バックアップ 6.歪み

歪み


「そうか…」

 片付けを終えたジンが、またユウヒの隣に戻ってきて返事をした。

「なんか、檻の中から私を見る目がさ、憎しみとか、もうそんなもんじゃないんだよね。諦めっていうか、そんなかんじだった。そうだ、人間なんて私だけかと思ったら他にもいたよ。子どもみたいだったな。店主の説明だと、その子が泣くと雨が降るとか何とか…本当かどうかは知らないけど、なんかひどかったね。その子の目にはもう何も映ってないみたいな…どんな目に遭ってきたのかわかんないけどさ、推して知るべしってやつだよ」

「雨を呼ぶ子ども…か。噂に聞いた事はあるが…あ、おいユウヒ。一応言っとくが、あんまり気に病むんじゃねぇぞ?」
「え?」
 ジンが思い出したように付け加えると、ユウヒはなにごとかと顔を上げた。
「まぁ難しいだろうが、そこで引っかかってるようじゃ…」
「わかってるよ。私もそこまで馬鹿じゃない。あそこにいる人達をどうにかしたいのは本当だけど、やるべきことを成し遂げれば、すべてうまく転ぶと信じたいからね」
「ん…わかってんなら、それでいい。で、見世物小屋で…お前はどうするつもりだ?」

 ジンが話を先に進めるように促すと、ユウヒは頷き、また話し始めた。

「正直言って、これは賭けなんだけどね。宮にいる連中なんて、退屈してるんじゃないかと思ってさ。他の国から賓客が来たって、飾り物の王様じゃ、気の利いた接待だって難しい。その王すら今は不在だろ?」
「宮の連中が食いつくのを待つつもりか?」
「そう。餌くっつけて釣り糸垂らしたんだ。静かな水面にも波は起つだろ? どこまで波紋が拡がってくれるか、餌に食いついてくれるかはわかんないけど…町の噂ってのはけっこう捨てたもんじゃないからね」

 ジンは呆れたように苦笑して、ユウヒの肩にぽんと手を置いた。

「食いつくかどうかは知らんが…まぁ、今こっちの存在を悟られずに出せる一手としちゃ…そんなもんか?」
「来るさ。今日も一回だけ舞ってきたけど、宮で舞うのが私の夢なんだって客に訴えてきたし」
「はぁあ!?」
「泣かせるじゃないの。夢をかなえるためにさ、あんな見世物小屋の舞台に立って懸命に踊る一人の女…こういう話はみんな面白がって飛びつくもんさ。今頃は噂も尾ひれがついて、どんどん拡がってるはずだよ」
 ユウヒがにやりと笑うと、その肩に置かれたジンの手がぴくりと動いた。
「お前…」
 絶句するジンにユウヒはさらに追い討ちをかけるように言った。
「普段はここにいるって言っちゃったから、この店も忙しくなるよ」
 ユウヒは肩に置かれたジンの手をぽんぽんと叩くと、客の増え始めた店の方へと姿を消した。
 所在無く宙に浮いた手をだらんと垂らし、ジンは盛大に溜息をついた。

 ユウヒが顔を出したことで店の中が賑やかになり、客達が口々に酒や料理を注文している。
 その応対をするユウヒの楽しげな笑い声が、調理場まで響いてきた。

「まったく…なんてぇ奴だ…」
 ジンは少しずつ動き出しつつある何かを感じて、背筋がゾクゾクとするような震えを覚えた。
 それと共に、漆黒の翼で自分の片腕となっているカロンに、ユウヒの行動をどう説明しようか、頭を抱えた。
「まいったなぁ…」
 どこの国を探しても、おそらく見世物小屋で見世物となっている王などいないだろう。
 カロンが眉間に皺を寄せて、ぶつぶつと小言をもらす様が目に見えるようだった。

「ジン! 注文入ったよ!!」

 ユウヒが調理場に向かって声をかける。
 ジンは耳の後ろを掻きながら、めんどくさそうに料理の準備を始めた。

 そこへユウヒが顔を出して再度言った。

「ジン! 注文入っ…」
「聞こえてる! お前、うるせぇ!」
「はぁあ? 何よ、それぇっ!?」

 いつものやり取りが店の方まで響き、冷やかすような笑い声が調理場の中にまで聞こえてくる。

「ユウヒ」

「ん?」

 ジンが新しい煙草に火を着けながらユウヒに話しかける。

「面倒な事になったら、絶対に俺に言えよ。そこさえ守れるんなら、お前の好きにしろ。俺達はお前についていく」
 ジンの薄笑いを浮かべた表情が、いつもより少し照れているように見えて、ユウヒも思わず笑みを浮かべる。
「…ありがと。頼りにしてるよ、ジン」
 ユウヒはそう言うと客からの注文をジンに伝え、自分は酒を手際よく瓶や茶碗に注いでいった。

 言葉にしなくてもなぜかお互いの思いや考えがわかるこの二人が、あえて自分の思いを言葉にするのは珍しい事だった。
 慣れないことをしてお互い妙に気恥ずかしくなってきたのか、料理をするジンも、酒の準備をするユウヒもお互いに背を向けたまま一言も発さない。
 漏れてくる店の喧騒の中、背中に感じるお互いの気配は今までと何も変わらないままで、その事に二人はそれまで以上の安心感を感じていた。
「じゃ、酒持って出るよ?」
「あぁ」
 ジンに一言確認して、ユウヒは酒の入った瓶や茶碗を持てるだけ持って調理場をあとにした。

 ジャーッという油のはじける音と共に、店内にジンの作る料理のいい匂いが漂い始める。
 その匂いにつられて、また客から料理の注文が入りだした。
 いつもと同じ、酒場の風景だった。
 ユウヒは小走りに店内を動き回り、客の相手をしながら店を回していく。
 時折、都から来たという新規の客から、今日は剣舞をやらないのかと声がかかる事があったが、その度ユウヒはそれを適当にあしらって、一日おきに都の見世物小屋で舞うから見に来てくれと自分の舞いを売り込んだ。

 その日を境に客は目に見えて増えていき、ユウヒは時々、ジンの店でも以前のように剣舞を披露するようになった。

 昼間は一日おきに都の見世物小屋で剣舞を舞い、夜は連日酒場で働く。
 客からの要望が多い時にはジンの店でも舞う事が増えた。
 見世物小屋の方でも客は日増しに多くなり、噂が噂を呼んで、ユウヒの剣舞の評判はどんどん上がっていった。

 半月ほど経つと、港町のジンの店に、宮仕えの人間らしい見慣れない装束を身に着けた客が顔を出すようになってきた。
 だがそれは、町での評判を聞き、自分も一目見てみたいといった、宮仕えの中でも下級の者がほどんどだった。

 しかし、その頃になると都の見世物小屋の付近に、その場所にはそぐわない雰囲気の男達が数人うろつくようになっていた。

 宮の中央に剣舞の評判が届くのも、おそらくもう時間の問題だろうとユウヒ達が考え始めた頃、その時は唐突に、ある人物によって、思いもよらない情報と共にもたらされた。

 ユウヒが見世物小屋の舞台に立つようになってから、およそ一月ほどの時間が経過していた。