症の専門病棟では落ち着かなかった人が、グループホームでめざましく良くなったという報告は珍しくはない。この場合の「良くなる」とは、病気が治るという意味ではなく、妄想や徘徊などの症状がなくなり、本来の姿に戻るという意味である。このように医療や介護の現場でも、認知症への理解が不十分なのが現状である。

 その一方、新聞やテレビはもちろん、小説や映画にも取り上げられて、認知症という言葉の認知度は上がっている。そこで、冒頭で紹介したような疑問を抱く人が増えているのである。

 それに対する答えの一つとして、初期段階の認知症によるもの忘れの特徴をあげておこう。それは覚えたことを忘れるというより、そもそも新しいことを覚えられないということだ。例えば昨夜の食事について記憶がないという場合を考えてみよう。多くは、食事のメニューが何だったか、なかなか思い出せないというケースであろう。しかし食事した時間や場所は覚えている。これはいわゆる健忘症であり、この程度であれば認知症ではない。一方、昨夜、食事をしたということ自体の記憶がすっぽり抜け落ちているという場合、物忘れ外来などで診察を受けたほうがいい。それも、なるべく早い内に。

 かつて認知症の治療薬は存在しなかった。しかし十年前に認知症の進行を抑える薬としてアリセプトが認可され、薬物治療の道が開かれた。しかもアリセプトは症状を早く見つけて早く使うほど効果がある。

 そうした早期治療の意味で注目されているのが、軽度認知障害であるまだ認知症とは診断されないが、かといって完全に健康とも言い切れない、認知症の一歩手前のグレーゾーンだ。

この状態のうちに生活の改善などで予防することにより、認知症の発症を遅らせ、将来的には発症を防ぐことができる可能性が指摘されている。具体的には、運動や脳の活性化プログラムなどで進行を抑えようとする取り組みが、各地で始まっている。また会社勤めの人の場合、勤務先に本人の状況を理解してもらうことができれば、無用のストレスを受けずにすみ、それは症状の進行を遅らせることにもつながる。やがて認知症となる場合でも、治療や介護の選択肢を探し、自分と家族の今後について十分考え、対応する時間的余裕が生まれることになる。

 この欄では、認知症の歴史を振り返りながら、認知症患者の人権救済に力を尽くした人たちについて紹介したい。

 日本の高齢者問題は1970年(昭和45年)に始まる。

 総務省によれば、総人口に占める六十五歳以上の高齢者人口の割合は、第一回国勢調査が行われた1920年(大正9年)以降、1950年(昭和25)頃までは5%程度で推移していた。その後は年を追って上昇し、1970年(昭和45年)は7.1%と、国連で「老人国」と規定された7%のラインを突破して、日本は老人国の仲間入りをしたからだ。しかし高度経済成長が続く中、世間は大阪で開かれた万国博覧会ブームに沸き、高齢化問題は社会的にはまだ十分自覚されていなかった。

 そんな時代に認知症が注目されたのは、作家の有吉佐和子氏が1972年(昭和47年)に認知症をテーマにした小説『恍惚の人』を発表し、ベストセラーになったことが一つのきっかけである。当時は「痴呆」と呼ばれた認知症が社会現象として、センセーショナルに脚光を浴びたのである。しかし問題もあった。それは、認知症の人が「恍惚」と形容されたことからもわかるように、認知症患者は家族に暴力を振るい、一般の人には理解できない存在であるかのように表現されたことである。この小説は、認知症に対する問題提起にはなったが、その一方で人びとの誤解や偏見を招く一因ともなった。

 このような中で、認知症高齢者に対する福祉行政は、弱者、貧困の救済や援護という姿勢だった。老人病院や施設での対応は、多くは二十人以上が入る超大部屋に入れられ、ベッドの間の仕切りさえない場合が多く、薬漬けで拘束は当たり前、経管栄養に点滴や尿バルーン、カテーテルなど管だらけの、いわゆるスパゲッティー症候群が多かった。

 それでも病院や施設に入所できた人はいいほうである。多くの認知症患者は、「定員に空きがない」「介護に手間がかかるから」などという理由で、施設の入所は断られ、病院も枠が少なく入院できなかったのである。家族にしてみれば、手間がかかるから専門家のいる施設に頼みたいのに、そのころの施設の多くは、家族や患者のことよりも、自分たちの都合を優先させていたのである。

 1985年(昭和60年)には高齢者人口が総人口の10.3%と、初めて10%を超えた。その頃、医療施設や老人ホームなどで「問題老人」とされたのは、多くが認知症の人たちだった。「風呂に入ってくれない」「ごはんを食べてくれない」「何を言ってもわかってくれない」「同じことばかりを繰り返す」「暴力を振るう」「外に出て行ってしまう」などといった問題である。それに対する対処は、問題行動をなくす方向ではなく、問題行動にどうやって対処していこうかという、問題行動対応型の介護だった。「なぜ風呂に入りたくないのか」「なぜご飯を食べないのか」「なぜ暴力を振るうのか」「なぜ外にでて行くのか」と、その原因を検討することなく、「出て行かせないためにはどうすればよいか」「ご飯を食べないのであれば、どのように栄養を摂らせるか」「暴力を振るえないようにするにはどうするか」と、問題とされる現象に対して、もぐらたたきのように対策を講じるのが当然のこととされていた。認知症の人たちは理解されることもなく、人間扱いされないまま、症状はますます悪化し、それに対して、さらなる問題行動対応型の対処がなされるという悪循環が続いていた。

 中でも問題なのが、「抑制」だった。様々な道具を使って、とにかく認知症の人を縛りつけるのである。点滴で薬や栄養剤を投与したり、チューブを鼻から胃にまで通す経管栄養で流動食を摂らせたりするときは、「自ら針やチューブをはずすと、薬や栄養が摂れなくなる」として、ベッドに縛り付けられた。「ベッドから落ちたり、車いすから転倒すると骨折の危険がある」「徘徊して行方不明になると危ない」という理由でも、ベッドや車いすに抑制された。このように、病院や老人ホームが認知症の人を抑制する理由として、本人の安全をまず掲げるのである。あるいは、看護の手が十分に足りないための、やむを得ない措置だという。しかし抑制の理由はそれだけではない。「患者が点滴を抜くと、血が出てシーツが汚れるから」「物を汚すから」「おむつをはずすから」さらに「大声を出すから」「暴力を振るうから」など、本人の安全性とは関わりのない、単にケアをする側の都合として抑制を行っていた面も大きかった。

 抑制という言葉は、広辞苑では「おさえとどめること」とされている。「自分で自分を抑制する」というように、主体的な表現で使うこともあり、言葉の印象は比較的ニュートラルである。しかし認知症の人に対して使われる場合は違う。「行動や自由を抑え付ける」という意味となる。実際には紐やロープを使ったり、皮などで作られた「抑制帯」という拘束具で、両手や両足、あるいは腰などの胴体をベッドや車いすに縛り付けるのである。抑制帯は、当初は普通の帯を流用したりしていたが、市販のものが現われ、外国製なども入ってきて、病院や老人ホームでは普通に使われるようになって行った。施設によっては「安全帯」「安全ベルト」「キーパー」などと呼び変えているが、本人が自分で着脱できない以上、名前を変えてもその実態は変わらない。

 抑制は、一般の患者にも行うことがある。しかし多くは、容態が安定するまでの一時的なもので、長くても数日である。ところが認知症の人たちは症状が慢性化しているため、一度拘束をし始めると、それは本人が亡くなるまで続くのである。

「抑制服」もある。つなぎの服に鍵を付け、服を自分で脱げないようにする。おむつをはずさせないようにするためである。

 元朝日新聞記者で現在はフリージャーナリストの大熊一夫氏は、神奈川県内の“標準的”な老人病院を取材し、1988年(昭和63年)に『ルポ 老人病棟』で、その実態を明らかにした。その中で、当時の抑制の実態についても次のように詳しく紹介している。

「本人を仰向けに寝かせて、まず一本のひもを脇の下―背中―脇の下と通して頭の上の柵に縛る。これで肩が固定される。

 次に、両手それぞれを側面の柵に。さらにウエストの部分をひと巻きして結び、その端を側面の柵に。最後に両足それぞれを下方の柵に。つまりこれは磔スタイルで、身動きが全くできない。

 閉鎖病棟一一六号室のKさんなどは、そんなかっこうのまま、翌日の面会時間が始まる午後一時まで放置されたこともある。実に十九時間の磔である。それにしても、狭い閉鎖空間に閉じ込めたうえで、長時間がんじがらめにする神経はどう解釈したものか」

 これは一番堅固な縛り方で、多くは手や胴体、それに肩までを縛られる。手錠をかけられたような形で両手を揃えて、ベッドの一方の柵に縛りつけられたケースもあったという。

「これほどに縛る最大の理由は『オムツ』である。夜間に縛られる人はすべてオムツをつけさせられている。それをはずせば当然、着物やシーツが汚れる。かえるのに手間がかかる。ヘルパーはこれをきらう。だから、面倒を起こしそうな人は身動きを物理的に封じてしまう。あまりに強く縛ったため、手の先が鬱血を起こすこともある。

 ボケのお年寄りの『不眠』『徘徊』も縛る理由としてあげられている。静かにねてくれるよりは徘徊しているほうが手がかかる。他の入院者に迷惑の及ぶことおある。眼が離せない。これでは夜勤者がかなわん、というのだ」

 想像を絶する人権侵害だ。こうした風潮に異議を唱えた病院があった。東京都八王子市の上川病院である。1983年(昭和58年)、吉岡充副院長は「老人の専門医療を考える会」創設に参加し、事務局長に就任する。高齢者医療を担う病院が参加して設立された会の目的は、「今後急速に進むであろう高齢化社会の中で、老人病院の果たす役割と専門性を考え、わが国における理想的な老人医療のあり方を追求し、全ての老人が安心してより良い医療を受けられる環境を実現させること」であり、現在も会は活動を続けている。

 そして1986年(昭和61年)、上川病院は抑制廃止への取り組みを全国で初めて開始するのである。外部からはもちろん、病院内部からも異論が出た。しかし副院長は決断した。

「なぜかというと、ぼくにとっては信念ということではなく、それが習慣だったからです。当たり前のことだと思ったのです」

 上川病院でも夜間に患者を縛っていたことがあった。それを一切禁止した。それだけでなく、外に向かっても「他の病院も患者を縛るな」と発信し始めたのである。副院長の強いパートナーとなったのが、田中とも江総婦長だった。田中総婦長は、なぜ抑制廃止に取り組もうと思ったのかについて、別の病院での体験を次のように書いている。

「高度経済成長期には医療機関も混沌としていた。私の知る精神科領域では、一旗上げるための精神病院がどんどんつくられた。医療よりもお金儲けが優先されるそんなまともとはいえない病院に、どんどん看護婦たちが吸収されていった。そして、過酷な労働と、理念や人間性に欠ける現場のなかで、あるいは疲れ、あるいは倦怠をおぼえ、ある一群の看護婦たちはすさんでいった」

 医療現場で働く人たちから、なぜそこで働いているのかという理念が失われていたのだ。

「そのころ、自分が看護婦なんて人前でいえないよね、という人が私の周囲に多くいた。『だってだれにでもなれて、だれにでもできて、きたない仕事で、恥ずかしい仕事』だという。やっていることが、たいしたことのようには思えないというのだ。しかし、私にはその一歩身を引いたようなことばが理解できなかった。というより理解したくなかった。私はあきらかに酷いと思う病院で一日二十四時間働きづめに働いていた。だからこそ、看護婦であることに誇りをもたなかったら自分というものがほんとうに何もかもなくなってしまうようで、せつなかったのだ」

 彼女は精神的に追いつめられていった。

「私が生きていくのにはどうしても看護婦としての誇りが必要であったのだ。いま思えばそこが私の出発点であり転回点だった。そしてこの転回点は、当時の精神科の患者さんのおかれた環境とは無縁ではなかったと思う。『追いつめられた気持ち』をもったのは患者さんの扱われ方の酷さがいっそう自分を惨めにしたからだし、それが患者さんの苦しさを体得する基盤でもあったのだ」

 別の病院で、看護婦、そして患者たちの置かれた状況を、同じ人間として重ね合わせることで、問題点を意識化していった。上川病院に移ってたどり着いたのが、縛らない看護だった。その考えは、吉岡副院長と重なり合うものだった。「治療」に名を借りた、医療者の「手抜き」に過ぎないと思っていたのだ。副院長は「入院というほんとうは患者さんも望んでいない非日常の世界で、もっとも害となる医原的な悪は抑制なのではないか」と考えた。

「もうこの病院では、患者さんを縛ることは一切許されません」

 吉岡副院長や田中総婦長はそう宣言した。そして抑制帯を病棟からいっせいになくしてしまった。どんなに禁止しても、そこにあれば、つい使ってしまうのが人情である。一切禁止にまで追いつめないと、現場は慣れた従来のやり方を踏襲しようし、なかなか新しい方法を考えようとはしないからある。

 抑制がなぜ悪いのか。田中総婦長らはそれを、現場で徹底的に話し合った。患者を縛り続けることで、患者の生きる意欲が失われ、あるいは暴言や妄想などを引き起こす恐れがある。肉体的には筋肉が硬直し、あるいは同じ姿勢が続くことで、ベッドと接している皮膚が壊死する床ずれを起こすこともある。体力が弱って感染症にかかりやすくなり、最終的には死期を早める。抑制が症状を悪化させ、それが看護師の仕事を増やしている。その悪いサイクルを断ち切らねばならない。抑制は、総合的に見ると看護師の側にとっても非効率であることを確認していく。

 その上で患者に対する看護のあり方を検討する。これまで「問題行動」とされてきた症状には、必ずその人なりの理由があるはずだ。第一には、「不快」な場合。第二には「その人の世界による必然性がある」場合。第一の場合は、不快な要素を見つけ、それを取り除ければ良い。第二の場合は、行動によって危険が生じないように対処すれば良い。

 ベッドから転落する危険があるのなら、低床ベッドを使ったり、場合によっては床の上に直接マットをひいたりしてもいい。経管栄養のチューブを引き抜く恐れがあるときは、そもそも口から食事を摂れるよう、食事介助を試みる。その際には時間をかけたり、時間をずらしたりしながら、食べてもらう工夫をする。それになにより、拘束で寝たきりにされていては食欲も起こらない。拘束を解き、上半身を起こして日常を過ごすようにできれば、経管栄養自体が必要でなくなる人も出てくる。どうしても必要な人には、経管栄養のチューブが患者に見えないよう、顔から背中側に這わせたりする。毎日のようにしている点滴も、本当に必要なのかどうかチェックしなければならない。必要な点滴はしなければならないが、その場合には腕に沿わせた点滴のルートが患者に見えないよう、服で隠したうえで背後に回せば、患者は気にならなくなって、引き抜く可能性は大幅に減る。あるいは腕から挿入するのでなく、脚のくるぶしや膝の内側、足の先など、下半身から挿入し、点滴台を患者の目線に入らないようにすることでも、患者の注意を逸らすことができる。そうした際に心がけることは、患者を十分見守ることである。

 もちろん、口で言うとの実際に行うのとではわけが違う。なかなかうまくいかず、個人的に抑制帯を持ち込んで使う看護婦や付き添い婦もいた。こうして抑制帯を捨てては持ち込み、また捨てては持ち込むといういたちごっこが半年続いた。

 抑制廃止の方針は患者の家族にも伝え、理解を求めた。「縛られること、自由を奪われるということがどういうことなのか」、そして縛らない」とはどういうことかを、家族が知らなければならないからである。抑制の大義名分は、患者の安全であることから、抑制をなくせば、一時的には患者が転倒したりするリスクもまったくゼロとはいえなくなる。しかしリスクを百%管理しようとすれば完全に患者の自由を奪う抑制が必要となってくる。病院側は抑制をなくすことに伴う転倒などのリスクを家族に明らかにしたうえで、協力関係を作っていかなければならない。

「立って転んで骨折することは、どこでもある。だから私たちは最初にそれをお話しして、そういうリスクをご家族と我々が共有する。その代わり、ほんの小さな事、例えば転んであざを作ったとか、少し熱を出したということも、その日にあったことはその日のうちに電話で連絡します。それは、すぐに来てくれということじゃなく、事実を隠さずに知らせる。そうすると、ご家族は安心なさいますよね」

 ポイントは家族から不信感を持たれないということなのである。治療や看護のプロセスをすべて家族に明らかにし、「どうしてこんなことになったの?」ということが起きないようにする。連絡するのは悪いことばかりではない。状態が良くなった、笑顔が出たということも重要な連絡ポイントである。患者にとって何が一番大切かという思いを、病院と家族が共有するのである。

 上川病院は医療法人化され、現在、吉岡充医師が理事長を務めている。吉岡医師は、他の病院から転院してきた患者を診ていて、同じような状態に見えても、縛られてきた人と、そうでない人との間に違いがあると感じている。

「縛られた経験のある人の中で、私たちの予測より早く亡くなる方たちがいます。お年寄りがある期間以上、縛り続けられると、それはもしかしたら二十四時間くらいかもしれませんが、もとに戻らない変化が起きるのではないか」

 縛られれば食欲が落ち、筋肉も衰え、心もすさんでくる。「自分は生きていても、もう仕様がない」とあきらめてしまう。すると感染症にもかかりやすくなる。点滴治療が必要となる。そのとき、抑制を容認している病院にいれば、再び縛られる。この悪循環が続いて患者は死に至る。吉岡医師は、患者がこうして亡くなることを“抑制死”と呼んでいる。これまでどれだけ多くの方が、抑制死していたかと考えると、日本の医療の貧困を感じざるを得ない。

 抑制廃止の上川病院の取り組みは驚きをもって迎えられた。それは「理想的であり、先駆的」と肯定的な声があがる一方、「抑制廃止などありえない」「上川病院は特殊なケース」と否定的な意見も多かった。しかし、上川病院の取り組みが成果をあげ始めると、やがて上川病院に続く病院が出始めた。1998年(平成10年)には「抑制廃止福岡宣言」が出された。福岡県内十の老人病院が、入院中の認知症高齢者に対する身体拘束を止め、今後も行わないと宣言したのだ。そして間もなく、一般的な規模、内容の老人病院でも短期間で一定の成果をあげたことが様々に報道された。

 こうした流れを受けて、2000年(平成12年)の介護保険に合わせて、保険適用施設での身体拘束は原則的に禁止された。介護保健施設では現在、不必要な身体拘束は大幅に減り、抑制はほとんど行わない施設も増えている。

 しかしいまでも何らかの抑制を行っている施設は、実はかなりある。全国抑制廃止研究会の理事長としても活動している吉岡医師は、抑制が禁止されても、まだ多くの施設が続けていると見ている。

「例外三原則というものができてしまって。それに家族の同意を得ればいいということになってしまったんです」

 例外三原則とは、緊急性、非代替性、一時性のすべてを満たすことである。1999(平成11年)、当時の厚生省令で、介護保険施ではサービス提供の際、身体の拘束や利用者の行動を制限することが原則として禁止された。しかし「当該入所者(利用者)、または他の入所者等の生命または身体を保護するため緊急やむを得ない場合を除き」とされ、こうした場合には例外的に拘束が認められることになった。ただしその場合には「その態様および時間、その際の利用者の心身の状況、緊急やむを得なかった理由を記録しなければならない」などと規定された。厳格な規定のようだが、医師が三原則を満たしていると判断すれば、肉親の命を預ける家族としては、反対するのは難しい。

 ひもで縛ったり部屋に施錠したりして高齢者の行動を抑制する身体拘束は、「特別養護老人ホームなど介護施設を対象にした厚生労働省の全国調査では、三原則に違反するケースが約18000件中、3割を占めた」という(2006929日付け朝日新聞)。

 さらに近年でも、群馬県の特別養護老人ホームでは利用者を車いすごと手すりに縛る虐待的拘束が明らかになったり、千葉県の無届けの老人施設では利用者をペット用の檻に入れ、手作りの手錠で拘束してたとして県などが調査を行ったり、東京都足立区の有料老人ホームでは入居者を手ぬぐいでベッド柵に縛り、定員を上回る人数を一部屋に詰め込んでいたりと、施設における高齢者の虐待問題が相変わらず報道されている。吉岡医師はこうした現状にため息をつく。

「千葉の事件を、ぼくは現代の姥捨て山と言っているんです。どちらかというと、早く患者さんが亡くなればいいわけですね。そこで何をされても、家族はお任せしているし、文句は言いません」

 利用者の側も、意識の変革が迫られている。

  (『認知症を生きるということ』(2009 草思社)、『プレジデントフィフティプラス2009年4月16日号』より一部抜粋し、加筆した。)



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