故郷であるホムラ郷を出てこの守護の森に入って数ヶ月。
文字通り駆け抜けるように過ごしてきたユウヒは、この日初めてその足を止めた。
小高い山のような一枚岩の、ちょうど中ほどにある洞穴の入り口に立って、ユウヒは眼下に広がる守護の森を見下ろしていた。
木々の間を渡る風が岩場に当たって吹き上げ、今自分のいる場所まで森の匂いを運んでくる。
森の中で過ごしている時には気付きもしなかった。
湿った柔らかい腐葉土の上を歩き、緑の苔に足を滑らせ、手足は青臭い泥にまみれていた。
様々な命を育んできた太古の森は、木々に覆われて昼間でも薄暗い。
まるで森全体が一つの生き物であるかのように、常に緊張感が付きまとう。
周りの気配に神経を尖らせながら、一日一日をとにかく必死に生き延びてきた。
そう、昨日までは…
何かを確かめたくて森に入った。
そこで傷つき、自分の事を蒼月と呼ぶ見知らぬ子ども達に命を救われた。
その不思議な出会いが、ユウヒの中で何かを大きく変えていた。
「こんなに心が静かなのは本当に久しぶり」
風に吹かれて立つユウヒは、本当に穏やかな表情をしていた。
「何を焦ってたんだろう。選ばれた者だから、それが何だっていうの…」
ユウヒは一人つぶやいて苦笑すると、手にしたからくり箱をじっと見つめた。
郷を出る時に幼馴染のスマルに渡されたものだ。
その場に座りこむと、両手で包み込むようにその箱を持ち、動く所はないかと親指で丁寧に触ってみる。
見事な寄木細工を施されたその小箱は、難解なからくりを解かなければ開けることができない仕組みになっている。
すべてはその手先が器用な幼馴染の手によるものだ。
「まったく…凝りに凝りやがって……」
ブツブツと文句を言いながら、撫でるように細工を一つ一つ確かめていく。
「ん? あぁ、こっちを先に少しずらすと、ここが縦に動くんだな…」
慣れた手つきでからくりを解いていく。
ここだと思うと裏をかかれて動かなかったり、思いも寄らないところに細工があったりで、ユウヒはすぐにその箱に夢中になった。
この箱のからくりを解き始めると、ユウヒはいつも手先のみに集中して頭の中が真っ白になった。
そして余計な考えや思いは少しずつ消えていき、閃きのように一番大切なものだけが頭の中に鮮明に浮かんでくる。
それがとても気持ちよくて、何か考え事などがある時には、からくり箱を手にしてぼんやりと過ごすことが多かった。
森に入ってからはそんな風に過ごすこともなかったのだが、この日、久しぶりに剣よりも先に箱を手に取った。
この箱の中にはユウヒが今一番欲しい「答え」が入っている。
わかってはいたが、ずっと目を逸らして過ごしてきた。
もしもこのまま何も知らずにすべて終わってしまえば、何もなかったように世界が動いていくのではないか、そんな気持ちがあったのかもしれない。
時々は箱を手に取り、そのからくりを解こうとしてはきたが、たぶんそれは自分は逃げたりしていないと思いたかったからだ。
これまでは、ただ自分への言い訳のためだけに箱を手にしていたのだと、今のユウヒは感じていた。
「あれ?」
ユウヒの手が止まる。
――すべて終わってしまえば?
思わず表情が歪んだ。
「そうだな…もう死んでしまってもいいやって、そんな風に思ってたのかもしれないな、私は」
ふいに、郷を出る日に言われた言葉が頭に蘇った。
からくり箱を渡す事を最後まで渋っていた、あの時のスマルの顔が思い浮かぶ。
「死ぬなよってあいつ…勘がいいんだか何だか。私だって、今気が付いたってのに…」
小さく息を吐いて、ユウヒはつぶやいた。
誰もいないこの場所で吐く独り言は、自問自答にはちょうど良かった。
「私は生かされたんだ。あの子達に」
ユウヒの手がまた動き出す。
からくりの箱が少しずつ形を変えて、答えへと近づいていく。
――なぜあの子達は私の事を助けた?
頭の中で、答えの出ない問答が繰り返される。
――なぜ私は生かされた?
ユウヒの瞳に光が宿り、頭が冴え渡ってくる。
――なぜ? なぜ私は……
「あ…」
親指で横にずらした蓋が、そのままスーッと動いて箱が開いた。
「開いた…」