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”いのち”と”こころ”と”平和”を考えます。ジャーナリスト 中村尚樹 Nakamura Hisaki Clubhouse

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『地域から問う国家・社会・世界』(2000年 ナカニシヤ出版)

目標イメージ

 国民国家の呪縛を解き、地域から探る新たな社会像。歴史の独自性を踏まえ、開発依存の問題をえぐりだし、世界との繋がりまで視野を広げて地域の自立を論じる。

  (本書帯より)

 石川捷治氏、平井一臣氏編 第3章「ナガサキとアジア」執筆 以下、第3章より一部抜粋

 ソウルでの原爆展の初日、一人の韓国人が抗議に訪れた。ノ・ピョンネと名乗る、その時七十二歳の老人である。以前はクリーニング店をしていたという。日本の支配下で教育を受けたため日本語が達者で、戦後は反日運動を続けている。原爆展のニュースを聞いて最初に予定された会場に抗議に押し掛け、平野たちに別の会場探しを余儀なくさせたのもノたちのグループである。

 アメリカの原爆展が中止に追い込まれたことを踏まえて、ノはこう口火を切った。

「日帝に抹殺されようとしていた我が民族を助け、解放したのはアメリカである。それなのに何故我々が侵略の元凶である日本を助け、アメリカを窮地に追い込む手伝いをしなければならないのか」

 ノはさらにまくしたてた。

「日本は植民地支配や侵略戦争に反省のない国である。その国が原爆反対を言うことは、植民地支配を隠ぺいしようとすることだ。だから、日本人に原爆反対を訴える資格なんかないんだ。我が国の若い者たちの正しい価値観と歴史感を踏み潰し、再び奴隷国民としようとするのか!」

 平野たちのグループについて、こう語った。

「韓国の被爆者対策に力を尽くしている、良心的な日本人であることは認める。しかし日本の市民運動がやるべきことは、日本政府のあり方や核政策について、自分たちの政府に向かって物を言うことが役目なのだ。わざわざ韓国までやってきて被害を訴えることなんかするべきじゃない。とんでもないことだ。お前たちにはそんな資格なんかない!」

 韓国が日本に受けた仕打ちを考えれば、日本人にも理解できる論理である。そんなノに平野は反論した。

「旧日本軍が行なった侵略、あるいは植民地支配の側面について、日本国内できちんとした論議がなされていないことは認める。我々はもっと謙虚に反省しなければならない。しかし、反核の部分については戦争の歴史観を越えたものなんです。核の廃絶を目指して、韓国の人たちと一緒に協力して行くための素地を作って行きたいんです」

 だがノは当然のように、平野の論理を否定してきた。

「原爆の投下は、戦争の結果なのだ。戦争と原爆を切り離すことは出来ない。日本が反核を訴える資格があるかどうかが基本的な問題だ。資格のない国がいくら訴えたって世界の人たちは納得しない。反核を訴えるのなら、チェルノブイリ原発事故をはじめ、様々な核問題を含めての問題とすべきであり、日本だけが唯一の被爆国だと偉そうに言うことは馬鹿げたことだ」

 平野は、ノの主張がよく理解出来た。おかしいとは思わなかった。しかし、その主張を乗り越えないと、いつまでたっても核による支配は変わらない。日本政府がきちんと謝罪をし、戦争に対する責任をきちんとした形でつけて、ようやく次の段階で反核を訴える資格があるとかいう問題じゃない。いろんなことを並行させてやらなければ、永遠に解決出来ないと思うのだ。核の問題は、世界の人類の問題としてあるのだと平野は考えている。

 長年韓国に関わってきて、平野は韓国の実情もある程度理解しているつもりだ。韓国はアメリカの核の傘の下にある。北朝鮮との緊張が続く中で、核兵器は必要と思っている人が大半だ。その結果、逆に核の威力、あるいは恐ろしさを知らない人が多いのではないかと平野は思う。通常兵器と核兵器との区別がつかないのだ。だから戦争では、核で死んだ人も、銃で死んだ人も、同じなんだと見られている。一人一人の犠牲者にとってみれば、まったくその通りである。南京大虐殺と原爆の被爆とを比べて、どちらが悲惨かなど比べようがない。戦争観からすれば、同じことである。しかし人類史的に見れば、あるいは未来のことを考えれば核のことはちょっと違うんだということを考えて欲しいと思うのだ。 結局ノとの議論は平行線のまま終わった。




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