太陽がその燃えるように激しい色だけを空に残し、水平線の向こう側に消え、天からじわじわと夜の帳が降り始めていた。
いつの頃からか吹き抜ける風もひんやりと冷たいものに変わり、夜露に濡れる港町に、季節の移ろいを静かに告げながらゆっくりと通り過ぎていく。
突き刺さりそうな上弦の月が、暗くなり始めた空の端に遠慮がちに白く貼り付いていた。
いつもと同じように賑わうジンの酒場は、まるで過ぎ行く季節を名残惜しむかのように熱気をそこに押し留め、静かな夜の風景の中で、明らかにそこだけが異様に浮き上がっていた。
「いらっしゃい!」
店の中に入ると、客を迎える声と共に、大声で騒ぐ港の男達に染み込んだ汗と煙草の臭い、鼻をくすぐる酒と美味そうな料理の匂いとが混ざりあったむせかえるような熱気の歓迎を受ける。
目と耳と、何よりも鼻で、この店が繁盛している事を実感する。
「あぁ…今ここ片付けるから! この席にどうぞ!」
両手にいっぱい空いた食器を持った女がチラっと目配せだけして、今店に入ってきたばかりの客に声をかけて店の奥へと入っていった。
かと思うとすぐにまた顔を出し、客の勘定を済ませ、食器を片付け、次にまた客を迎えるための準備を整える。
この日も主の作る料理のいい匂いが漂う店の中を、女が一人で慌しく動き回っていた。
「ごめんなさいねー、すぐに注文訊きにいくから! 座っててー!」
振り向きもせずに大きな声で言って、女はその場をあとにする。
待つように言われた客は、戸惑った様子で言われた席に向かい合って座った。
女は調理場まで行くと、洗い場の水の入った桶の中にさげてきた食器を丁寧に沈めると、出来上がった料理を皿に盛り付けている店の主に声をかけた。
「ジン! またお客さん来たよ。何なんだよ、この忙しさはっ!」
女が溜息とともに吐き出すように言うと、店の主、ジンは呆れたように返事をする。
「お前がこうなるように仕向けたんだろ? 常連がほとんどとはいえ、見慣れない客がやたら増えてるのはお前が都であれこれ触れ回ってるからだろうが。自業自得だ、気張って働け馬鹿」
「はいはい、わかってる、わかってますって。馬鹿って言うな」
何度も繰り返したこのやりとりを早々に切り上げて、洗い場の食器を手早く洗っていく。
この夜はいつにも増して忙しく、皿を割れないように気遣いながらも、のんびり洗い上げていくような余裕は少しもなかった。
「本当に、馬鹿だよなぁ」
慣れた手つきで食器をどんどん洗い上げ、積み重ねていくユウヒを見ながら、ジンはそう言って片方の眉をひょいっと上げて笑った。
「そこで笑ってるんだったら、今仕上げた料理、自分で出してきてよ」
ユウヒが睨みつけるような視線を送ってぼそりと言うと、ジンはへいへいと気のない返事をして、料理を手に調理場を出て行った。
店の方から、顔を出したジンにちょっかいを出す常連客達の声が聞こえてくる。
しばらくして調理場に戻ってきたジンは、少し様子がおかしかった。
宙を睨みつけるような目をして、その眉間には深い皺が刻まれている。
店でいったいどんなやり取りがあったのかとユウヒがあれこれ思案していると、ジンの方から声をかけてきた。
「おい、そこは俺がやる。お前は店に出ろ」
「あ、そう? って言うより、ジン。何があった?」
「…え?」
「え、じゃないでしょう。どうしたの? 珍しいじゃない、そんな風に…」
ジンの視点が定まって、その視線がユウヒの事をとらえた。
「サクがいる」
ユウヒの手がピクリと止まる。
「え?」
「サクが来てる。あと、お前の髭の友達もいる…」
「スマルも? いっしょに?」
「おそらくな…」
ジンは腕組をして、ふぅっと大きな溜息を一つついた。
「普通に考えれば…おそらくお前の撒いた餌に食らいついてきたってとこだろう」
「サクが?」
「あいつじゃないだろうな。誰か上の方に命じられて足を運んだってとこだと思うが…」
ジンが調理場の棚に置いてあった煙草に手を伸ばし、火にかけてあった鍋をどけて無理矢理に火を着ける。
煙を吐き出す顔が歪んでいるのは、煙草の煙が目にしみたからではない。
ジンが考えている事をユウヒは必死に推し量るが、なかなか答えは出そうになかった。