「……約束通り、ですね」
そう小さくつぶやいた声には誰の耳にも届かなかった。
だが誰もがある暗い空のある一点に釘付けになっていた。
星空を背後に背負うような形で近付いてくるその点は、おぼろげな弱い光を放ちながらゆっくりと移動している。
やがてそれは何かの騎獣に乗った人間であると認識できるまでに近くなってきた。
不意に、銀色の光がひゅぅっと風を切る音を立てて流れた。
経験した事のない現象に対する言い知れない恐怖に耐え切れなくなった、年若い兵士の放った矢だった。
「誰だ! やめさせろ!!」
シキの声が暗闇に響いたが、その声とは逆にいくつもの矢があちらこちらから近付いて来る者に向かって放たれた。
「畜生っ。聞こえてねぇのか、馬鹿共がっ!!」
シキはすぐ側にいた兵士にオウカの警護を任せて見張り台へと上って行った。
上に上るとそこは混乱して茫然自失となった若い兵士が震える手で弓を握り締めていた。
「おい、よせ」
そう言ってその手に上から自分の手を添えて弓を下ろさせる。
「あぁ……も、申し訳ありませ……っ」
目に涙を浮べて頭を下げる兵士の肩をぽんと叩いて、シキは声を張り上げた。
「全員、弓をおろせ! 余裕のある者は、わけわかんなくなってる連中をどうにかしてやれ!!」
やれやれと言った様子で城壁の両翼へと散らばって行ったのは、シキやソウケンと共に何年も州軍に従軍している兵士達だ。
もうどこからも矢が飛んで行かなくなったのを確認したシキは、見張り台の中央に立ち、改めて近付いて来る人物を見た。
オウカの言っていた通り、それは女だった。
「剣の使い手と聞いていたが……なんだよ、丸腰じゃねぇか」
誰かがそう言った声が静かな見張り台に響く。
確かにその言葉の通り、その女は全く何の武装もしていなかった。
だがそれよりも目を引いたのは、その女が騎乗している騎獣だった。
「おい、あれってまさか……」
「あぁ。そのまさかだろ」
暗闇の中でさえ白銀に輝く美しい毛並み。
少し長い首とその全身に見える黒い縞模様。
「白虎だ……」
思わず漏らした感嘆の溜息があちこちから聞こえてくる。
その女は伝説の四神、白虎らしき獣に騎乗して現れた。
恐怖に近かった皆の視線に畏怖の念が混じりその場の空気が変わり始める。
見張り台のすぐ近くまで来た時、シキはその騎獣の上の女と目が合った。
見つめるシキに何かを伝えるかのように、女の口が微かに動いたのが目に入る。
声を聞き取ることは出来なかったが、シキは思わず小さく噴出した。
「どうなさいました、シキ殿!?」
慌てて駆け寄る部下の手を、シキは笑いながら断わった。
「なんでもない。しかし、あの女…………」
――ごめんなさい、ありがとう。
確かにそう言っていた。
シキはついにやけてしまう顔をどうにか真顔に戻して近くにいた兵士達の指示を出した。
「俺はオウカ様の許に戻る。あの女なら大丈夫だ。おそらく仲間が近くまで来てるんだろうが……手ぇ出すなよ? 皆にもそう伝えとけ」
すでに騎獣に乗った女はすでに砦の内側にいる。
シキは急いでオウカのところに戻った。
女はまだ上空にいた。
オウカを始め、そこにいる者達の視線は女と、その騎獣に釘付けになっていた。
「オウカ様! シキ、戻りました」
「……あぁ、ご苦労だったね」
オウカがシキを見て労いの言葉をかける。
その言葉が沈黙をやぶったことで、また皆の小声で囁きあう声がさざ波のように広がった。
皆の神妙な態度が、逆にまた先ほどの女のつぶやきを思い出したシキの笑いを誘った。
「シキ。どうかしましたか?」
不思議そうに訊ねてきた主にシキは一言謝ってから言葉を継いだ。
「ごめんなさい、ありがとう……だそうですよ」
シキは改めて上空の女を見つめた。
オウカと、そして自分を見つめているその瞳に敵意は全く感じられない。
城壁を護る兵士達への指示は間違っていなかったはずだとシキは実感していた。
その横でオウカが羽扇と持った手をすっと上空の女の方へと掲げ、そして着地を促すかのようにすぅっと弧を描いて自分の前の地面を指した。
そして再度上空に目をやると、オウカは口を開いた。
「どうぞ、こちらへ」
女はこくりと頷いてゆっくりと降下を始める。
それと共に、その周辺にいた者達はそそくさと逃げるように数歩後ずさった。
オウカが思わず苦笑したのが、後ろにいるシキにもわかった。
ふわりと音もなくその騎獣は地面に降り立った。
ゆっくりした動作で獣の背から降りた女が、労いの言葉をかけながらその白銀の獣の背を撫でる。
するとそれまで確かにそこにいたはずの獣の姿が、まるで煙が消えていくかのようにすぅっと闇に吸い込まれ跡形もなく消えてしまったのだ。
動揺が辺りに走り、シキの指示もないままに剣を手にした兵士達が女の周りを取り囲んだ。