漆黒の翼


 ユウヒが目を覚ましたのは、もうずいぶん陽が高くなってからだった。
 いつもならば、扉を蹴飛ばして仕込みを手伝えと怒鳴り込んで来るジンも、どうやら今日は来なかったらしい。

「……あれ?」

 ユウヒは違和感を覚えた。
 いつもなら漂ってくるはずの、ジンの料理を仕込んでいる匂いがしない。
 それどころか、仕込みをやっている気配すら感じられなかった。

 ――何かあったんだろうか?

 ユウヒはささっと服装を簡単に整えて、部屋を飛び出し、調理場へと急いだ。

「ジン? ジン、どこだ?」

 調理場にジンの姿はなかった。

 ジンは仕込みの合間によく調理場から出てきて、店内の窓際の席に座り、煙草を片手に遠くの海を眺めながら過ごす事が多かった。
 しかし店の方にも人気はなく、それどころか客を迎える準備すらもされていない。
 締め切られて薄暗い店内はひっそりとしていて、行き場をなくした空気が籠もり、熱を含んで澱んでいる。

「どうしたっていうんだ…ジン…」

 争ったような跡もなく、何か面倒に巻き込まれたとは思えなかった。
 ユウヒは調理場に戻ると、もう一度ジンの名を呼んでみた。

「ジン! いないの!?」

「…うるっせぇんだよ、さっきからお前はぁ。こっちだ、こっち!」

 その声は、店の奥にある部屋から聞こえた。
 特別な客などを通すその部屋に、仕込みをするこんな時間からジンがいるのはとても珍しい。

 なにごとかと思い、ユウヒがその部屋をのぞき込むと、灯りもつけずに薄暗い中、けだるそうに男が二人座ってこちらを向いていた。

 一人はこの店の主、ジン。
 もう一人はこの店の常連である、小奇麗な身なりをした商人風の男、カロンだった。

 カロンはユウヒと目が合うと、軽く頭を下げて挨拶をした。
 ユウヒも同じように頭を下げて愛想笑いを浮かべると、ジンが横から声をかけた。
「堂々の朝帰りか、ユウヒ。なんだかなぁ…せめて服着替えるくらいのなぁ、照れ隠しがあってもいいんじゃねぇのか、お前」
「はあっ!?」
 ユウヒが呆れたように聞き返すと、ジンは手にした煙草をユウヒの方に向けてにやっと笑った。

「ジン、何のこと言って…って、ぁあっ!? あんたスマルの事言ってんの?」

 ユウヒが驚きの声をあげると、ジンは愉快そうに口を開いた。

「あぁ、昨日の兄ちゃん、スマルってのか…そう、あの兄ちゃんの事言ってんだよ」
「まったく…何を勘違いしてんだよ、ジン。おっさんが喜びそうな色気のある話は何にもないよ」
「おっさん言うなよ、まだ四十前だぞ、俺は」
「歳を言ってるんじゃない。その考え方とか、存在自体がおっさんなんだよ、ジンは! 馬鹿じゃないのか、まったく!!」

 それを聞いて思わず噴出したカロンが、顔を逸らして笑いをこらえている。
 ジンは何か言い返してやろうとして煙草の煙を勢いよくふぅっと吐き出したが、ジンが何か言うよりもユウヒが口を開く方が早かった。

「あぁもう、心配して探して損した! 風呂入ってくる! ジン、風呂は?」
「沸いてる」
「ふ〜ん。じゃ、上がったら仕込みやるから」

 ユウヒがそう言って部屋を出て行こうとすると、ジンが後ろから声をかけた。

「あぁ、そうだ。ユウヒ、今日は仕込みも準備もしなくていいぞ」
「え?」
 ユウヒが足を止めて振り返る。

「店は?」
「休み」
「えっ?」

 ユウヒは不思議そうにカロンの方を見た。
 店は休みと言っても、客であるはずのカロンを通していたからだ。
 無論、この商人風の客がただの酒場の常連とはユウヒも思ってはいなかったが、ジンが臨時に店を休むことなど今まで一度もなかったので、ユウヒは驚いた様子でジンに訊ねた。

「何かあったの?」
「ん〜、まぁな」
 あいかわらずの飄々とした態度でジンが答えた。

 この男は真面目なのかふざけているのか、その態度や言葉から何を考えているのかを読み取るのは難しい。
 だがなぜかユウヒはいつも、何となくジンの思うところが理解できた。

「そっか。じゃ、どうすればいい? 何かやる事があるなら…」
「それなんだが…」
 ジンが煙草を乱雑にもみ消すと、頬杖をつき、面倒くさそうにユウヒに言った。

「昼の間はこいつとちょっと話がある。お前は…あんまり寝てないんだろう? 部屋で寝ておけ」

 やっと笑いのおさまったカロンが、きちんと座りなおしてユウヒの方を向いてジンの話を聞いている。
 ユウヒの反応を見ているようにも思えたが、ユウヒは気にせずジンの言葉に耳を傾けた。

「わかった、そうさせてもらう。で、夜は? 何かあるんでしょ?」

 ユウヒがそう聞き返すと、カロンが感心した様子でジンの方に視線を移した。
 ジンは口角をあげて静かに笑い、また口を開いた。

「あぁ、そうだ。俺とこいつとでちょっと出かけるんだが…それにお前も一緒に来て欲しい」
「私も?」
 ジンが頷くと、それに同意するようにカロンもゆっくりと頷いた。

「何か用事でもあったか、ユウヒ?」

 ジンの言葉にユウヒが首を振ると、ジンは確認するようにカロンの方を見た。
 カロンが無言で頷くと、ジンはまたユウヒの方を向いた。

「なら頼む。目を覚ましたら降りてこい。飯食ったら出かけるぞ」

「…わかった」

 ユウヒはそう言って、カロンに挨拶をすると静かに部屋を出て行った。