「帰ろっか?」
「……初詣は? いいのか?」
「うん。今年はいいや」
そう言ったら、何だか妙な沈黙タイム。あれ? 何?
「帆波。さっきのあいつの、アレ、お前も悪ぃんだぜ?」
「……どういうコト?」
「藁の出番がねぇってコトだよ、わかる?」
「わかんない。ねぇ、それ。前に言ってた早過ぎたとかって、アレに関係してる?」
おっさんは足を組んで、俯いたまま何か考えてるみたい。でも前とは違って、私の方を見てから話し始めた……って、何だかすごく優しい表情、ちょっと調子狂っちゃうんだけど。
「航も言ってた。お前はもう何でも諦めること前提だって? まぁ、そうだよな。こんだけの念の渦ん中で、油断すると中てられて飲まれそうになるってのに、お前の近くにいると嘘みたいに静かだもんな」
「何よ、それ。私が何も願い事とかないみたいじゃない」
「……それ、はずれでもねぇだろ? お前はいつ何があっても、まるで最初からそんなもんなかったみたいにリセットかけちまう。だから泣かない。振られようが、何だろうが……違うか?」
「そんな事……」
「藁を掴むどころか、お前は溺れてることを認めない、いや、溺れてることにも気付かない、かな? んー、それも……少し、違うか」
何だろう。聞きたくないような変な気持ち。ちょっと、逃げたいような……
「流れてる藁にも、差し伸べられてる手にも気付かねぇ、見向きもしねぇ。そのクセ腹ん中じゃ、誰よりも助けてほしいと思ってる。人一倍、誰かの手を切望している。自分からは手を伸ばしもしねぇで周りにばっか期待しやがるクセに、親切心で伸ばされた手は頼んだわけじゃねぇとでも言うように取ろうとはしねぇ」
あ、なんか腹が立ってきたかも。ってことは、やっぱり言われてること、当たってるんだろうな。
おっさんがちらりとこっちに視線を投げて、にやっと笑ったかと思ったらいきなりデコピンしかけてきた。イターーーーイ!!!!!
「お前はさ、まずちゃんと溺れてみろよ。そんで、あがけるだけあがいてみせろ。案外浅瀬で足がつくかもしんねぇし、うっかり泳いで岸までいけるかもしんねぇ。こんな事もあろうかとってライフジャケット標準装備もかまわねぇけど、その生き方じゃお前の場合、心が置き去りになっちまうんだよ、わかんねぇか?」
「……わかんない」
「んー、やっぱ難しいなぁ、お前は」
「……そう、なのかな」
「たぶん、俺も原因なんだろうな。神様に直談判して叶わなかったっつーのはさ、やっぱちっちぇ女の子の心をざっくりと傷つけちまったんだろう」
そう言ったおっさんがあんまり寂しそうに笑うから、なんか言ってあげなくちゃって思うんだけど……私にはいったい何が言える? おっさんは私のどんな言葉を期待してるんだろう。
「……俺が待ってる言葉を言ってやろうとか、そんな慰めいらねぇぞ、帆波」
うっ。何故わかる!?
「でもまぁ……ちゃんとわがまま言えるみたいだしな。少しはマシに、なってんだろ」
そう言って頬に触れる手は嘘みたいにひんやりと冷たくって、でもわがままなんて言った覚えもなくって。おっさん、私にはおっさんの事の方がわかんないよ。
「ねぇ、おっさん。帰ろう? 手、すごく冷たいよ。またこたつで話そうよ」
私は立ち上がっておっさんの正面に立つと、おっさんの両手を引いた。
「帰ろ? おっさん、手が冷たい。ここは……しんどいんでしょ?」
なかなか動こうとしないおっさんの手を引いて、私は参道を逆流して歩き始めた。
おっさんはいやいや動いているようで、それでも私が手に重さを感じることはなくって、まるで手を繋いでるみたいにゆっくりと流れに逆らって進んでいく。
大きな鳥居をくぐる頃にはもう人もまばらで、私とおっさんは手を離して、ゆっくりと並んで歩き始めた。
「ほら、ニコチン摂取しないとなんでしょ?」
「んー? うん……」
おっさんはそう返事をしたけど、煙草を手にすることすらしなかった。
「なんか考え事?」
何となく、そう聞いてみた。ずっと上の空というか、おっさんの様子がおかしかったから。ここに来る時の私よりかおかしい。なんだろう……
「なぁ、帆波?」
「……何?」
おっさんは寒そうにポケットに手を突っ込んで、ジジ臭く猫背で歩いてる。空を見上げて、何か考えてる顔はすごく真剣で、あの死んだ目のおっさんと同じ人とは思えないくらい。
「ちゃんと溺れて、みっともなくあがけよ?」
「またそれ? でもまぁ、うん。何となく、だけど……少しだけ、わかったような?」
「疑問系かよ」
「疑問系だよ。悪い?」
おっさんが少し笑った。
「まぁ今はそれでも良しとするか。俺も焦り過ぎたかもしんねぇな。でも、わかるだろ? 航ももう高校生なんだよ、お前が一から十まで背負ってやらなくったって大丈夫。それだけじゃねぇ、あいつだって、お前の分を背負える時だってあるだろうよ」
「うん……」
「だからさ、お前はもうちょっとお前を解放してやれよ」
「……わからん」
「そのうちわかる……たぶん」
「……わかった」
ちょっと喋って、ずっと黙って。また少し喋って、また黙ったままで歩き続ける。あぁ、なんだろう。ふわふわする。今私、すごく力抜けてる気がするよ。
「ねぇ」
「ん?」
「その……神様は、できる事とできない事があるのよね?」
「あぁ。そう言ったろ?」
「うん……あのさ、伝言とか、頼めるのかな」
「伝言?」
おっさんの口許がにやっと笑ったような気がしたけど、私は構わずにそのまま続けた。
「元気に大きくなったよって、両親に伝えてもらえる? 幸せに暮らしてますよっとは、まだちょっと言えないんだけど……そんでさ、これであの時のリベンジ完了ってことでいいよ、おっさん」
その言葉に返事はなくって、それっきり、アパートの前で後ろから追いついてきた航に飛び掛られるまで、私達は何も話をしないままで歩き続けた。
「どうした? 姉ちゃんもおっさんも、なんかすっげしんみり」
「大人の会話だよ、大人の会話。なぁ、帆波?」
「……そう?」
「うーーーわ、何だその嫌そうな顔。氷だわ。氷の女王様が降臨だわ」
「え、何!? それが大人の会話なわけ?」
航が加わることで、おっさんの口数が急激に増えた。そしてアパートのドアを開けた時、私の中のある記憶がいきなり呼び覚まされた。
「この匂い……」
玄関で立ち尽くす私の横を通り過ぎ、航が先に部屋の中へ入っていく。
「たっだいま〜! 何これイイ匂いじゃん。ケーキとかそんなん?」
そう言いながら嬉しそうにキッチンへと向かう。あぁ、そうか。航はまだ小さかったから、この匂いの記憶は残ってないのかもしれない。
「おら、どうしたよ? 入んねぇのか? 帆波」
後ろ手に玄関のドアを閉めて、チェーンだけセットする。おっさんが靴を脱いだけど、私はその場から動けなかった。だって、だってこれは……
先に行くとばかり思ってたおっさんは、すぐ目の前で立ち止まり、私の方に手をスッと差し出した。
「どうした?」
そう言ったその顔は今日二度目。私の知らない笑顔のおっさん、いったい何だって言うの?
何をどう伝えていいかわからなくて、その手を取れずにおっさんを見つめる。おっさんはどうやら何もかも承知しているようで、くしゃっと顔を歪めてから溜息を一つ吐いて言った。
「落ち着くまでそこにいろ。ただ……おそらく航じゃ、わかんねぇと思うぞ?」
そんな意味ありげな一言を私に残して、おっさんはリビングの方へ歩いてっちゃった。その先からは黒服の二人と航が話している声が漏れてきている。
どうしよう……行った方がいいのはわかるんだけど、足が動かないよ。
「おい、サングラスをはずしてやれ」
俯く私の耳におっさんの声。続いてそれに戸惑う黒服さん達の声が聞こえてきた。
「そんなっ! 私達はそんなつもりでは……」
「そうです、もう充分と言ったはずです! もうこれ以上は……」
「いいから。いいからグラサンはずせ、顔を見せてやれ…………うん、それでいい」
どうやら言われた通りにサングラスをはずしたらしい。航の声は聞こえてこないけど、どうなってるんだろう。
迷ったあげくに顔を上げると、おっさんが目の前に立っていた。
「お前はもう気付いてるんだろ? 行ってやれよ。俺に頼んだ伝言、お前の言葉で伝えて来いよ、帆波」
そう言ったおっさんは私の肩をポンと叩くと、外にいる、と一言だけ言って出て行ってしまった。そしてまた、玄関には私一人が残される。
やっぱり、そうなの? この匂いは昔お母さんがよく焼いてくれたチョコバナナケーキの匂い。本当にそうなの? 私に着物を着せてくれたあの人は……
私は急いでキッチンに向かった。ずっと思い浮かべるだけだったその顔を見るために。いろいろな思いがどんどん湧き上がってきて、私の視界はぼんやり滲んでぐしゃぐしゃに崩れてしまった。
「お父さん! お母さん!!」