風は穏やかだった。
自分達が何をしにここまで戻ってきたのかを忘れてしまいそうなほどに。
ユウヒ達は無言のまま、目指す王都はすぐ近くにまで迫っていた。
「ん? 何?」
突然声をかけてきたユウヒに、隣のシキが不思議そうに返事をする。
「どうかなさいましたか? 私は特に何も……」
「そう? あれ!?」
戸惑うユウヒにシキは微笑みかけた。
「何か聞こえたのですか?」
「うん……そうなんだけど」
ユウヒはそう言って首を傾げた。
そして今度は雑念を振り払おうとでもするかのように頭を振る。
目を瞑って大きく深呼吸を一つ、そしてゆっくりと目を開く。
その瞳に飛び込んでくるのは、前方の空でユウヒ達を迎え撃つべく待機している軍勢。
後方の兵士達から苦しげな声が漏れ聞こえ始め、それと同時に空気が張り詰めてきた。
「やっぱりいるね」
「はい」
ユウヒの声は落ち着いていた。
返事をしたシキの声もまた、覚悟を窺わせるに足るものだった。
「旗は?」
短くそう尋ねたユウヒの言葉に、シキがその背後を振り返り部下に答えるよう視線で促す。
遠眼鏡を覗いていたその兵士、ロウは、緊張に震えそうになる声を必死に抑えて言った。
「お、王旗です……」
「禁軍か?」
「はい、間違いありません。満月に黄龍、王旗です。禁軍がいます」
「やはり……禁軍が直接出てきたか……」
大丈夫だろうと思っていたシキですらも、その声はやはり歯切れが悪い。
黒州軍の間にみるみる動揺と緊張が拡がっていった。
「どうしたの、シキ。わかっていた事でしょう?」
ユウヒが声をかけると、シキははっとしたように顔を上げた。
「まぁ、わかってはいても、実際に見るとまた違うわよね」
「……面目ない」
シキが申し訳なさそうに頭を下げる。
「気にしないで。でも……そうでなくっちゃ困るのよ、シュウに出てきてもらわないと」
「禁軍の将軍に、ですか?」
「そうよ。中央軍がもし待ってたら、禁軍引っ張り出すのにどうしても一戦交えないといけなくなるじゃない? そうだったら困るなぁって思ってたんだけどね。シュウが直接出張ってきてくれて本当に良かったわ」
力の籠もったユウヒの言葉に、皆の視線がその声の主に集まる。
ユウヒはまっすぐに禁軍のいる遠い空を見つめていた。
そこへまた誰かの声が聞こえたような気がして、ユウヒはきょろきょろと辺りを見回した。
「また何か聞こえましたか?」
シキが尋ね、ユウヒは辺りの気配を探りながらゆっくりと頷く。
するとユウヒの内側から声が聞こえてきた。
――もうそろそろ、限界なのでしょう。
朱雀の声だった。
何のことかと次の言葉を待つユウヒに、それを察した朱雀が続けた。
――ユウヒ、まだ閉じていますか? 今聞こえている声は、この国の民の声です。
青龍が続く。
――受け止める覚悟があるならば、開いてみて下さい。ここから先、あなたは目に見えるものだけではない多くのために動かなくてはならない。あらゆる意思の洪水、いや嵐と言った方がいいかもしれない。その中に飛び込む覚悟はおありか? 受け止める覚悟は?
隣にいるシキが不思議そうに見つめている。
ユウヒは静かに笑みを浮かべると、まるで自分の意志を確認するかのようにこくりと頷いた。
そして返事は、あえて声に出して四神達に伝えた。
「もとより、そのためにここまで来たのよ。だから……」
何のことかわからない周りの兵士達の、訝しげな視線がユウヒに集中する。
ユウヒは目を閉じてぽつりとつぶやいた。
「おいで、みんな……」
その言葉と共に、突然一気にユウヒに流れ込んでくる無数の意思。
それは声となり、音となり、ユウヒの中を徐々に満たしていく。
溢れ出たそれは気流となって、ユウヒを中心に渦巻いて風となる。
兵士達が驚きつつも、言葉を失ったままでその光景をただただ見つめていた。
「…………っ」
言葉にできない何かが溢れ、ユウヒの頬を涙が伝う。
だがユウヒは再び閉じようとはせずに、流れ込んでくるあらゆる者の思いと向き合っていた。
そんな中、大丈夫かとすぐ隣にいるシキが声をかけようとしたその時、ユウヒが突然目を開いてシキの方を見つめた。
「ど、どうなさいましたか? いったい何が起こっているんです?」
戸惑うようにそう言ったシキに、ユウヒはまず涙を拭ってから返事をした。
「私にはいろんな声が聞こえるの。普段はそれをあえて聞かないように閉じているんだけどね」
「なるほど。それを解放した、と」
「うん。そうなの……で、捉えたよ」
ユウヒがにやりと笑った。
「何を、ですか?」
シキが首を捻ってその言葉の意味を問う。
ユウヒはまた視線を禁軍の方に移して言った。
「シュウが待ってる。月華を持って、シュウが私達が来るのを待ってるよ」
その言葉に、また一同に緊張が走る。
月華を持った禁軍の将軍。
それに向かっていくという事はつまり、王と相対するという意思表示だ。
「大丈夫だよ」
根拠のわからないユウヒの言葉に、動揺はますます大きくなっていく。
だが振り返ったユウヒの目に迷いはなく、ただ強い意志だけがそこに宿っていた。
動揺は消えないものの、その場は一瞬で静まり返った。
「解放された月華を持ってシュウが待っているのなら……大丈夫。風はこっちに吹いている。それがシュウの出した答えなら……大丈夫、私を信じて」
ユウヒはそう言って笑うと、手綱を握り締め、先に行くという言葉を残して騎獣を駆り、禁軍の待つ王都へと向かった。
「まったく……わけがわからない。どうなさるんですか、シキ殿」
兵士の中から声が上がる。
シキはぐいっと顔をあげ、全軍に向かって言った。
「そんなもの決まっている、我々もユウヒ殿に続くぞ! 迷いのある者は残れ、誰も咎めはしない。行くぞ!!」
シキの言葉に呼応するように、騎獣が興奮して鼻をぶるると鳴らす。
駆け出したシキを追うように軍がゆっくりと動き出す。
結局その場に残る者は一人もおらず、黒州軍は予定通り、そろって王都を目指す事となった。