静かな決意


 緊迫した空気がその場を支配していた。
 余計な事は言わないようにとジンとカロンが互いに目配せする。
 その時、寝室の扉が開き、スマルが居間に戻ってきた。

「おい、大丈夫か?」

 灰が落ちたあたりの床を拭き始めたスマルに、ジンが声をかけた。

「え? 何が…」
 床を拭く手を止めることなくスマルが聞き返すと、ジンがその様子でさっきのサクの言葉をスマルが聞いていたのだと理解して、また声をかける。
「いや、お前じゃなくて…寝室行っただろ? ユウヒはどうだったかって事ったろうが」
 苦笑して言うジンにスマルがひょいっと顔を上げて答えた。

「あぁ。まだ寝てましたけど…だいぶ落ち着いたっぽいっすね」

「寝てる…? そういや、いないな。あの…なんだっけ、あの…」

 サクが窓際の方から口を挿んできて、ジンが呆れたようにその方向に顔を向ける。

「ユウヒだろ。全く、名前覚えんの苦手なのはわかるが…」
「あぁ、そうだ、ユウヒ。彼女、どうかしたんですか?」
 サクに訊かれて、言葉の詰まったスマルの代わりにジンが答えた。
「ちょっと…何だ、過労っての? 精神的にも、ありゃきつかったしな」

 ジンの言葉にサクの顔に影が落ちる。

「へぇ…そんなんで、羽根なんて勤まるんですか?」

 訝しげに放たれたサクの言葉に、ジンが自分のちょっとした失言に気付き舌打ちしたその時、寝室の方からガタンという物音がした。
 それと共にすぐ立ち上がったスマルが寝室に急ぐ。
 嫌な方向に流れそうになっていた居間の空気が、その事でまた少し違った雰囲気に変わった。
 ジンとカロンは心配そうに寝室の方を見つめ、サクはまた窓の外に視線を戻す。
 開け放った窓から雨音が部屋の中を渡り、静かな居間に染み入るように響いている。

 寝室に入ったスマルは、そのままユウヒの寝台に駆け寄った。
 ユウヒは横になったままで荷物を取ろうとしたらしく、その際に誤って落ちた置物が床にごろりと転がっていた。

「大丈夫か?」
 置物を元の位置に戻し、スマルはユウヒの身体を支えて起こしてやると、取ろうとしていた荷物をユウヒに手渡した。
「どっか、痛いとことか…ないか?」
 戸惑った様子で心配そうに自分を見つめるスマルに、ユウヒは小さな声で答えた。

「…大丈夫。誰か…いるの?」

 居間と接している壁を見つめて言うユウヒに、スマルはふぅっと一息ついて言った。

「あぁ。ジンとカロン、それにさっきサクも来た。ユウヒ、ちょっと耳貸せ…」

 人差し指でちょいちょいっと合図をしてスマルが身を乗り出すと、ユウヒが少しだけ首を傾げた。
 スマルはユウヒに事の成り行き全てを手短に説明した。
 サクの口から蒼月の名が出たという件では、さすがにユウヒの顔色も変わったが、それでも終始黙って頷きながら、スマルの話を聞いていた。

「…とまぁ、こんな事になってんだわ、あっちでは」

 スマルが苦笑しながら、ユウヒの寝台に腰を下ろす。
 正面から見たユウヒはまだ疲れが残っているように見えたが、それでも話を聞く前と後では、その様子は明らかに違っていた。

「雨…まだ降ってるんだね」

 漏れ聞こえてくる雨音に、ユウヒがぼそっとつぶやいた。
 丸一日以上眠り続けていた事を聞かされたユウヒは、まだ半分夢の中にいるような心地だったが、徐々に頭の中にかかっていた靄も晴れてきて、スマルの話を聞いた事によって意識も随分とはっきりとしてきた。
 俯いて握った拳に力を込めて唇を噛み締める。
 ユウヒがまた泣き出すのではないかと手を差し伸べようとしたスマルのその手を、ユウヒが静かに掴んだ。

「手を貸して、スマル。私もあっちに行く」
「あっちにって、お前…」
「大丈夫。いいから手を貸して。サクが来てるならなおさら、顔を出さないと…私は、羽根なんだから…」

 ユウヒはそう言って力なく笑った。
 スマルは迷ったが、結局ユウヒの言う事に従った。
 足首まで隠れる長い羽織りをユウヒの肩にかけてやると、ユウヒは笑みを浮かべてその袖に腕を通した。

「スマル、肩貸して」

 そう言って、身体をずらして寝台の横に脚を下ろしたユウヒは、スマルの方に腕を伸ばした。
 ユウヒの横にスマルが並ぶと、その肩に捉まって立ち上がったユウヒが羽織の合わせを整えて腰紐を器用に結んだ。
 スマルに言って髪結い紐をとってもらうと、ユウヒは手串で梳かした髪をささっと一つにまとめ、襟元を手早く整えた。

「ねぇ…」

 スマルに支えられてゆっくりと歩き出すと、ユウヒが小さな声でスマルに話しかけた。

「ん?」

「その…ありがとね」

 スマルが振り返ると、ユウヒが少し顔を歪めて礼の言葉をつぶやいた。

「は? 何が?」
 不思議そうに聞き返すスマルに、ユウヒがぼそっとこぼす。
「これ…あんただよね?」
 ユウヒはそう言って、スマルに掴まっている方とは逆の手で、いつの間にか着替えていた服を摘まんで見せた。
「…ぃいっ!」
 真っ赤な顔をして固まったスマルに、ユウヒも照れくさそうにしてまた口を開く。

「ぃ…じゃないでしょ。まったく…でも、助かった。風邪も引かずに済んだみたいだし、玄…クロと同じ痣も、他人に見られずに済んだ」
「…だからって、今言うなよ…どの面下げてあっち戻りゃいいんだよ、俺は…」

 情けない表情で言うスマルのわき腹を、ユウヒは小さく肘で小突いて言った。

「こっちゃー裸見られてんだよ…それくらいの仕返ししたっていいでしょ。ほら、行こ…」

 表情を隠すように片手で顔を覆ったスマルに支えられて、ようやくユウヒが居間に顔を出した。