しばらくの間、あとに残った二人の男はそのまま、ユウヒが立っていたあたりを見ていた。
だがジンが新しい煙草に火をつけるのと同時に、カロンが思い付いたように口を開いた。
「何も、聞かないんですね。彼女」
「んぁ?」
ジンが間の抜けた声で聞き返すと、カロンが溜息混じりに言った。
「ユウヒですよ。どこに行くのかとか、何をしに行くのかとか、普通聞くもんでしょう?」
「あぁ…まぁ、そうかもな」
「かもな、って…」
カロンがまた溜息をつくと、ジンは薄笑いのまま話を始めた。
「あいつはおそらく、俺達が何か胡散臭いヤツらだってのは勘付いてる。それに俺達が、少なくとも俺が、あいつの正体に気付いてるってのも、たぶんわかってる。今の話にしたって、聞いたところで俺が答えるわけないってのも、おそらくわかってるんだろう」
「何ですか、それ。おそらくとか、たぶんばっかりじゃないですか」
カロンが呆れてそう言うと、ジンも苦笑して答えた。
「まぁな…あいつに直接聞いたわけじゃねぇし。でもまぁ、はずれちゃいないぜ、たぶん」
「また、たぶん…ですか。まぁいいですけどね。で、どうするんです?」
カロンがジンに訊いた。
「時期尚早っていう気が、しないでもないんですけどねぇ?」
そうカロンが言うと、ジンは煙草を銜えて、この店にはおよそ不釣合いな書棚から、ごそごそと一本の巻物を取り出してカロンにひょいと投げて渡した。
カロンが紐をほどいて、その巻物を広げて目を通し始めると、机の向かい側から身を乗り出して巻物に描かれた、とある絵をジンはとんとんと指し示した。
「勾玉…ですか?」
ジンは頷いて、煙草の灰を皿にとんとんと落とした。
その灰が飛んでくるのを避けて、カロンが巻物を机の上からすっと退けると、ジンは不機嫌そうに火をつけたばかりの煙草をもみ消して、灰皿ごと調理場の方に持っていった。
部屋に戻ってきたジンは、いつものくせで無意識に煙草に手を伸ばし、舌打ちしてその手を引っ込めると、大きく引いた椅子に浅く座り、身を投げ出すように背もたれにだらしなくよりかかった。
「いや、別にそういうつもりじゃなかったんだけど…」
カロンが申し訳無さそうに言うと、ジンは苦笑し、少し言いかけた話の続きを腕組みをしておもむろに話し始めた。
「その巻物にある、その絵。お前も知ってるよな?」
ジンに言われ、カロンはさきほどの絵にまた視線を落とした。
「知ってます。見るのは久しぶりですが…黄龍の涙、ですよね?」
「あぁ。そいつを身に付けた奴とその連れが、昨日うちの店に来た。ユウヒを訪ねて、だ」
カロンの表情が一瞬険しくなり、巻物の絵とジンを交互に見た。
ジンは頷くと立てた人差し指をくるくると回して、巻物を元に戻すようにとカロンに合図した。
指示通りにカロンが巻物を元に戻している間も、ジンは話を続けた。
「店に来た時には、そいつも詳しい事は何も知らなかったんじゃないかと思う。ただ、その客とユウヒをこの部屋に通したからな。おそらくユウヒはいろいろ話したんだろう。連れの男は帰ったようだったが、黄龍の涙を身に付けた男の方はずっとユウヒと一緒だった」
ジンは一息ついて、また口を開いた。
「最初はここで話をしていたんだが、途中から場所を変えて…で、朝帰りだ。あいつの事だから、その男が何者かって事くらいは伝えたんじゃないか?」
「…また、推測なんですね」
少し不満そうにカロンがつぶやくと、ジンはまたいつもの薄笑いを浮かべた。
「まぁ、黄龍の涙の所有者が見つかったっていう事については、それはそれでいいです」
呆れたような顔一瞬見せたが、カロンのその視線はジンをまっすぐに捕らえたままだった。
「で、今夜の事なんですが…そんな推測ばかりの根拠なのに、それで本当にユウヒを森に連れていくんですか?」
カロンは問い詰めるようにジンに言った。
ジンはそのカロンを真正面から見返して、ゆっくりと大きく頷いた。
「あぁ、そうだ。何度も言わせるな。あいつが…ユウヒがどういうつもりでこの店に留まっているのかは、これも推測でしかないが…」
ジンはカロンを見て苦笑すると、その先を続けた。
「この国の現状を知ろうとしているんだと思う。親父さんの贔屓の店だからと言っていたが、この店を選らんだのもおそらくは出入りする情報の多様さが理由だろう。少なくともあいつは、逃げ道を探ろうとしてここに留まっているわけじゃない」
ジンの言葉にカロンが怪訝そうな顔をして口を開いた。
「どうしてそう言い切れるんです? 自分が何者なのかわかっているなら、こんな所にいつまでもいないで…」
「慎重に事を運んでるんだよ。あいつはあれで相当な心配性だ。かと言ってびびって動けねぇってわけじゃねぇ。心配性だからこそ、確実な方法を模索してんだろう。なんせ何百年続いた体制をひっくり返そうっていうんだからな」
ジンの言葉に、カロンは疑わしそうに眉をひそめる。
「そうでしょうか? そこまでユウヒが考えているんでしょうかねぇ」
カロンはそう言ったきり黙ってしまった。
ジンはおもむろに立ち上がると、机の上の巻物を手に取り、書棚の元の場所に戻した。
そしてまた椅子に座ると、大きな溜息を一つついた。
「カロン。お前の言うこともわからんでもない。なんせ俺の言っている事はすべて推測だからな、不安になるのもまぁ仕方ないが…折れるつもりはない。ここは俺に従ってもらう。これはあいつが知らなくちゃならん事だが、ここにいたって絶対にあいつの耳には入らねぇんだ」
ジンが言うと、カロンは神妙な顔つきになって、こくりと頷いた。
「今夜は間違いなくあいつに俺達の正体を伝える事になると思うが、その方がここから先動きやすくなるはずだから。まぁ、よろしく頼むわ」
「有無を言わさず、ですか…まぁいつものことですけどね」
カロンはそう言って立ち上がりささっと着衣の皺を整えた。
「夕方、また来ます」
「おぅ。今度はそのちゃらちゃらした格好で来るなよ」
「わかってます!」
冷やかすように言ったジンに対して腹立たしそうに言葉を返すと、カロンはそのまま何ごともなかったかのような顔で店から出て行った。
一人残ったジンは調理場に入ると、吸い始めてすぐに火を消したさきほどの煙草を灰皿から拾い上げ、丁寧に灰を払うと満足げにまた火をつけた。
陽はまだ高く、夕刻まではまだ時間は十分にあったが、ジンは重ねた鍋のうちの小さめの物を一つ取り上げると、慣れた手つきでそれを火にかけた。
「どうも…これがないと一日調子が狂うな……」
そんな独り言を吐くと、銜え煙草のまま、少し早めに夕食の準備に取り掛かった。
ジンはその夜、ユウヒを守護の森へ連れていくつもりだった。
馬を使うにしろ、歩いて行くにしろ、完全に日が落ちてしまう前に森に入るためには、夕食をとるのはいつもより早めになる。
料理をする軽やかな手つきと裏腹に、ジンの表情は硬かった。
「柄にもなく、緊張するねぇ…」
必死に煙草にしがみついている灰を、土間に直接落としたジンは、あり合わせのもので手際良く料理を仕上げていく。
いつものこの時間に漂う仕込みのものとは違う、ジンの作る料理の良い匂いが、店の前の道に漂い始めた。
時折、店先を通り過ぎる者が、食事時にはまだ早すぎるその匂いにつられて店の入り口の方へと足を運んでは、休みを知らせる看板を目にして残念そうに立ち去っていく。
ジンはその気配を感じては愉快そうな笑みを浮かべていたが、またすぐに険しい表情に戻り、ただ黙々と料理を作り、物思いにふけっていた。