黒主とユウヒ


 シオ達だけでなく、国中のイルが行動を起こし始めていた。
 もちろん水面下で着々と準備を続けていたのはイル族だけではない。
 そしてそれにより国内は少しずつ混乱の様相を呈していた。

 ここぞとばかりに人間を襲いだす者もあれば、逆に今まで以上に人間以外の種族を抑えつけようとする者も存在し、さらにはその混乱に便乗して盗みなどを働く者も出始めた。
 王都ライジ・クジャを中心に治安は悪くなる一方だった。

 そんな動きがここへ来てさらに加速しているように見えるのは、全ての事の起こりだと言われている存在、ユウヒがクジャ国内に入ったという噂が流れ始めたからに他ならない。
 国外追放されていた人間がそう易々と帰国できるものではないが、ルゥーン、ガジットといった隣国での動きなどが行商人などの口から伝わるたびに、いつ国に戻ってくるのかということは『いつか必ず国に帰ってくる』とい大前提のもとで語られるようになっていった。

 そんな折、これまで誰も目にした事のない自然現象『日蝕』が起きた。

 昼間の太陽が少しの時間とはいえその姿を隠し、青空が広がっているはずの場所には満天の星空が現れた。
 初めて経験するその自然現象すらも、多くの人々が人ならざる者の仕業ではないかと恐れたのも、確かに無理も無い話ではあったのかもしれない。

 だがそこに、良くも悪くもユウヒ入国の噂である。

 追放の果てに戻ってきたユウヒが、国の民を恐怖によって支配するために強力な幻術をかけたのではないかと言いだす者まで現れた。
 くだらないとは思っても、世情が不安定の折、誰もがそれを何かのせいにしたがっているご時勢に、その噂は余りにぴたりとはまり過ぎた。
 頃合いが良すぎたのだ。
 そしてその突拍子もない噂によって、一部の人々の間での事ではあったが、混乱はかなりひどいものとなった。

 ユウヒが黒州に入って、すでに三日が経っていた。
 そのたった三日の間にどうやら国内ではいろいろな事が起こったようだ。
 黒主オウカはシキに命じて、黒州内の混乱を鎮めるのと同時に、その全ての経過をユウヒに包み隠さず教えていた。
 もちろんユウヒもそうしてもらうつもりではいたが、思っていた以上に自分を対等、もしくはそれ以上に扱うオウカに、ユウヒは戸惑いすら感じ始めていた。

「どうかなさいましたか、ユウヒ。何か気になる事でも?」

 隣国ガジットとの国境の砦、黒州のガリョウ関塞を出て、ユウヒ達一行は黒州州城に客人として迎え入れられていた。

 日中はそこで過ごすようにと言われた黒主の執務室にユウヒはいた。
 露台に立ち、城下を見つめるユウヒの背後に立ったオウカの言葉に、ユウヒはただ黙って振り返った。

「浮かない顔をしていますね」

 羽扇を手にしたオウカがユウヒの横に並んだ。
 なまぬるい風が二人の間を通り抜けていく。
 ユウヒは微笑もうとしたが、その表情は思いとは裏腹に苦しげに歪んでいた。
 オウカは無理に聞き出そうとはせず、ただ静かにそこに立っている。
 少しの沈黙の後、ユウヒは口を開いた。

「私が何もしなければ、この混乱はなかったのかなと……少し、思ってしまいました」
「……そうですか」

 視線をちらりと一瞬だけユウヒに向け、オウカはただ一言だけ、静かにそう言った。
 そうしてまた沈黙があり、また口を開いたのはユウヒだった。

「それでも行かなくてはと思う、この気持ちは何なんでしょうね。この状況を目の当たりにしても、私には諦めようという気が全くないんです。そのせいで苦しんでいる人もどこかに絶対にいるはずと思うのに……何なんでしょうね」

 困ったような顔でそう言ったユウヒに、オウカは半歩分ほど歩み寄って穏やかに言った。

「そういう時もあります。そこで動くかどうかは、その人それぞれかとは思いますが」
「そう、ですね」
「あなたは動くと決めた。全てを受け止めて前に進むと決めたのでしょう? だからここにいる」

 ユウヒは顔だけオウカの方を見て、また城下に視線を戻す。
 そしてそこから先に続いている王都に思いを馳せた。

「蒼月に選ばれてから、母が以前繰り返し言っていた言葉をよく思いだすんです。やっと意味がわかったというか……何かしようって時に、やらないでおこうとかやめようっていう理由っていくらでも挙げられるんだそうです」
「なるほど……」

 先を促すようにオウカが相槌を打つ。
 ユウヒはそのまま続けた。

「だからきっと、初めから手を着けなくても、途中でやめてしまっても……その理由ならいくらでもあるし、周りもきっとわかってくれるだろうって。仕方がなかったと、自分に言い聞かせる事も簡単だって。結局、それでもやるかどうか、その一点なんだそうです。それを聞いた時には私、正直、何だそりゃーって思いましたけど……なるほど、今ならそれが嫌になるほどよくわかります」
「それはあなたが、そのたくさんの言い訳を跳ね除けて決意したからでしょう」
「そうだと思います。それまでは、そんな母の言葉を思い出すほど考えなくてはならないような事にも、出会わなかったのかもしれないですけど」

 ユウヒの言葉にゆっくりと頷いて、オウカはユウヒの見つめる王都の方角に視線を向けた。