蒼月楼にて


「でも…何だよ?」

 先を促しながら新しい煙草に火を点けると、スマルはユウヒの隣に腰を下ろした。

「ほら…ユウヒ。でも、何だ? 言ってみ」

 スマルが隣に来た気配で、一瞬ユウヒの身体が緊張したように硬直したが、すぐにまた元に戻り、そして一気に胸につかえていたものを吐き出した。

「私が…こんなとこでもたついてるうちにさ、シムザが…王様になっちゃったよ……」

「お前…」

 スマルはすぐに返事が出来なかった。

「どうしよう…」

 ユウヒは体を起こし、椅子の上で膝を抱えて丸くなった。

「…ぅ……っ」

 声を殺して泣くユウヒの足元に、顔を隠していた布が静かに落ちる。
 スマルはそれを拾って少し叩くと、まだ濡れたままのユウヒの髪を少し乱暴に、がしがしと拭き始めた。
 銜え煙草の煙が目に染みるのもかまわず、喋りにくそうにスマルはユウヒに言った。

「お前さぁ、風呂入ってあれこれ考える癖…やめろよ、いいかげん。俺、こうやって泣いてるお前の髪、何回拭いたかわかんねぇぞ」
「だって…」
「だってじゃねぇ。あのなぁ…いいか? 新王が立ったのは国を動かしてく都合上こりゃもう仕方ねぇ事なんだし、もしその場にお前がいたとしても、お前が王に慣れた可能性はこれっぽっちもねぇよ。わかってんだろ?」
「でも…」
「でもじゃねぇ! いいから黙って聞けっての!」

 嗚咽を上げながらも、スマルの言葉に言い返してくるユウヒの言葉をスマルは悉く跳ね返した。
 ユウヒの方も言い返してはいるが、スマルにされるがまま、髪の毛を拭かれながら膝を抱えてその場から動く気配すら見せない。
 スマルは髪の毛を指で溶かし、まだ拭き足りないところを探す。
 そしてまた布をユウヒの頭にかぶせると、その手を荒っぽく動かし始めた。

「選ばれたのがたまたまシムザだったからいろいろ考えちまうんだろうが…あいつが選ばれたのが王を選ぶ基準だとしたら、お前は絶対選ばれねぇ。選ばれるわけがねぇ…だろ?」
「……うん」
「あいつにどいてもらわねぇと王にはなれねぇ。それもちょっとやそっとで出来るようなこっちゃねぇ…だから皆が動いてんだろ? どうにかしようって皆がいるんだろ?」
「…うん」

 嗚咽が止まったのに気付いて、スマルはユウヒの髪を拭いていた布をそっとはずし、その髪がだいたい乾いている事を手櫛で確認した。

「よし、だいたい乾いたかな…」

 まだ項垂れているユウヒの頭に布をかけると、その後頭部をスマルはぽんぽんと優しく叩いた。

「…ほんっとに、よく泣くよなぁ」

 本当に泣きたい時に、泣ける場所がユウヒには少ないことを知っているスマルは、あいかわらず自分の前では気負うことなく涙を流す幼馴染みの姿にホッとする反面、今までには感じた事のない優越感のようなものを感じている自分に内心かなり戸惑っていた。

「もう気ぃすんだか? ユウヒ」

 床に落ちた煙草の灰を慌てて蹴散らし、ユウヒの頭に置いた手に力を込める。
 ユウヒの頭がガクッと沈み込み、大きな溜息が一つ漏れた。

「…気ぃ済んだ」

 顔を上げもせず、ばつが悪そうに言うユウヒを見て、スマルは安心したように笑みを浮かべ、頭に置いた手を静かに下ろした。

「あんまり張り詰めるな。なんかあったら言えよ。なんだって聞いてやるから…一人で抱えようとすんな」

 スマルに言われて、ユウヒは店を出る前にジンからも同じような事を言われた事を思い出した。
 俯いたまま、思わず笑みを漏らしたユウヒに、スマルが不思議そうに訊ねた。

「…ん? どうした?」
「うん…さっき店を出る時にもね、同じ事を言われたなぁって…思ってさ」

 そう言って、また何かを思い出したようにユウヒは笑った。

「ジンさん?」

 スマルが聞くと、ユウヒは布をとって首からかけ、やっと顔を上げた。

「そう、ジンにもね、同じような事、言われたなぁって…」

 どこか嬉しそうに話すユウヒの様子に、スマルは店を発つ前、ジンとユウヒの様子がどこか違っていた事を思い出した。

「あぁ、あのさぁ、ユウヒ…」

「ん?」

 泣き腫らした顔で、ユウヒが首を傾げて聞き返す。
 スマルはそのまま続けた。

「お前さ、ジンさんと…」
「え? 何、ジン? ジンがどうかした?」
 不思議そうに聞き返してくるユウヒに、スマルはふっと我に返って続く言葉をぐっと飲み込んだ。

「い、いや。やっぱ何でもねぇ…俺、風呂行ってくるわ」

 スマルはそう言って立ち上がると、切子細工の灰皿に煙草を押し付け、そのまま慌しく部屋を出た。

 ――馬鹿か俺は…何かあったのかって、聞いてどうしようってんだ!?

「あぁ…まいったな、こりゃ」

 独りぼそっとそうつぶやくと、スマルは雑念を振り払うように頭をぶんぶんと振った。
 ゆっくり歩き出すと、まだ酒の残っている頭が若干クラクラと回った。
 ただ幸か不幸か酔いはもうすっかり醒めていて、腹の底に沈んでいる何とも気分の悪いどろどろとした感情に、スマルは否応なしに気付かされてしまった。