月夜


 ライジ・クジャの町の灯りが眼下に続き、その灯りの途切れたところが町の終わりである。
 遠くには、守護の森が月明かりに照らされてなお、まだ暗く、夜の闇の中にさらに黒い影を落としていた。

 その遠くの暗闇を、ただぼんやりと見つめているスマルに、キトが気付いた。
 その視線の先にあるものが何か、キトにはわかっている。
 かと言ってそんなスマルにかける言葉が簡単に見つかるわけでもなく、満月の下、ただぼんやりと二人物思いにふけっていた。

 昼間には気付かなかったが、湿った南風は遠い潮の香りまでもこの都に運んできていた。
 キトとスマルの二人が生まれ育ったホムラの郷は都の北東に位置する。
 ここよりもさらに北上した、山がそのすぐ背後まで迫っているような土地だ。
 郷では絶対にすることのなかった潮の香り、ほのかに漂う海の気配は、嫌が上にも郷の遠さを思い起こさせる。
 肌に絡みつく潮の香りが、逆に妙な郷愁を二人に覚えさせていた。

「どうしてるかなぁ…」

 スマルの口をついて出た言葉は、偶然にも同時に吐き出されたキトのそれと重なった。
 思わず顔を見合わせ、キトは意味深な笑いをスマルに向ける。
 スマルは自分自身何を口走っているのかというふうに、戸惑ったような表情でキトを見ていた。
 キトのにやけた顔をどうにかしたくて、サッと目を逸らしたスマルが口を開いた。

「ニイナ?」
 スマルが遠くを見つめたままでそう言うと、キトがその隣まで来て黙って頷く。
「なんだかねぇ。散々反対されてるとこ、自分達の希望を押し通してまでこんなとこまで来たっていうのにさ」
「うん…」
「ずっと当たり前のように隣にいた人間がいないっていうのは、何とも変なカンジだ」
「………」
 スマルは返す言葉が見つからなかった。
 キトはスマルの様子を横目に少し伺い、ぼそっと思ったことを口に出してみた。

「お前も、そんな感じなんじゃないの? スマル…」

「え……っ!?」
 意表を突かれて驚いたようにキトを見るスマルに、キトが視線を移してさらに問う。

「…違うの?」
 スマルは思わず目を逸らし、また遠くの暗がりに視線を戻す。
 黙って自分を見ているキトの気配を感じながら、スマルは平静を装って答えを探す。

「どう…なんだろうねぇ……」
「どうなんだろうってお前、そんな他人事みたいに…」
 キトが苦笑しながら言うと、スマルも力ない笑みを浮かべた。
「なんかもう、いろいろあり過ぎてさ。何が何だか…」
「でも、誰の話をしてるのかはわかってるみたいじゃん」
「…!」
「だろ?」
 そう言って笑ったキトの吐き出した煙草の煙が、暗闇に吸い込まれて消える。

「なぁ、スマル」
「ん?」
 いつになく真剣な声色のキトの声に、スマルは素直に耳を傾けた。
「あのな、スマル。その想いがどういった類のものであれ、誰にでもこいつだけは他とは違う…その…特別っていうのかな、あると思うのよ」
 ゆっくりと煙草の煙を吐き出しながら黙って聞いているスマルに、キトはそのまま話を続ける。

「別に惚れたの何だのって、そういうのばっかりじゃないよなぁって、お前ら見てると思うんだよね、俺。うまく言えねぇんだけどさ、もっとこう深いとこで繋がってるっていうか…」
「何だよ、それ」
 ため息混じりにそう言ったスマルの顔が苦笑で歪んだ。

 そんなスマルの様子を横目に見ながら、キトはもっと何かうまい言い様がないものかと必死に言葉を探していた。
 すると今度は、いきなり黙ってしまったキトより先に、スマルの方が口を開いた。

「特別、ねぇ…それはどうだか正直疑問だけど」
「疑問だけど?」
 キトが先を促すと、スマルは困ったような顔をして言葉を継いだ。
「いないと妙な気分っていうのは、まぁ…わかる気もする」
 口ごもったようなスマルの口調に、思わず噴出しそうになるのをキトは必死にこらえた。
「そんな小難しく考えるような事かよ、スマル」
「いろいろ事情ってもんがあんだよ、こっちにも」
 そう言ったスマルの顔からは笑みが消えて、二人を取り巻く空気が少し重たく沈んだ。

 あいかわらず青白く輝く満月は、夜の闇を静かに照らしている。
 月明かりに照らされたスマルの顔は、なぜかとても苦しそうに見えた。
 キトはスマルから目を逸らし、思い出したように月に目をやった。

「あのさ、俺が聞かされてないいろんな事情があるのはわかるよ。俺だってさ、知らないなりになんかえらい事になってるんじゃねぇかってのは、お前見てりゃ何となくわかるし」
「………」
 聞いているのかいないのか、そんなスマルに向かってキトは話を続けた。

「でも、どんなにすごい状況であれ、自分にとって大切なものっていうのはそう簡単に変わるもんじゃないと俺は思うんだよ」
「………」
「それさえわかってりゃ、何も心配するような事はねぇよ、スマル」

 そう言って、キトはスマルの肩にぽんと手を置いた。
「…さすが…妻帯者様は、言うことも違うね…」
 冷やかしというにはあまりにも力なくスマルが言葉を吐き出すので、キトはスマルの肩に置いた手を引く機会を逸してしまい、困ったあげくにその肩を勢いよくどんと押した。
「え? 何?」
 驚いたように顔を上げたスマルに、キトは笑みを浮かべ、明るい声で言った。
「悩んでもどうにもならないなら悩むな、自分を追い込むだけだ。今の自分の顔見てみろよ、スマル。疲れ果てたおっさんみたいだぞ、スマル」
「な……っ!」
 キトは歯を見せてにぃっと笑うと、もう一度スマルの肩をぽんと叩いた。

「よくわかんねぇけど、なんかあいつなら大丈夫って気がするし…それよかチコ婆からいろいろ言われてんだろ? ちゃんと仕事しろよ?」
 スマルもつられて笑みを浮かべてそれに答える。
「わかってるよ、キト。心配かけて悪かったな」
「心配なんてしてねぇよ。ちゃんと仕事してもらわねぇとってことだよ」
「大丈夫だって。お前こそ、郷愁にかられて泣いてんじゃねぇぞ?」
「泣くかよ!」
「どうだかねぇ…」
 そう言ったきり、二人はまた黙ってしまった。

 眼下の町の灯りがユラユラと揺れる。
 あいかわらず湿った風が、まとわりついては二人の間を通りすぎていく。

 夜空に浮かぶ月はまるで、すべてを包み込むかのように優しく、ただ静かに、やわらかな光を夜の闇の中に放っていた。