[PR] 二重 1.港町の酒場

港町の酒場


 夜の海での漁に向かう漁船の小さな灯りが沖の方へと遠ざかっていく。
 船着場に打ち寄せる波も今夜はとても静かで、砕けた波の先の泡だけが、暗い夜の闇の中で月明かりに照らされて白く浮き上がっていた。

 昼間には、市に集まった人で溢れかえっていたこの港も、陽の沈みきったこの時間ではもうとうにそのにぎわいは通り過ぎ、静けさを取り戻した今では人気もほとんどなく、市の名残の魚の生臭さが湿気た空気に混ざって漂っているだけだった。

 そんな中、昼間の喧騒と熱気を残したかのような賑わいを見せる一軒の店があった。

「ほら、料理上がったぞ。冷めないうちに持っていってくれ」
 味には定評のある料理を、調理場から無造作にぬっと差し出すその手は男のものだ。
 普通の民家の土間をその男の使い勝手の良いように改造した調理場は、主の背に合わせてどれも女が使用するには大きすぎる。
 だが男に妻がいる様子はなく、すべて一人で切り盛りしているこの店では、それで何の問題もないようだった。

 海に程近い、港町のはずれに位置するその酒場は、連日多くの客で賑わっていた。
 店の主のジンは面倒見も良く、酒場の常連客達も一目置く人望の厚い男だ。
 料理の美味さも然ることながら、彼を慕ってくる客というのも少なくないこの店は、漁のない季節でさえ客足が途絶えることはない。

 ところがある時から、一人の女がジンの店を手伝うようになった。
 最初のうちは、店主がついに身を固めたのであろうと客人達がこぞってジンを冷やかしたものだったが、実のところそうではないらしい。 

 その女は店を手伝う一方で、見世物として見事な剣舞を披露して見せた。
 二本の剣を手に面白い舞いを舞う女がいるという噂は、瞬く間に広まった。
 その舞い手はすっかり店に馴染み、今では毎日夜遅くまで客達の相手をしながら働いていた。

「おぉい、こっちにも酒、頼む!」
「ちょっと待って! 次、そっちに行くから!!」

 置けるだけ置かれた机と椅子は、酒場のものとしては味も素っ気もない粗末なものだった。
 その間を縫うように、女が空いた皿を器用に重ねて両手に持ち、あちこちの客をあしらいながら歩いている。

「おい! 料理が冷める! 先にこれ持っていけ!」
「わかってる! 今行くから!」

 店の中は酔った男達の笑い声などが響いて、肝心な話も大声でなければ通らない。
 自然、皆怒鳴るように声を張り上げるものだから、店の中はどんどん騒がしくなっていく。

 手前にも奥側にもどちらにも開くようになった木製の背の低い扉を足で蹴飛ばして開け、少し造作が大きめの調理場の中を慣れた様子で歩いていく。
 洗い場の桶に水を貯めてさげてきた皿を丁寧にその中に沈める。
 ささっと手を簡単に洗うと、女は前掛けで手を拭きながら店主に近づいて言った。

「柱のところの客が酒追加だって。もう相当出来上がってるから、半分水増しってとこかな…」

「わかった…お前、なんかえらいこの店に慣れてきたなぁ、ユウヒ」
 口角をにぃっと上げ、呆れたようにジンが笑う。

「…そう? ほら、その料理持ってくよ、貸して。あと怒鳴らなくても聞こえてるから。まったく客もあんたもうるさいったらないよ、ジン」

 ユウヒと呼ばれた女はそう言ってジンの肩を小突くと、料理を奪い取るように受け取って、また喧騒の中に戻っていった。