「え…っ?」
ユウヒが呆然として視線を横に動かすと、その視線を捕らえたスマルが静かに頷いた。
ユウヒは脱力して、だらりと椅子にその身を預けた。
スマルはそんなユウヒの姿を見て何か声をかけようとしたが、近付いてくる人の気配に気付き、それを思いとどまった。
ユウヒもその気配に気付いたようで、なにごともなかったかのような顔で部屋の入り口の方に視線をやった。
姿を表したのはジンだった。
「なんだ、ジンか…」
「おぅ、話は済んだか?」
ジンが訊ねると、ユウヒは頷き、スマルの方を見た。
同じようにジンもスマルの方を伺うように見ると、スマルは言わんとするところに気が付いて、ただ黙って頷いた。
「そうか…悪いな、スマル。そういうわけなんで、ちょっとこっちに話を合わせてもらえるか?」
「わかりました」
スマルの返事を確認すると、今度はユウヒに向かって話し始めた。
「ユウヒ、店に出ろ。それと…サクが剣舞を見たいと言ってる。客足が落ち着いてきたら…できるか、ユウヒ?」
「…いいよ。いつでも大丈夫。その時になったら剣を取りに部屋に戻らせて。準備もあるし」
「わかった。あ、そうだ。スマル、これ…俺からだ、飲んでくれ。あいつが相手じゃ減りも早いだろうが、こっちにまだまだいくらでもあるからな、遠慮せずに飲んでくれ」
ジンはそう言って、酒の入った瓶を三本、スマルに手渡し、調理場の中のそれと同じ瓶がたくさん置いてある場所をちょいちょいと指差した。
スマルは礼を言ってそれを受け取ると、その場を離れ、サクの待つ店内へと戻って行った。
あとに残されたユウヒとジンは、苦しげな表情を浮かべて二人、調理場に入った。
「聞いた?」
ユウヒがぽつりとつぶやくと、ジンが煙草に火を着けようとした手を止めて顔を上げた。
「…何を?」
聞き返されて、ユウヒは一層苦しげな表情を浮かべて言った。
「王が…立ったそうだよ」
「ぁあ?」
間抜けな声が上がるのと同時に、銜えられていた煙草がぽとりと落ち、水が染み込んで紙の色が変わる。
ジンは心底もったいなさそうな顔をしてそれを拾うと、ふてくされたようにゴミのまとめてある場所へそれを投げ捨てた。
「どういうことだ?」
毛羽立った声でジンが問い質すと、ユウヒは力なく笑って返事をした。
「知らない。スマルからは王の命でここへ来たとしか聞いてない」
「…ったく、いったい何やってんだ、あいつは…」
ジンは「あいつ」といった人物のいる店内の方を苦々しげに睨み付けた。
「まぁ王の不在がこれ以上長引くのは良くないしな。当たり前っちゃぁ当たり前か…」
溜息と共にジンが吐き出すと、ユウヒも頷いて言葉を続けた。
「まぁそんなとこだろうね。でもおそらくこれはサクの本意じゃないと私は思う。とにかく話をしてみない事には、こっちも身動き取れないかも」
「…だな、まったくだ。さて、とりあえず店だ。お前がいないとうるさい奴らが多くて困る。相手してやれや。ついでに酒と料理の追加もどんどん取って来い。こうなりゃやけだ、金ふんだくってやる…」
ジンはそう言うと、無造作に置かれていた前掛けをまた身に付けて、料理をする準備を始めた。
苛立った様子は見てすぐにそれとわかるほどなのに、その口にいつものように銜え煙草がないのは、おそらく料理の準備をしながら、これから起こるであろう様々な事について、これまでにないくらい真剣に考えているからに違いなかった。
「じゃ、店に出るよ」
その言葉に片手を上げて応えたジンに、ユウヒは何となく小さく頭を下げ、それから賑わう店内の方に顔を出した。
店はあいかわらずの熱気と喧騒でむせ返りそうなほどだった。
季節は移ろいつつあるというのに、この店の熱気はどうやら治まるということを知らないらしい。
ユウヒが顔を出すと、店内のあちこちから声がかかった。
酒や料理の注文をする者はもちろん、何かと無理矢理にでも話題を見つけみては、あれやこれやと話しかけてくる者も多い。
ユウヒは適当にそれらをあしらったり、時にはとことん付き合ったりしながら、賑わう店の中を忙しなく動き回っていた。
この日、ユウヒは店の忙しさ以上にとにかく動き回っていた。
じっとしていると嫌が上にもあれこれと考え過ぎてしまう。
何でもない顔でいられるように、ユウヒはとにかく無心になって働いた。
その姿を隅の壁際の席から、スマルが苦笑しながら眺めていた。
「忙しそうですね」
スマルの視線を追ってユウヒに目をやったサクがつぶやいた。
「え? あぁ…この店は以前来た時にもこんな感じでしたよ。どんな話だろうと大声で叫ばないと会話もできない」
そう言って、ジンから振舞われた酒を口に運び、またユウヒに視線を戻す。
忙しなく動き回り懸命に働くユウヒの姿は、スマルの目にはぎこちなく見え、その胸中を思うと何とも言えない苦いものが喉の奥に広がった。
「あの馬鹿たれが…」
スマルは小さくつぶやいた。
そのつぶやきが聞こえたのかどうか、サクは唐突に話題を変えてきた。
「そうだ。剣舞の話をする時間はありましたか? 今日、見せてもらえそうですか?」
いきなり切り出され、スマルは驚いたようにサクを見た。
「え…いや、すんません。あっちの話ばかり聞いてて…」
「あぁ、そうですか。主さんには少し話したんですけどね。どうやら、自分はジンさんと知り合いのようなんですが…」
困ったような顔でいうサクにスマルが聞いた。
「え? そうなんですか…と、いうか、覚えてないんですね、その感じだと」
「はい。どうも古い友人だとかの顔と名前を忘れるのが早くて…読んだ本の内容なんかなら、ほとんど覚えてるんですけどねぇ」
「へぇ、そうなんですか。ジンさんは、覚えてたんですか、サクのことを」
「覚えてました。この後もう一人その頃の友人って人が来るらしいんですけど…たぶんそっちもわからないだろうな」
申し訳なさそうにいうサクを見て、スマルは思わず噴出してしまった。
「あ、すみません」
「いえ、本当のことだから」
サクも一緒になって笑っていた。
そこへ空腹を刺激するいい匂いが漂ってくる。
料理の皿を両手に持てるだけ持ったユウヒが、笑みを浮かべて立っていた。