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”いのち”と”こころ”と”平和”を考えます。ジャーナリスト 中村尚樹 Nakamura Hisaki Clubhouse

平和講座PEACE STUDIES

”こころのヒバクシャ”

 2011年は、未曾有の大地震という天災、そして原発事故という人災の、私たちがもっとも恐れていた事態が現実のものとなった年だった。東京電力の福島原発が「いま、そこにある危機」となってしまった。そしてノー・モア・ヒロシマ、ノー・モア・ナガサキに次いで、ノー・モア・フクシマが、私たちの新たなテーマになった。

 原発事故に関連して、人びとの間で放射線に関する恐怖が身近に迫ったものとなった。そして、その66年前に投下された原子爆弾による被爆者は、そうした恐怖を時代に先駆けて、身を持って味わされた人びとである。この欄では被爆者の子どもたち、いわゆる被爆二世について言及してみたい。

 言葉には、それを使い始めた人間の意思が込められている。「被爆二世」という戦後に新しく作られた言葉もそうである。当初は単に「被爆者の子ども」と呼ばれていた存在が、1960年代後半になって「被爆二世」と呼ばれるようになったのは、被爆二世固有のテーマが生まれてきたからである。

 2009年夏、長崎市出身の歌手で俳優の福山雅治さんが、自らが被爆二世であることをラジオ番組で公表したとして新聞や雑誌で報道され、話題となった。福山さんの事務所に確認すると、「本人は以前から自分の両親が被爆していることはラジオなどでも話しており、今回はどうしてこんなに騒がれるのかわからない」という回答だった。福山さんは大河ドラマ「龍馬伝」で主役を務めるなど話題の人であり、人気者であるがゆえに記事となったのだろう。

 同時にこのニュースは、被爆二世という存在が置かれた微妙な立ち位置を示している。被爆二世の方に伺ってみると、「福山発言がカミングアウトのように扱われてびっくりした」という声が多い。それは彼らが、被爆二世を意識しないで生きてきたからである。同時にそれは、いまの社会には「私は被爆二世です」と自由に語れない空気があることを示しているように思える。だからこそ新聞記事になるし、いまだに腫れ物に触るような雰囲気があるのだ。

 比較的最近の話題としては、2004年の文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞を受賞したこうの史代さんの作品『夕凪の町 桜の国』で、被爆二世の結婚に際して、相手の親が反対するという問題が扱われていた。こうのさんは作品のあとがきで、自らは広島出身だが被爆者でも被爆二世でもなく、被爆に関する事柄について、「怖いという事だけ知っていればいい昔話で、何より踏み込んではいけない領域であるとずっと思ってきた」と書いている。その上で、東京で暮らすうち、広島と長崎の人以外は原爆の惨禍について本当に何も知らないのだということに気づくようになり、「遠慮している場合ではない、原爆も戦争も経験しなくとも、それぞれの土地のそれぞれの時代の言葉で、平和について考え、伝えてゆかねばならない」と考えたと、執筆に至った経緯を述べている。

 いわゆる被爆二世問題は、当事者にとってデリケートな問題を含んでいる。かつては大々的に報道していたメディアも、結婚や就職において差別を助長しかねないという批判も踏まえながら、「寝た子は起こすな」的に、二世問題については以前ほどは積極的に報道していないようである。誤解を恐れて口をつぐむという人も多い。しかし、こうのさんが書いているように、遠慮している場合ではないとも思うのだ。なぜなら、原爆や被爆者問題などに疎い世間の人は、かつてのうろ覚えの知識で、被爆二世についても論じてしまう可能性が高いというのが、その第一の理由である。

 たとえば、広島で被爆二世として生まれ、平和運動に取り組んでいる木原省治さんは、修学旅行で広島に来た中学生から真面目な顔で、「被爆二世なのに元気そうですね」と聞かれることがあるという。「被爆二世といったら、病気がちで元気がないように受け止められている」という、被爆二世に対する偏見がいまでもあるのだ。これは子どもの言うことだから本気で受け取る必要はないという見方は間違っている。なぜなら、子どもにそう教える大人がいるからである。それどころか木原さんは、「被爆二世はみな原爆症の症状を持っている」と解釈されるような表現に出会ったこともあるという。それもなんと、中学校の公民の教科書である。しかも「人間をだいじにする政治」の「人間の権利」という項目のなかに、「原爆の被爆者を親に持ち、自らも原爆症の症状をもつ人のことを被爆二世とよんでいる」と書かれていた。木原さんは教科書を作った出版社にその点を質すと、担当の社員は「すみません、どこが問題なのかわからないのですが」と答えたという。木原さんは「執筆者ではないから『わからない』ということを非難するのは酷なのかもしれないが、なんとも情けない気持ちにさせられたことがあった」(『ヒロシマ発チェルノブイリ 僕のチェルノブイリ旅行』)と記している。

 被爆二世の人たちのなかには、生まれつき身体が弱かったという人も、確かにいる。二世の人たちの手記を読むと、そのような表現にときどき出会う。

「私も、(鼻にできた腫瘍で)死んだ(同じ被爆二世の)兄と同じで、幼い頃から、よく鼻血を出した。中学に入る頃から特にひどくなり、病院で止血剤を打ってもらうのは、しょっちゅうで、特に夏は、毎日のように鼻血を出していた」

「姉妹三人それぞれが病気を持っておりました。長女は、起立性調節障害と血液異常、次女は、極度の貧血と、特に夏の盛りは大量の鼻血を出し、年中黄色い顔色をしておりました。そして、三女である私は、先天性脱臼と筋肉委縮……。私たち姉妹のだれかが、少しでも具合が悪いというと、母の表情が急にけわしくなるのです。『勉強などしなくてもいい。寝てなさい。生きていてくれればいいのだから』」(『終わりはいつですか』)

 原因不明の病気に苦しんだ二世の人がいた。それも自分ひとりではなく、まわりの二世にも似た境遇の人たちがいた。彼らはそれをどうしても、原爆と関連づけて考えざるを得なかった。そう思うのは当然のことであろう。

 その一方で、健康面も含めて二世であることを意識せずに生きてきた人たちがいる。というより、そうした人たちが人数的にはほとんどである。たとえば、ある二世の方は二十一歳のとき、「反戦歌をつくろうというなかで、母に尋ねたら、母が被爆者だったという現実があったわけです。そこで、私も被爆二世だったんだということに初めて気づいたんです。要するに、長崎の大半の若者というのは、おそらくそういう状態で育ってきてるんじゃないかなと思う」(『終わりはいつですか』)と書いている。広島、長崎には戦後、外地から帰還した人など、被爆していない人たちが次々と戻ってきたが、それにしても被爆者が多数であり、戦後に生を授かって生まれた子どもたちは被爆二世が多かった。だから、二世の友だちが白血病で亡くなったりした場合などを除き、そのことを特別意識することはなかったのである。

 要は「被爆二世」というレッテルで、人をくくってしまおうとすることの愚かさである。百人いれば百の顔があるように、被爆二世も、健康状態に問題のない人もいれば病気の人もいて、個人差が大きい。人によってそれぞれなのは当然である。第一章で紹介する性教育の第一人者の河野美代子さんは、「無知は偏見の兄弟」と言うが、その通りであろう。ある被爆二世の養護教諭の女性は、つぎのように書いている。

「『健康』とは何だろう。程度の差はあるが、人間誰でも、からだのどこかに何か『病気』や『障害』を持っているものである。それなのに、「五体満足で生まれてよかった」とか、「健康なことが何よりも一番の親孝行だ」とかいう表現をする人がいる。私は、『被爆二世』という一つのハンデを持って生まれ、そのおかげで『健康』ということばの問い直しができ、人の心の痛みのわかる人間になれたと思う」(『被爆二世 核と被爆問題を考える』)

 被爆二世とは、ハンディキャップのひとつであるという見方は、わかりやすい。ハンディのレベルが0の人もいれば、1の人もいれば、10の人もいる。しかもこうした人生におけるハンディは、被爆二世の人たちに限らず私たちの誰もが必ず持つものである。誰の世話にもならずに生きてきた自分には、ハンディなど関係ないと思っている人もいる。しかしそういう人は、自分では何もできない赤ん坊時代というハンディのときがあったことを忘れているのである。そして誰でも老後は、介護や病院のお世話になるというハンディを持つことになる。それは生老病死という四苦を背負った人間の歩みとして当然のことであり、なんら非難されるべきことではない。というよりも、ハンディを持つからこそお互いに助けあって、よりよく生きられるのである。被爆二世としてのハンディが、他の一般のハンディと違うのは、それが戦争、それも核兵器によってもたらされた、人類にとって未知の被害だという点である。

 ここにおいて、被爆二世を論じてみたい、第二の理由が生まれてくる。私たちはハンディがあれば、それをなんとか克服しようと努力する。被爆二世の人たちのなかにも、自分自身が被爆二世であるということをひとつのバネに、それを否定するのではなく、それを活かしながら、新たな人生を模索しようとする人が多数いる。取材を通してそうした人びとに出会い、彼らを描いてみたいと思うようになった。それは彼らの、人間としての成長の軌跡でもある。

 被爆二世は全国で三十万人とも五十万人とも言われている。なぜ漠然とした数字なのかというと、被爆二世が何人いて、健康状態や生活実態がどうなっているのか、調査がまったく手つかずのまま残されているからだ。

 広島市が出している『広島市原爆被害者援護行政史』には、「厚生省では(昭和)50年に実施した『被爆者実態調査』の結果、被爆二世の総数を32万人と推定」という記載があるのだが、厚生労働省に確認すると、「こちらから公式に出したことはなく、広島市が実態調査を踏まえて出されたのではないか」との返事で、国が人数を推定したと言われることすら及び腰である。そこで被爆二世団体では被爆者の人数をもとに、子どもがひとりからふたり程度いるというおおざっぱな推定で、被爆二世は30万人から50万人という数字を示すしかないのである。

 では被爆二世に対する具体的な援護策はといえば、国の事業で二世の健康診断だけは継続されているが、しかしそれだけである。このように被爆二世は、実態がよくわからず、そのため対策も中途半端な、グレーな存在として扱われている。

 確かに被爆二世は、日本全体からみれば少数である。しかし、彼らを論ずることは、核時代の最先端を考えることでもある。「主体的に被爆二世を生きる」という観点からすれば、被爆二世こそ、核戦争を体験していない世代のトップランナーであるからだ。

 長崎の証言の会代表委員の故・鎌田定夫さんは、被爆者という存在について「もっとも人間的な生き方を運命づけられた」人びとだと考えた。自分には直接的な落ち度が何もないにもかかわらず、被爆という巨大な暴力に襲われ、二度とこうした悲劇を繰り返さないよう求め続ける。それは自発的な意思というより、そうせざるを得ない立場に追い込まれてのことである。被爆者の名越操さんが「私は好きこのんで被爆者になったわけではありません。そして、息子も好きこのんで病気になったのではありません」と言うのは、そのとおりであり、彼らの背中を見続けてきた被爆二世の人たちは、そのことを誰よりも理解している。

 被爆二世の人たちは、自らが放射線の遺伝的影響による健康被害をいつか受けるかもしれない、あるいは三世、四世へと引き継がれるかもしれないという恐怖や偏見と闘いながら、同時に核廃絶に向けた訴えを受け継いでいかねばならないとも感じている。その意味で彼らは、核時代の負の十字架を背負った、我々の世代の象徴でもある。

 だが彼らは、ことさら気負って平和を訴えているわけでもない。例えば“ハマショー”の愛称で知られるシンガーソングライターの浜田省吾さんは、父親が広島で被爆した被爆二世である。浜田さんはテレビにはほとんど出演しないため、一般にはなじみの薄い面もあるが、その分、コンサートツアーのチケットはプラチナ化し、デビューから三十年以上たったいまも幅広い年代から熱い支持を受けている。

 彼の持ち歌は、切ないラブソングが多いが、それだけではない。社会的なメッセージが込められたものも多い。1982年発表の「僕と彼女と週末に」では、「売れるものなら/どんなものでも売る/それを支える欲望/恐れを知らぬ自惚れた人は/宇宙の力を悪魔に変えた」と歌った。最後の一節は、核兵器であろう。1986年発表の「八月の歌」では、「八月になるたび/ヒロシマの名のもとに平和を唱えるこの国/アジアに何を償ってきた」と、アジアに対する侵略を反省しようとしない日本に対する怒りを素直に表現している。1988年の作品「Rising Sun〜風の勲章〜」では「過ぎ去った昔の事と/子供達に何ひとつ伝えずに/この国、何を学んできたのだろう」と訴えかける。

 彼は社会貢献的な活動にも取り組み、1992年にはエイズの治療と研究に寄付する目的で、1995年には阪神淡路大震災の被災地復興を願って、それぞれチャリティ・シングルを発表した。さらに活動を恒常化しようと基金を設け、NGOなどの活動を継続的に支援している。

 こうした浜田さんの活動のバックボーンのひとつに、父親の被爆体験がある。警察官をしていた父親は原爆投下直後の広島に救助隊とともに入り、被爆した。そのときのことを父親は、まだ小学生だった浜田さんに「生き地獄としか表現しようがない」と語ったという。

「父を誇りに思っている。深く感謝している、私に人生を与えてくれたことを。子供達の世代により良き人生を受け渡したい、と思う」(「広島世界平和ミッション」ホームページ)

 浜田さんは音楽活動を続けるなかで、自身の思いを自然と歌に込めていった。そのなかには恋愛もあれば、家族のこともある。そして父親が被爆した原爆のことも詠みこんでいった。恋愛の切なさも、核廃絶の願いも、浜田さんのなかで肩肘張ることなく共存している。いずれもいまを生きる人間にとって必要で、切実な願いであることを、あるがままに理解しているからだろう。被爆二世である彼にとって、核兵器の問題はだれよりも身近なテーマであり、重要な問題だが、声高に「核兵器廃絶」を叫ぶのではなく、日本社会を相対化しながら、核の問題も自然と「歌」という形に昇華している。このように核兵器廃絶を訴えることは、人間としての生き方にかかわる問題でもある。

アメリカの精神医学者R・J・リフトンと、ジャーナリストのG・ミッチェルは共著『アメリカの中のヒロシマ』のなかで、「核兵器を破壊者ではなく保護者と見做す」アメリカの心性について、「アメリカ人の命を救うためならほとんどすべてが許される」と見抜き、そのために「初期の原爆と比べて何倍もの破壊力のある核兵器が道徳的な目標に役立つとして尊敬され、正当化されるような、にせ物の宇宙を作り出してきた」と論じた。それは「道徳的な想像の倒錯」であり、「我々(アメリカ人)の心や広範な社会の隅々にまで」入り込んでいるという。

第一次世界大戦の悲劇を教訓に、1929年のパリ不戦条約で戦争は違法化され、合法的な武力行使は自衛権の行使にのみ限られている。しかし核兵器は、防衛のために自国内で使われることはありえない。もし核兵器を炸裂させれば、敵よりも自国の被害の方がはるかに甚大になるからである。つまり核兵器の本質は攻撃的であって国際法違反であり、国家の存続と繁栄のためであれば、何をしても構わないという「国家の論理」を、究極の形で体現したものだ。それは国家というシステムが、核兵器という存在で守られることを必要とするほど肥大化し、人間を抑圧するモンスターになってしまったことをも示している。

その核兵器に異を唱えることは「国家の論理」を打ち破り、一人ひとりの人間が「にせ物の宇宙」から脱して、自分の人生の主人公となることを目指すものである。それをここでは「人間の論理」と呼んでおく。本書で紹介した被爆二世の人たちは、明確に戦争反対の取り組みをしている人もいれば、人権を守るという観点から社会運動に取り組んでいる人もいる。彼らに共通しているのは、いずれも「人間の論理」の立場から、「国家の論理」に明確に「NO」を突きつけていることだ。しかもそれを自分たちのそれぞれの場所で、足元を見つめることによって実現しようとしている。

 かつて全共闘世代に強く支持された作家の高橋和巳さんは、被爆者を主人公にした小説『憂鬱なる党派』を発表するなど、原爆に対する関心も深かった。彼は「平和」というテーマについて、「明治維新いらい、国家価値が先行し、権力のおしつけによって戦うことに慣らされてきた日本人の心性を、平和の中での義務に向けて生甲斐を感ずべく再構成せねばならない。平和は退屈な日常でも、絶対の目標でもなく、それ自体を壮大な人間のドラマと化すべき素材であり、手段であり、同時にまた条件である」と書いている

 そのうえで、第二次大戦は、私たちにとって不幸な体験だったけれども、そこでしか気づかれない人間についての認識はあったはずなのである。しかもそれを全国民的な価値として生かしうる思考の自由や社会条件はまがりなりにもととのっている。妙ないい方だが、平和に耐える思想が、そこから生まれるべきだった。だが今までのところ、それはまだなされていない」と記した。政治の季節を生きた高橋さんにとって、「平和と革命はいわば同義語」であり、「平和国家の建設」と「社会体制の変革」とは、「事柄としては同じことの両面」だった。

 考えてみると、“平和”とは、やっかいな言葉である。それはなんともあいまいで、人によって様々な解釈が可能だからだ。例えば「勝って来るぞと勇ましく/誓って故郷(くに)を出たからは/手柄たてずに死なりょうか」で始まる、薮内喜一郎作詞、古関祐而作曲の有名な軍歌「露営の歌」で、歌詞の最後は「東洋平和のためならば/なんの命が惜しかろか」と結ばれている。つまりかつての日本では、“平和”を実現するためには、戦争も当然の行為とされていた。これは何も日本に限らず、常に戦争は“平和”を実現する名目で行われ、その結果として“平和”が破壊されるのである。

 これに対して戦後は、いわゆる“平和憲法”のもとで、平和とは戦争のない状態だと考えられている。特に戦争経験者にとって、それは真実であろう。しかしたとえ戦争がなくても、平和ならざる状態は存在する。極端な貧困や差別、抑圧や不平等といった問題が依然としてなくならないどころか、最近ではかえって深刻化しているからである。それでは、本当の“平和”は、永遠に手の届かないところにあるのだろうか。

 非服従抵抗運動でインドを独立に導いたマハトマ・ガンジー(18691948)は、「平和に至る道があるのではなく、いま歩んでいる道こそ平和なのだ」と述べている。それは徹底した非暴力の、苦難の道であった。彼はなぜ武力闘争ではなく、あえてより困難な非暴力の道を選んだのか。ガンジーは、「結果は自分たちではコントロールできないが、手段はコントロールが可能であり、しかも手段は目的と一致する」という趣旨を述べている。手段が平和的でなければ、得られる結果も平和的ではなくなることを知っていたのである。

 私たちの社会は、それぞれの人間が本来持っている可能性を抑えつける不当な力に満ちている。その抑圧に息苦しさを感じる人びとは、知恵を絞ってなんとか問題を解決しようとする。暴力に頼らないその努力、その取り組みそのものこそ、現代における“平和”と呼ぶべきであろう。その場合の平和は、確かに苦しいものであるし、忍耐が必要とされる。

 折り鶴の少女の思いを歌で綴る歌手の佐々木祐滋さんは、かつては「他人事と思っていた」彼女の物語を、わがこととして受け止めている。戦場のビデオジャーナリストとしてイラクで取材を続ける玉本英子さんは、イラクの子どもたちと日本の子どもたちの架け橋となっている。NPO団体もやい理事長の稲葉剛さんは、人びとが貧困に陥った原因は自己責任ではなく、社会の問題だと捉え、市民の目線で解決策を探る。性教育に取り組む産婦人科医の河野美代子さんは臨床家として、若い女性の「痛み」に涙し、支援の手を差し伸べる。パントマイムのプロ、村田美穂さんは、難病の子どもたちの優しさに共感する。父親の原爆体験を、自分自身の経験というフィルターを通して捉えなおしたフリーライターの吉田みちおさんは、それを自分の言葉で表現する。戦場取材を経験した写真家の吉田敬三さんは、被爆二世の心を写し撮る。外にあっては韓国の被爆者や被爆二世を支援し、内にあってはまだ若い被爆三世らを支援し続ける二世もいる。彼らを含めた「こころのヒバクシャ」たちは、「神秘さや不思議さに目をみはる感性」、「センス・オブ・ワンダー」を持ち続けている。

 確かに私たちはグレーな時代に生きている。黒か白か、善か悪か、あらゆることについてはっきりとは決められない世界であり、混迷の度はさらに深まっている。そうした時代にあって、無力感にとらわれる人も多い。しかし私が取材した被爆二世や三世たちは、それぞれ自分の領域で父や母、祖父や祖母の思いを胸に秘めながら、闘っている。その舞台は様々だが、いのちの輝きを大切にしたいという願いは共通している。灰色に濁った世界のなかで、キラッと輝くそんな一人ひとりの力が、私たちの世界を少しずつではあっても変えていくと思うのである。

 アメリカの海洋生物学者、レイチェル・カーソン(190764)は『沈黙の春』で、環境汚染が生命に及ぼす危険性を警告したが、それは核兵器の問題にもあてはまる。「とくに重大なのは、ひとりの人間が汚染されるのにとどまらず、遺伝子の損傷により人類全体の未来が危機に瀕することが予想されるから」(レイチェル・カーソン日本協会ホームページ)である。彼女は遺作の『センス・オブ・ワンダー』で、「残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない<センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性>を授けてほしいとたのむでしょう」と訴えている。「こころのヒバクシャ」は、言葉を換えて言えば、核時代に対する「センス・オブ・ワンダー」を持ち続けている人たちとも呼べるだろう。

 想像を絶する被爆体験から、いまなお沈黙を続けざるをえない被爆者たちが存在する。一方で原爆の悲劇を知らない若い世代が増えている。その狭間で育った被爆二世たちは、原爆投下を招いた社会の在り方を自分たちの問題と受け止め、過去を真摯に見つめることで、現在の問題点を明らかにする。彼らはそれぞれ自分の現場で活動しながら、社会の不正義に対して泣き寝入りすることなく抵抗し、闘っている。こうした取り組みこそ、足もとから創る“平和”である。様々な問題に直面して悩み抜いた、そんな彼らの心の軌跡こそ、“平和に耐える思想”と呼んでもいいだろう。

にせ物の宇宙を作り出してきた」核兵器を頂点とする国家の論理は、人と人との絆をも断ち切ろうとする。これに対抗して新しい社会を創っていくためにはどうすればよいか。それを、被爆二世をはじめとする「こころのヒバクシャ」たちは「人間の論理」として、私たちに示してくれているのである。

『被爆二世を生きる』(2010年、中公新書ラクレ)「はじめに」「おわりに」を改編し、加筆した。


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