守るべきもの


 いったいどれくらいの時間が経ったのであろうか。
 ユウヒはゆっくりと目を開けた。

 さきほどまで聞こえていたはずの水泡の音すらも消えた。

 そこは……ただ、深い青が広がっていた。


 青、青……――蒼、一色の世界。


 ユウヒはふわふわとその不思議な空間を漂いながら、懐かしいような切ないような感覚に囚われていた。

 突然、胸を切り裂くような激しい痛みに襲われ、その途端に何もかもがはっきりとしてきた。
 そしてそこがどこなのか、ユウヒはやっと理解する。
 ヒリュウが沈んで行った、あの滄海の水の中に自分は今浮かんでいるのだと感じた。
 どこまで続いているのかわからない蒼一色の世界に、ユウヒは一人ぽつんと浮かんでいた。
 水にゆらゆらと髪が揺れ、どちらが上でどちらが下なのかすらユウヒにはわからない。
 そんな不安定極まりない場所で、ユウヒはふと気付いた。

 ――もう沈んでないのね、私。光ももう見えないけれど……。

 見上げたその方向が、果たして本当に「上」なのかどうか、それすらも定かではない。
 だがゆっくりと沈んでいたはずの体は、その空間の中でふわふわと浮かんでいた。

 ――これは……シュウがやってくれたって事、なのかな。

 刺された部分に微かな痛みを感じつつ、ユウヒはぞっとするほどに果てしない蒼の中で何かをずっと待っていた。
 そして程なく、それは目の前に現れた。

「大丈夫か、蒼月」

 黄龍だった。
 だがその姿はあの見慣れた幼馴染みのものではない。
 初めて目にする黄龍の姿は、蒼一色の中で金色に輝いて見えた。

「大丈夫……と、思う」
「思う? 思うって……大丈夫じゃないと感じる要因はなんだ?」

 疑問を口にしたのは黄龍だった。
 ユウヒは自嘲するように笑みを浮かべて言った。

「だって、実際の私はたぶん心臓を貫かれているわけだし。腹も刺されたからどうなってるのかわからないな」
「ま、そりゃそうだな」

 言葉が途切れると、その次の瞬間には重たい静寂に襲われる。
 不安、迷いといった感情が、頭の中で脈を打つ自分の鼓動に煽られてどんどん大きくなっていくような気がした。
 ユウヒは何かを話していたくて、縋るような視線を黄龍に投げかけた。

「どうした?」

 不思議そうに黄龍が訊く。
 ユウヒは自分を抱き締めるようにその腕を自分で掴んで身震いをした。

「怖い。ここは何だか怖いよ、黄龍。あまり……長居はしたくないな」
「大丈夫か?」
「……駄目。さっきからずっと考えないようにはしてるんだけどね。すごく怖い」

 ユウヒは視線を黄龍から動かさないでそう言った。

「お前は……大丈夫だ。もう沈んだりはしない」

 黄龍はユウヒを宥めるようにそう言ったが、ユウヒは小さく首を横に振った。

「違うの。沈むとか沈まないとか、そういう怖さじゃなくて……何なんだろう。不安でならないっていうのかな、ここはさ、駄目なんだよ」

 まるで駄々をこねる子どものようにユウヒはそう言った。
 その時、ユウヒの周辺に何者かの気配が突如現れ、そこに四神達が次々と姿を現した。

「遅くなりました……大丈夫ですか、ユウヒ」
「みんな! どうしてここに……」

 突然聞こえた玄武の声にユウヒは驚き、その声の主達の姿を見てさらに驚いた。
 皆それぞれ見たことのないような装束を纏い、黄龍とはまた違う光を放っているように見えた。
 まさしく神というに相応しいその神々しい姿にユウヒは一瞬見惚れてしまった。
 その視線に気付いて照れくさそうに白虎が口を開いた。

「なんかおかしいか? なんでそんな風に見るんだ!?」

 ずっと緊張で強張っていたユウヒの表情が、その言葉でやっと穏やかなものになった。
 ユウヒは自分の周りに集まった5人の国の守り神を前に、嬉しそうな笑みを浮かべて言った。

「今さらだけど、皆、本当に神様なんだなぁって思ったんだよ」

 いつもと同じ主の様子を見て、安心したようにそれぞれが笑みを浮べる。
 ユウヒはその様子をゆっくりと見回してからおもむろに訊いた。

「ねぇ。ここはどこなの? 滄海に沈んでいるのかなって思っていたんだけど、でもちゃんと息もできてるし苦しくもない。怖いけど、不安だけど」
「不安、だけど?」

 玄武が聞き返す。
 ユウヒは玄武の問いに言葉を続けた。

「そういう感情と同じくらいの安心感も感じてる。矛盾してるけど、でも本当にそうなの」

 その時だった。
 ひどい耳鳴りがユウヒを襲った。
 思わず硬く目を閉じ、耳を押さえてその身を丸めるユウヒの背中が一瞬だが強い光を放った。
 驚いて目を開けたユウヒの目の前に白い煙のようなものが現れる
 そしてそれはもうもうと蠢いて塊となり、やがて何かを形作り始めた。
 いったい何事かと訝しげに見つめていると、それは徐々に人の形となってユウヒの方にその白い手を伸ばしてきた。

 ユウヒは何故かそれを怖いとは思わず、頬を撫でるその手に自分の手を添えて目を閉じる。
 白い手の主は驚いていたようだったが、やがてその白い塊の中に青白い光が灯り、その輪郭が少しずつ色を帯びてきた。

「……こうして向かい合うのは初めてだな、ユウヒ」

 その声にユウヒは聞き覚えがあった。

「ヒリュウ……」

 ゆっくりと目を開いたユウヒのその瞳に、精悍な顔をした男の顔が映った。