9.蒼月楼にて

蒼月楼にて


 クジャ王国の都、ライジ・クジャ。
 古くから交易都市として栄えてきたこの町は、一年を通して多くの人で溢れていた。
 町を二分するか大きな通り南から北へまっすぐに伸び、その沿道には大小様々な店が所狭しと軒を並べている。

 ユウヒ達が蒼月楼に着いたのは、もうすでに日付も変わった真夜中であった。
 そんな時間ともなると、さすがに行き交う人こそ疎らだが、賑やかな昼間の名残りを残した空気は、未だ冷めきらずに町の中を漂っている。
 等間隔に設置された街灯が通りを明るく照らし出し、橙色に浮かび上がった町は何とも華やかで趣があった。

 華やかなこの大通りにあって、その瀟洒な佇まいからひときわ目を惹くのが蒼月楼だ。

 白壁に朱塗りの柱がたいそう上品で、白と朱のくっきりとした対比も潔くて気持ちがいい。
 軒からつるされた金属の装飾はすべて極彩色で彩られ、白壁に映えて美しい。
 その細工はとても繊細で、僅かな風にすらその身をひらひらと揺らし、その度にシャラシャラという華奢な音色をひっそりと響かせていた。

 まばゆいばかりの金色で『蒼月楼』と書かれた宿の看板の、ちょうど真下にあたるその場所には、この宿の上客が寝泊りする部屋が並んでいる。
 そんな楼閣の二階の窓に腰を下ろし、煙草の煙を夜風にたなびかせながら、スマルは夜の通りをただぼんやりと眺めていた。

 不意に物音がして外の風が中に吹き込み、風に流されていた煙草の煙が部屋の中に吸い込まれるように入ってきた。

 音のした方をスマルが見ると、共同の大きな風呂に行っていたユウヒが、まだ水の滴る髪を無造作に拭きながら部屋に戻ってきたところだった。

「立派な宿だねぇ…お風呂もすごく広かった。こんなすごい所だなんて思わなかったなぁ」

 そう満足げに言うと、ユウヒはスマルが腰掛けている窓の脇にある、布張りの椅子にゆったりと腰掛けた。

「森の洞穴とは大違いだ。お湯もあるし、椅子も寝台も柔らかいし」

「比べる対象が間違ってないか、お前」

 呆れたようにスマルが口を開いたが、そんな言葉はおかまいなしに、ユウヒは嬉しそうに部屋の中を見回している。

「まったく、どんな暮らししてきたんだか…」

 スマルは溜息混じりにつぶやくと、また通りの方を向き、流されては消えていく煙草の煙を何となく目で追っていた。

 窓から入ってくる風が風呂上りの火照った身体に心地よく、ユウヒは髪を拭いている上質な布を頭にかけて、ぐったりとその身を椅子の背もたれに預けた。

「…寒いか?」

 湯冷めをしないか気遣ってスマルが声をかけると、ユウヒがただ首を振ってそれに応える。

「そっか…」

 久しぶりにゆったりと二人で過ごす時間に妙な戸惑いを感じつつも、その居心地の良さはスマルにもユウヒにもとても懐かしい感覚だった。
 二人の間に流れる沈黙ですら心地良い。
 そんな穏やかな空気を揺らしたのは、ユウヒの言葉だった。

「私は…わがままなんかなぁ…」

 椅子の背に両腕をかけ、天井を向いているユウヒの顔には、さっきまで髪を拭いていた布がかかっていて表情がわからない。
 スマルはまた始まったとでも言いたそうな様子で、それでもユウヒの表情を推し量るかのように、顔を隠した布を見つめながら静かに言った。

「何が? 何がどうわがままなんだよ」

 スマルの問いに、答えは少し遅れて返ってきた。
 それは返事というよりも、まるでユウヒの独り言のようなつぶやきだった。

「こうしてるうちにもさぁ、虐げられてる人やら、住むとこ追われてる人やら…人間じゃないってだけでさぁ……私はこんなすげぇとこ泊まってんのに。焦っちゃだめってわかってるつもりけど…もっと急いだ方がいいはずだよね。なんだかんだ理由付けて、びびってんのをごまかしてるだけかも…なんてさ」

「それだけなのか?」

 まだしばらく続きそうなユウヒの言葉を、スマルが強い調子で遮った。

「……――」

 ユウヒからの返事はなく、少し荒くなった息遣いだけが布の下から洩れて聞こえてくる。
 スマルはもう一度繰り返した。

「本当にびびってんのをごまかしてるだけなのか? 違うだろ!?」

「…うん…違う……」

 小さくユウヒが答えた。

 スマルはゆっくりと煙草の煙を吐き出して、穏やかな声で話し始めた。

「だったらつまんねぇこと言うな。お前は精一杯やってるよ。ジンさんとか、サクさんとか…皆がお前のこと支えてくれてんだろ?」

「うん…」

「びびってるだけのヤツを手助けしようなんて人達じゃねぇ。お前だってわかってんだろ?」

「うん…」

 ユウヒの呼吸が乱れて、嗚咽が少し混じり始める。
 スマルはそれに気付いてはいたが、気付かないふりをして話し続けた。

「失敗はできねぇんだよ、慎重にもなるさ。焦る気持ちはわからなくもねぇ。でも、少しずつでも前には進んでんじゃねぇかよ」

「…ぅん…で、でもさぁ…」

「ん?」

 スマルは腰掛けていた窓枠から下りて、部屋の中央にある円卓におかれた切子細工の灰皿を持って戻ってくると、指先で確かめるようにその細工を撫でた。
 見惚れるようにその灰皿をいろいろな方向から眺めた後、スマルは少し躊躇ってから申し訳なさそうに短くなった煙草をぎゅっと押し付けた。