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”いのち”と”こころ”と”平和”を考えます。ジャーナリスト 中村尚樹 Nakamura Hisaki Clubhouse

著作BOOKS

『名前を探る旅』(2000年 石風社)

教育方針イメージ

 死者への思いと行き場のない憤怒が、終わりなき鎮魂の旅へ駆り立てる。

 原爆により、長崎三菱工場の六千名以上、広島市女の女生徒七百名近くが、一瞬のうちに命を落とした。その生死を分けたのはある偶然であったにせよ、生き残った者にとっても、この世は煉獄であった―ー

  (本書帯より)


 蒼氓(そうぼう)という言葉がある。無名の庶民一人ひとりをさしていう言葉だが、重く寂しい影を曳いている。本書を読みつつしきりに浮かび来るのが蒼氓という言葉だった。

 本書ナガサキ篇の主人公原圭三は、三菱重工長崎造船所に勤務していて被爆し、かろうじて生き残った一人である。<原の働いていた原口町工場では、動員学徒や食堂員などを含めて三百四十八人の作業員の内、九十九%以上が亡くなった>

 自分だけが生き残ってしまったという心疚(やま)しさは、戦後が遠くなっても原の心から消えることはなく、被爆後二十九年目にせめて<三菱造船所で亡くなった同僚だけでも、正確な名前と被爆した場所や当時の状況について、きちんと一覧できる名簿をまとめようと決心>する。四十九歳であった。本来は国や県や市や会社がしていなければならないことがなされていなかったのだ。

 まぎれもなく一九四五年八月に生きていながら、原爆によって一瞬の内にかき消され、名前すら記録にとどめられない蒼氓一人ひとりを、原は執念をもって生き返らせていくのである。その作業の困難さに、もう止めようとすると、夢に黒焦げの男たちが押し寄せて「俺もおる、俺もおる」と叫ぶのだという。自らも癌と闘いつつ、原が二十年がかりでまとめた名簿には六千二百九十四人の名が並んでいた。名前が明らかにされることで、一人ひとりの生が復権されたのだ。原圭三氏がなしとげたことの重さに頭を垂れずにはいられない。

 著者は長崎の放送局に勤務中に、「被爆地ナガサキ」の話題のひとこまにはなるだろうというくらいの気持ちで原圭三の取材を始めたが、その執念の重さに惹きこまれてゆく。ついには放送局をやめてフリーライターとして、最初のドキュメントとなる本書をまとめることになる。ヒロシマ篇まで紹介できなかったが、戦後五十年を経てもなお掘り起こすに足る蒼氓の記録が埋もれていることを証したのは、著者の手柄といっていい。

   ノンフィクション作家 松下竜一氏評(2000年11月26日付け 西日本新聞)


 元三菱マン・原圭三氏による被爆者たちの「名前を探る旅」を追跡する元NHK記者のルポである。しかもそれは、若い政治学者としての洞察力と論理、正義感によって裏打ちされている。

 原は爆死した同僚たちの人間復権と自らの贖罪の思いを果たすことを誓うが、それは自らも三菱という巨大組織の一員であることによって、会社、お役所、そして「核の傘」を強いて死者たちを顧みない組織、国家の論理によって阻まれる。これにあらがう個人、人間の論理を通して、彼は真の「人間の絆」の存在を確認しようとする。そしてそれは、長崎に発しながら、沖縄の「平和の礎」にまでたどりつく。

 このテーマは広島の宮川裕行氏の物語である第二部、「ヒロシマの絆―ー父から子へ」においても更に説得的に展開される。

 この異色のドキュメンタリーは、従来の証言記録とはちがった視角から問題を掘り下げ、読者に真の人間的な思考と行動を迫っている。

  長崎平和研究所 鎌田定夫氏評(『ヒロシマ・ナガサキ通信』2000年9月14日号)


「一本の鉛筆があれば、何よりもまず『人間の命』と書き、『核兵器の廃絶』と書き続ける決意であることをここに宣言し・・・・・・」。秋葉忠利・広島市長の「平和宣言」の一節である。

 一本の鉛筆で、長崎原爆で亡くなった同僚の名簿を作り、遺族捜しの旅に出たのは原圭三さんだ。原さんは1942年、三菱重工長崎造船所に入社した。17歳だった。45年8月9日、後輩に代わって防空壕堀り当番に出た。ごう音とともに壁にたたきつけられた。

 場所は爆心地のすぐそば。防空壕にいた約20人中、生き残ったのは奥で作業をしていた原さんともうひとりの二人だけだった。代わらなければ後輩は助かった。生き残った者の務めとして、造船所の同僚の名前と被爆した場所、状況を記した名簿をまとめようと決心した。

 83年に定年退職して一層作業に打ち込んだ。がんで4度手術したが、へこたれなかった。だが、調査をはじめてから15年、壁に突き当たった。手がかりがまったく得られない。その夜、原さんは夢をみた。真っ裸で黒こげの男たちが押し寄せ、「おれもおる」と叫んでいた。

 翌日も3日目も4日目も同じ夢だった。調査を打ち切ろうかと思っていた原さんはノートを広げて、作業を再開した。その夜から夢にうなされることはなくなった。「死んでいった人たちが『すまんなあ』と言ってくれているような気がするんです」と原さんが語っている。

 名簿をもとに、原さんは長崎原爆の無縁仏の遺族捜しの旅に出た。努力のかいあって、無縁仏としてまつられていた人たちのうち、22人の遺族と連絡をとることができたという。この旅の記録は中村尚樹さんの『名前を探る旅』(石風社)に詳しい。原さんの一本の鉛筆から、死者の思いが惻々(そくそく)として伝わってくる。

  「余禄」(2000年8月10日付け 毎日新聞)


「本書は、名もなき被爆者二人の記録である」。あとがきにはそう記されている。長崎と広島に投下された原爆が、さまざまな生ある人びとを一瞬のうちに焼き尽くし、「無名」の死骸に変えてしまったこと、そして生き残った名もなき者が長い沈黙ののち、「名前を探る旅」に出立するまでの葛藤を本書に知るとき、この記録がどれほどに重い意味を持つものであるかを、一読するものは見出すことだろう。中村尚樹『名前を探る旅―ーヒロシマ・ナガサキの絆』は、二人の被爆者の人生を追いながら、人間として在ることの意味を問うた一書である。

「ナガサキの絆―ー人間の論理」で綴られるのは、原爆で亡くなった会社の同僚の名簿づくりに取り組む一人の被爆者、原圭三さんの姿である。原爆が炸裂したとき、防空壕掘りをしていた原さんは奇跡的に生き残った。だが、三菱重工長崎造船所の同僚の多くは原爆の犠牲となった。そして自らも原爆の後遺症を抱え、死の影を引きずりながら戦後を生きてきた。「自分が死んでしまえば、自分の記憶の中にある原爆で死んでいった同僚たちのことはどなるのだ。誰も振り返る人がいなくなってしまう。彼らの名前をいま、取り戻さなければ、永遠に失われてしまう」。亡くなった同僚だけでも、彼らの名前や死亡状況などを記録した名簿を残さなければならない。生き残った自らの務めとして、原さんは被爆から29年、長い沈黙を経て名簿作りを決心したのだった。

 こうして、原さんの『名前を探る旅』が始まった。しかしそれは、単に名前だけを記録した名簿作りではなかった。その旅は、名前を持つ一人一人がどのような人生をたどってきたのかを確認する作業なのだと、本書には記されている。死者たちは、もう言葉を発することもできない。その無念さが、原さんを突き動かし続けた。「原の名簿は、原と彼らを結ぶ絆の証なのだ」、本書のなかで著者はそう述べている。

「あらゆる手がかりを懸命に探せば、その人の名前から、その人の人生が見えてくる。そして彼らは、原爆で無残にも断ち切られてしまったおのおのの人生について語りかけてくる」。原さんは本書のなかでそう語る。そして「名前を探る旅」は、無縁仏をもたどって続けられ、少しずつその名前と身元が明らかになってゆく。名前を探る原さんの作業には、原爆投下の後、遺体を次々に焼け跡で荼毘に付した光景が二重写しになる。名前を一字たりとも間違うわけにはいかない。企業や行政に任すわけにはいかない。原さんの旅は、無縁仏のふるさとを訪ね、身元を探す旅へと続けられていった。「名前を探る旅」は、著者のいうように「名前と共に生きる旅」として原さんを駆り立てたのであった。

「六年という歳月は、恐らく多くの僕たちの記憶を忘却の渕に沈めて行く力を持っているに違いありません。……この文集は、被爆の体験については何も語りたくないという痛切な沈黙の心理と、誰かに向かってこの体験を訴えずには居られない強い衝動との交錯の中から生まれてきたものであります」。1951年、京都で「綜合原爆展」が開かれたのにあわせて、冊子『原爆体験記』が作られた。この文章は、当時京大の学生であった宮川裕行さんが序文にしたためたものであった。彼は高橋和巳たちと交友を結び、一時は作家を志し、断念する。そして郷里の広島に帰り、長年高校の教師を務めた。本書の「ヒロシマの絆―ー父から子へ」は、彼の「名前を探る旅」の記録である。

 やはり教師であった宮川さんの父は、原爆で多くの生徒を死なせてしまったという思いを抱えて戦後を生きた。そして宮川さんは、30年以上にわたって、自らの原爆体験について沈黙したまま、教師生活を続けてきた。その彼に沈黙を破らせた最大の動機について、本書ではそれを「原爆で亡くなった人々に対する鎮魂」であったと書き記している。自分の家族は生き残ったが、原爆で亡くなった人々や家族を失った人々に対して言い訳ができない。その気持ちが、宮川さんの原点にはあったという。自分は原爆の最も悲惨なところを見てはいない、そうした思いが、彼の長き沈黙と鎮魂、そして被爆体験を語る原点にあったのである。

「自分だけ生き残ったという罪の意識」。それを抱えながら、戦後を宮川さんは広島で生きた。そして、亡くなった人々に対するつぐないとして、被爆体験を語る彼の姿があった。著者は本書に記している。「宮川の重荷となっていた被爆の体験、すなわち両親以外のまわりの人を誰も助けることができなかったこと、たくさんの生徒を死なせてしまったという父の思い、そうしたたくさんの気持ちを否定するのではなく、そのまま受けとめてくれる人々がいる―ーそれが死者への贖罪へとつながってゆく。それが、ヒロシマの絆ではないだろうか」

 1994年、広島市立第一高等女学校の生徒たちが原爆投下の1945年正月に書いた書き初め35枚が発見された。「端正簡素優雅」と楷書でしたためられたその一枚一枚に、「昭和二十年元旦」という文字と学年、組、そして筆者の名前が添えられている。その「文の林」に分け入った著者は、書き初めを遺族らに返す宮川さんの作業を描いている。「あの時、みんなと一緒に死んだ方がよかった」という気持ちを抱きつつ、そして許されることなど到底ないと知りつつ、宮川さんはつぐないとして、彼の「名前を探る旅」を始めたのだった。

 被爆体験を語る宮川さんの旅は海を越えて、被「曝」者となったチェルノブイリの人たち、ロシアのキエフにまで及んだ。そして韓国人被爆者との交流とともに、彼らが被爆者手帳を取得するために、その世話や証人探しを手伝う仕事が続く。本書からは、残っている名簿などから見出された彼らの名前が「創氏改名」による日本名であることに、現在も続く戦争の爪あとが浮き上がってくる。宮川さんたちに投げられた「だますなよ!」という言葉とともに、日本の植民地支配がもたらした一人一人のなかの「戦争」が明らかになるのだった。

 長崎と広島に生きる二人の「名前を探る旅」。そしてその二人の名前に込められた人生をたどるジャーナリストとしての著者自身の「名前を探る旅」が本書に実を結んでいる。

  (2000年9月23日付け 図書新聞)


 本書に登場する原圭三と宮川裕行は、長崎、広島への原爆投下による地獄を経験し、生き残った人たちだ。三菱重工長崎造船所の従業員だった原は、同じ造船所で原爆により命を奪われた人々の名簿作りに着手。さらに無縁仏としてまつられていた人たちの遺族探しに乗り出す

 一方、旧制中学在学中に被爆した宮川は、約七百人の犠牲者を出した広島市立高等女学校の校長を父にもつ。犠牲になった女子学生らは三十五枚の書き初めを残した。宮川はそれをもとに、彼女らの遺族探しに奔走する。

「名前を探る旅」とは、二人の被爆者による原爆死没者の名前探しと遺族探しの旅にほかならない。しかし、なぜ彼らは「名前」にこだわり、また、身を削る思いまでして「旅」に出かけるのか。彼らを「旅」へと突き動かすものは何なのだろうか。

 このルポルタージュは、二人の「名前を探る旅」を克明に描きながらも、それ以上に、彼らが名前探しと遺族探しを決意するに至った「沈黙の時代」に多くのページをさいている。原が名簿作りを決意するまで、宮川が被爆体験を語り始めるまで、実に三十年もの沈黙の時代が必要だった。この沈黙の時代に、二人の脳裏に去来した原爆投下直後の地獄絵、その地獄から「生きのびてしまった」ことに対するわだかまりやこだわり、被爆者にのしかかる幾重もの歴史の重圧を、彼らがどのように受け止め、やがて被爆者として生きることの意味を見いだし行動していくのか。その精神と行動のジグザグが丹念に描き出されている。

 原爆で一瞬に街が焼き尽くされ、多くの人々が犠牲になった。しかし、そうした一般的な表現から一歩踏み込んで、その瞬間に命を奪われた一人ひとりの人間の無念さへと思いをはせることによってしか、非人間的な「核の時代」を乗り越えることはできないのではないか。二人の被爆者の人間的営みに光を当てた本書は、核の時代を二十一世紀に積み残してしまった私たちに対する問題提起の書でもある。

   鹿児島大学 平井一臣氏評(2000年8月27日付け 南日本新聞)


 20世紀を核の世紀とした二発の閃光―ー広島と長崎の被爆体験については、既に数多くの記録や著作があるが、本書は鳥取市出身で元放送記者のフリーライターによる、隠された被爆の地道な追跡のリポートである。

 取り上げられているのは二人の無名の被爆者で、一人は長崎市の三菱長崎造船所の元工員で、長崎に原爆が投下された1945年(昭和20年)8月9日当日、防空壕掘りを部下と交替したため一命をとりとめた被爆者の原圭三氏である。

 もう一人は、広島に原爆が投下された1945年8月6日当日、昼間の暑さを避けるため生徒全員で疎開作業の最中に爆心地近くで直撃を受け、生徒のほとんどを失った広島市の高等女学校校長の長男の宮川裕行氏である。

 前半の長崎篇の主人公の原氏は戦後、亡くなった同僚の名簿すらない状況に憤りを感じ独力で造船所はもとより三菱系列の死者六千人の命簿をまとめ上げただけでなく、この名簿をもとに、身元がわからず無縁仏として祀られていた犠牲者の故郷を探す旅を始める。

 後半の広島篇の主人公の宮川氏は、作家の故・高橋和巳と京大時代の文学仲間で、小説『憂鬱なる党派』の主人公のモデルになるなど、この著名な作家に深い影響を与えた人物だが、京大在学中に被爆者の証言録の先駆的な仕事として『原爆体験記』をまとめる。

 長崎で記者経験を持つ著者は、この二人と付き合いを重ねるうちに、被爆者を追跡する二人を再発見する旅へと自ら歩みだす。著者によると、二人の被爆者の追跡に共通する内面の動機は、「償いの気持ち」である。

 長崎篇の主人公の原氏は、原爆の無縁仏の遺骨をそれぞれの家庭のもとに送り届けようと苦労を重ね、広島篇の主人公の宮川氏は、父の女学校の生徒たちが書いた形見の書き初めを家族に返すにとどまらず、韓国・朝鮮人被爆者の救援にも尽力した。

 著者によると、この二編に共通するキーワードは「名前」である。それも、遺骨や遺品を手がかりに、単にそれぞれの被爆者の名前を突き止める作業にとどまらず、社会から忘れられたこれらの名前に込められた、それぞれの人生の意味を、あらためて問い直そうとする試みでもある、という二重の意味で。

 本書の「あとがき」で著者は、「被爆について知るということは、何重もの差別の構造を理解することにつながる。日本は一枚岩の社会ではなく、何重にも差別された人々の悲しみを踏み台にして成り立っているという認識である。その上に立つと、今の社会が唱える自由や平等が虚構に思えてくる」と書いている。

 戦争と戦争体験の意味をねじ曲げようとする昨今の日本の軽薄な知識人や社会の反動的な風潮にとどまらず、戦後日本の空洞化した民主主義の内実にも再考を促す言葉であり、記録である。

   (2000年10月2日付け 日本海新聞)


 長崎、広島で被爆しながら偶然、一命を取り留めた名もなき庶民2人の鎮魂の記録。元三菱重工長崎造船所の工員の原圭三さんは戦後、亡くなった同僚の名簿がないことを知って、長崎三菱系列の死者6000人の名簿を独力で作り上げた。

 一方、広島市立の女学校の校長だった宮川造六さんと息子で高橋和巳の『憂鬱なる党派』の主人公のモデル、裕行さん親子は奇跡的に見つかった市女の生徒の書初めを遺族に返す作業に携わった。著者は元NHK記者。石風社

  (2000年8月17日付け 東京新聞)


 人がそれぞれの人生を生きた証しである「名前」。

 55年前に日本に落とされた二つの原爆は、何十万もの命を、その証とともに瞬時に奪い去った。そして今なお、精神的、肉体的に苦しむ人がいる−−−。

 本書は長崎と広島の二人の被爆者の記録である。著者は放送局出身のジャーナリストで、記者時代に出会った二人を追い続けて、被爆後に彼らがたどってきた、犠牲者への弔いの足跡をつづる。

 一人は、長崎の兵器工場の勤務中に被爆し、爆心地からわずか六百数十メートルの地点で奇跡的に生き残った原圭三氏。自分だけが助かったという負い目を生涯負い、生き残ったものの務めとして、犠牲になった同僚の正確な名簿作りに奔走する。そして、名簿と無縁仏死没者の遺骨を照合し、それを遺族へ届ける旅に出る。

 もう一人は、広島の女学校の校長の息子、宮川裕行氏。彼は、約半世紀ぶりに見つかった生徒たちの書き初めを、作品に記された名前を頼りに、遺族のもとに返そうと尽力する。また日本で被爆し、その後、祖国に帰った在韓被爆者の原爆手帳交付のための証人探しにも取り組む。

 自身の被爆体験が理解されない孤独感と、亡くなった人を助けることができなかったという罪悪感から、二人は長年沈黙を守ってきた。しかし、「死者をそのままに死なせはしない」との内なる声に突き動かされ、沈黙を破る。

 二人の取り組みで、多くの魂が鎮められた。それは同時に、原爆で失われ、そのまま多くの人々から忘れ去られた過去を取り戻す作業でもあったと著者は語る。

 そして、名前に込められたひとつひとつの人生を確かめることで、原も宮川も、自分自身の人生の意味を再確認していったのだと論じる。名前を探る旅、それは名前と共に生きる旅でもあると。

 死者を通して生きた人間のドラマである。

   (2000年10月25日付け 聖教新聞)


「原の目は、自分の名簿に釘づけとなった。心が震えるのを感じた。自分の名簿で、これまで、身元の知れなかった遺骨の故郷が、明らかになろうとしているのだ。あらゆく手がかりを懸命に探せば、その人の人生が見えてくる。そして彼らは、原爆で無残にも断ち切られてしまったおのおのの人生について語りかけてくる。それが原の信念だ」

 長崎と広島で被爆後、長い沈黙の末に原爆犠牲者のために動き始めた二人の男性の人生の記録である。

 前半「ナガサキの絆」の主人公は、被爆当日に部下と防空壕掘りを交代したため生き残った元三菱重工長崎造船所員。彼は亡くなった同僚の正確な名簿がないことに憤りを感じ、被爆29年後、独力で長崎の三菱系列企業の死者の名簿作りを始める。20年がかりで6294人の名簿を作りあげた彼は、今度は平和公園の無縁死没者遺骨名簿を手がかりに、遺骨の遺族を探す旅を始める。その執念ともいえる「名前を探る旅」の行程が静かな筆致でつづられている。

 後半「ヒロシマの絆」では、多くの犠牲者を出した広島市立第一高女の校長を父に持つ主人公が、被爆体験を語り、海外の被爆者支援に奔走できるようになるまでの心の葛藤を中心に描いていく。そして、葛藤を乗り越えた彼は、奇跡的に見つかった父の生徒の形見の書初めを、そこに記された氏名を手がかりに、遺族たちに返す作業に携わる。

 両者のエピソードから浮かび上がるのは、一つ一つの名前の背後には、それぞれのかけがえのない人生があるという事実だ。そんな個人の名前を圧殺する者に対する著者の怒りが伝わってくる。

  (2000年9月1日付け 毎日新聞)




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