ユウヒがこの酒場を訪ねて来たのはもう一年近くも前の事になる。
昼どきの忙しさからは解放され、だがまだ店が混み始めるには早い、ちょうど夜に向けての料理の仕込みに店主が追われていた時間だった。
肩に小さな包みを背負い、一つに束ねた髪は無造作に切られて後れ毛が風に揺れている。
身を覆うように巻いた大きな布の下に見えている衣服も、もうずいぶんと汚れ果ててその色がはっきりとはわからないほどにひどく日に焼けて色褪せていた。
突然店に現われた汚らしい訪問者がまさか女であろうとは、その場に居合わせた誰一人として最初は思いもしなかった。
女であるとわからなかった理由はもう1つあった。
その者の衣服についた汚れの中に、血痕らしきものが数多く混ざっていたのだ。
好奇心に満ちた視線を浴びせかけられる中、女は臆する様子も見せずにこの店の主を呼ぶようにその場にいた客らしき人物に伝え、それを聞いてひょっこりと顔を出した店主に対して、女は深々と頭を下げて住み込みで働かせて欲しいと唐突に切り出した。
主は呆れたような顔で目の前に立つ女の顔を見ると、唐突なその申し出を断ろうと口を開いた。
その時だった。
突如吹き抜けた風が女の羽織っていた布を音を立てて翻し、女が二本の剣を後ろで交差させるように腰に提げているのが目に入った。
周りを取り囲む人々が怯んだようにサッと退き、面倒に巻き込まれるのはごめんだと早々に引き上げていく中、店の主は剣ではなく女の腕に釘付けになっていた。
その視線に女は気付いたようだったが、特に動揺した様子も見せず、ただ何も言わずに風によって肩まではね上げられた布をバサッと下ろした。
だが女の思いとは裏腹に、店の主はその女の腕にあった青い火炎のような刺青とも何とも言えぬ模様をしっかりと目に焼き付けていたのだ。
妙な沈黙が流れた後、店の主は黙ったまま女を店の中に招き入れた。
どこの誰とも知れぬその女をそのまま自分の家に住まわせてやり、店で雇う事に決めたのだ。
主はその女に部屋を与えて、特に何か制約するわけでもなく自由にさせた。
事情を聞きだそうともせずに自分を雇った事、さらには腕の模様を見られた事など気になる点は多かったが、その女、ユウヒはひとまず店に置いてもらえるのならばとあえて問い質したりはせずに店の主に従った。
店の主、ジンの方からも説明らしい話や小難しい質問をすることはなかった。
ただ一つだけ、なぜこの店にしたのかということだけは、仕込みの合間の他愛もない世間話をしている時に口にしたが、特に何か意味があって訊ねたというわけではなかった。
父親がこの港町に来た時には必ず足を運んでいたからだという話をユウヒがした時も、聞いているのかいないのかはっきりしない態度で、ゆっくりと煙草の煙を吐き出して大鍋から目を離すことすらしなかった。
そんな二人だったが、なぜか互いに奇妙なほどに居心地が良かった。
一人だけの気ままな生活に、突然同居人、しかも女が一緒に暮らし始めたというのに、ジンは別にこれといった窮屈さを感じることはなかった。
なにより、驚くほどに会話が少ない二人だった。
呼吸を感じるとでもいうのだろうか、口に出さなくても通じ合う何かがあるかのように会話をする必要がなかったのだ。
日を追うごとにそれは顕著になってきて、仕込みの時に店を訪れた客が、調理場の二人の存在に気付かないこともしばしばあった。
最初に二言三言の言葉をかわせば、気配が感じられる距離にいる時はだいたい自分が何をすればいいのかわかったし、相手がどうして欲しいのかも何となく感じることができた。
まだ出会ってから日も浅く、お互いを理解し合うにはあまりにも時間が少なかったが、それでも不思議と最良の距離や接し方なども自然に決まっていき、まるで十年来の友か何かのようにお互いが信頼し合っていた。