スマルが白虎とともに飛び出して行って、まもなくの事だった。
森の中に妙な緊張感が漂っていることに気付いたのは青龍だった。
いつまでも白虎の駆けて行った方を見つめていたユウヒも、程なくそれに気が付いた。
「あれ? なんだろう…何かおかしい」
ユウヒの言葉に答えを返すものはおらず、最初に気配に気付いたはずの青龍ですら目を逸らして黙っていた。
この奇妙な緊張感を感じるのは初めてではない。
守護の森で過ごしている間も、何度かこれと同じ感覚を覚えた事がある。
それは決まって夜だった。
「なんだろう…嫌なカンジだ」
ユウヒは朱雀、青龍、玄武を順に見つめた。
三人とも、何かを知っているようなのだが、一人としてそれを口に出そうとはしない。
「前に森で過ごしてた時にも、何度かあったんだ。その時はもっと強く、吐き気がしそうなくらいだったんだけど…今日のは今までのよりか随分弱い。弱いけど…でも、同じだ」
そう問い詰めるような口調でユウヒが言っても、やはり誰も何も言わない。
要領を得ない三人に焦れたユウヒは、岩場の先端までずいっと歩み出て朱雀を呼んだ。
「言いたくないなら自分で見に行く。朱雀、頼むよ」
ユウヒはそう言うと、有無を言わさぬとばかりにそのまま岩場から飛び降りた。
慌てた朱雀が赤い閃光と共にその場から消え、次の瞬間、岩場の下方から真っ赤な鳥が夜空に向かって舞い上がった。
――ユウヒ! 無茶をしないで下さい!
怒気を含んだ朱雀の声が頭の中に響く。
ユウヒはその声には答えようとはせず、その代わりに朱雀に指示を出した。
「朱雀、こっちの方向だ。月に向かって飛べ」
――…わかりました。
朱雀は翼を翻して向きを変えると、月明かりに向かってまっすぐに飛んだ。
「あれは何だったんだろう…お前達、何か知っているんだね?」
朱雀の迷いにも似た思念が、一体となっているユウヒにも伝わってくる。
その朱雀から出てきた答えは、ユウヒの待っていたものとは少しずれた、的外れとも思えるような問いかけだった。
――ユウヒ。蒼月不在の長きの間、妖共がなぜ虐げられつつもおとなしくしていたのか、考えた事はありますか?
「え? どういう事?」
ユウヒが聞き返したが、朱雀からの返事はなかった。
「だんまりか…まぁ、そのうちわかるんだろうけどね」
そう言って、ユウヒは森の方に意識を集中した。
先ほど感じたあの奇妙な緊張感を、一番強く感じる場所を一心に探す。
「あれ?」
急いで岩場から飛び出したというのに、その気配はもうすっかり消えてしまっていた。
ユウヒは苛立ちを隠そうともせずに朱雀に言った。
「消え…た? あぁもう、これじゃ仕方がないね…もういい、朱雀。戻ろう」
――はい……
朱雀は夜空に綺麗な赤い弧を描いて、そのまま岩場の洞穴の灯りを目指して飛び続けた。
「なんだったんだろう…消えた? なんでだ?」
ユウヒは一心に考え続けていたが、ふと目に入った東の空が、深く重たい緑色に変わっていることに気付いた。
「マズいな、夜が明けるのか。朱雀、洞穴はいい…店に戻ろう。玄武! 青龍! 聞こえる?」
――はい。
――聞こえております。
ユウヒの頭の中で、青龍と玄武、二人の声が響く。
「もう今日は戻ろう。じきに夜が明ける」
――わかりました。
そう答えたのとほぼ同時くらいに、ユウヒは自分のすぐ側に今呼んだ二人の気配を感じた。
――大丈夫ですか、ユウヒ?
青龍が声をかけてきた。
「ん? 何が?」
――お疲れになったのでは?
「あぁ、そうだね。ありがとう」
ユウヒの身体を気遣っての言葉にユウヒは素直に礼を言った。
青龍の労いの言葉は、苛立ったユウヒの心をもほぐしたようで、礼を言ったユウヒの顔には微かに笑みが浮かんでいた。
「帰ったら、料理の仕込みが始まるまで少し眠るよ。さすがに疲れた…泣くと疲れるね」
どう返したものかと迷ったのか青龍からの返事はなく、その代わりになぜか嬉しそうにしている三人の気配だけがユウヒに伝わってきた。
「何? どうしたの?」
久しぶりに泣いてしまった自分と、それを心配そうに見つめていた四神の視線を思い出して、照れくさそうにユウヒが聞くと、次に返事を返してきたのは玄武だった。
「やはりヒリュウ殿によく似ておられた、そっくりでしたよ」
何ごとかと少し考えたユウヒが、その言葉の意味に気付いておかしそうに笑った。
「スマルか…あの、よろしく頼むね、スマルの事」
「はい、承知しております。我々も、その…友達になれるでしょうか?」
遠慮がちに告げられた玄武の言葉に、ユウヒは嬉しそうに返事をした。
「大丈夫だよ」
朱雀は濃緑から群青に変わりつつある夜明け前の暗い空を、静かに飛び続けた。
そして店から少し離れた場所に舞い降りると、また赤い光を放ち、それが消えたその場所にはユウヒが一人眠たそうに立っていた。
ユウヒは疲れ果て、とぼとぼと歩いて店の自分の部屋に戻った。
やがて明るくなった東の空を一筋のまばゆい閃光がつらぬいた頃、ユウヒは自室の寝台に疲れきった身体を投げ出した。
新しい一日が始まった。
また自分の運命が大きく動き始める事をその時のユウヒが知るわけもなく、しだいに明るくなっていく部屋の中で、ただ静かに眠り続けていた。