「じゃ、気を付けて行ってくるんだよ」
その目を涙で潤ませた老婆が、少年の手を強く握り締めた。
肩まで伸びた髪が顔にかかり、それを邪魔そうに後ろで簡単に束ねると、少年の決意に満ちた瞳が力強い輝きを放った。
ともすれば折れそうになる心をその眼差しが奮い立たせ、俯きがちな仲間達の顔をくいっと上向かせる。
それを満足そうに見渡した老婆は、そこにいる一人ひとりに労いの言葉をかけてまわった。
「婆様。例の件、本当にお願いしてもいいんですか?」
少年がそう訊ねると、最後の一人に声をかけ終わった老婆がゆっくりと振り向いて笑みを浮かべた。
「あぁ、構わんよ。お前がいたあの見世物小屋の、白髪の女の子だろう? 実はもうとっくに当てはついてるんだ。見つけて、ちゃんと保護しておくから安心しな、シオ」
「ありがとうございます。自分が動ければ良かったのですが……」
「何を言っているんだい! あの方の側で力を尽くしたいと言ってきたのはお前だろう?」
少し曇った表情が、その言葉でぱっと晴れる。
「はい。ユウヒさんはイルにも未来を約束してくれましたから」
そう言ってシオは笑みを浮かべる。
老婆はまたシオの手をとった。
「イルの血を誇りに思ってくれてありがとう。イルの男はその場所こそ様々なれど、生まれながらにして戦士なんだ。医術の場で、戦いの場で、それぞれの場所で全力を尽くしてこそイル族の男だ。それを忘れるな」
「はい、婆様」
「あら、女だってそうよ、婆様」
そう言って不満そうに顔を膨らませたのは、シオのすぐ隣に立っていた少女、ナナだった。
「あぁ、そうだ。すまなかったね、ナナ。お前達もしっかりやるんだよ」
もう片方の手でナナの手をとり、その手をシオの手の上に乗せ、その二人の手を老婆の手がやさしく包み込む。
ナナとシオは顔を見合わせて照れくさそうに笑うと、もう一方の手を互いにその上に添えた。
「旅芸人として蒼月の伝説を国中に知らしめて回るなんて発想。婆様がいなければ思いつきませんでした」
「そうよ、婆様。あれがあるから今の私達があるんだもの。まぁ、蒼月役がシオっていうのは、私未だに納得がいかないんだけど……」
その言葉に辺りがどっと沸き、シオが思い出したように顔を朱に染める。
「あ、あれは仕方がないだろう? ナナが剣の扱いに慣れていなかったから」
「わかってるわよー。だから譲ったんじゃない! でもやっぱりあの衣装は私が着たかった!」
「そ、そんな事……い、いいじゃないか! 全部終わったら、また旅をしながらいろんな芝居でもしたらいいだろう」
シオが言うと、老婆が声を立てて笑いながら手を離し、ナナの事をしっかりと抱き締めた。
「そうだよ、ナナ。そんな未来もあるんだよ、これからはね」
「婆様……」
居合わせている一同の顔がきりっと引き締まる。
老婆はナナからゆっくりと離れ、その髪に小さな髪飾りをつけてやると、その隣にいるシオの胸にも、お揃いの飾りをつけてやった。
「全てをここから始めるためにイル族も動くんだ。国中のイルが、そのための準備をほぼ整えたところだよ」
「はい」
「ずっとイルである事をひた隠してきた我々の手元には薬草も満足にない。だがそれも、青州のイル達がヒヅの同胞からどうにか調達してくれたようだ。我々はこれからなんだ。むやみにその力を使って、命を粗末にするんじゃないよ」
「そうですよ、皆さん。ユウヒさんはおそらくそういう手助けを望んではいません。我々の未来を勝ち取るのであれば、ここで命を落としてはいけない。どれだけの事ができるかはわからないけれど、これが終わりじゃない。先に進むことを考えて下さい」
老婆が言った事をうけたシオの言葉に、皆、大きく頷いた。
それを見渡し満足そうに満面の笑みを老婆は浮べると、最後に薬草の入った包みを全員に渡して静かに言った。
「これはあの火事の夜に受けた恩に報いるためだけじゃない。我々と、その子孫。その他の今までその存在を否定されていた全ての者達の未来を守るための戦いだよ。だがもちろん、人間だって同じクジャの民だ。それは忘れないように。この戦いは人間達を懲らしめるためのものじゃない。いつだって真実を見失ってはいけないよ」
ある者は拳を握り締め、またある者武者震いしながら老婆の言葉を受け止めた。
「では、婆様。行って参ります」
シオがそう言って頭を下げると、それに皆が続く。
そして誰からともなく順に隠れ家である地下から地上へとつながる梯子をのぼり始めた。
「シオ!」
最後までその場に残ったシオに、梯子を上りながらナナが声をかける。
シオは老婆の前に膝をついて丁寧に拝礼すると、にっこりと笑みを浮かべて立ち上がりナナに続いてその梯子を上っていった。