ガリョウ関塞


『オウカ様。これはいったい……』

 そう言って手にしていた書簡をオウカに返したシキは、訝しげに眉を顰めた。



 二人は今、ガジットとの国境の砦、ガリョウ関塞にいた。

 警備は厳重であったはずのガリョウ関塞の門の内側に、一通の書簡が落ちているのを見回りの武官が気付いたのはその前日の朝早くのこと。
 黒州の長、黒主オウカに宛てられたその書簡は、すぐに州城のオウカの許に届けられた。
 誰に気付かれるでもなく届けられたそれは、特に怪しげな呪がかけられているでもないただの書簡だった。

 それでも念のためと誰もが警戒する中で、当のオウカだけは迷う様子も見せずにその書簡を手に取り、周りが止めるのも聞かずにその封をあっさりと解いてしまった。
 そしてそのまま、まるで何事もなかったかのように周りに指示を出し、その日の昼には州城を後にし、夕刻にはもうガリョウ関塞にいた。

 一夜明け、ガリョウ関塞はただならぬ緊張感に包まれていた。
 突然の黒主の訪問に戸惑っていた者達も、今では自分達の持ち場でそれぞれの役割を果たすべく動き回っている。
 そんな砦の様子を見回りつつ、一人、朝の散歩を楽しんでいたオウカは、思い出したようにまた例の書簡を取り上げた。
 昨日からもう何度となく目を通したそれをさっと一読するや空を見上げる。
 その口許には笑みすら浮かべていた。

「あの……オウカ様?」

 おずおずと近寄ってきたのは、黒主の身辺警護も兼ねて州軍と率いてオウカと共にガリョウ関塞に入った黒州軍将軍代理、副将軍のシキだ。
 オウカはその書簡をシキに渡した。

「よろしいので?」

 困ったように聞き返してきたシキとは対照的に、オウカは涼しげな顔で頷いて言った。

「読んでみるといい。なかなか面白いことを考えるお嬢さんのようだ」
「は? お嬢さん、ですか?」

 最初は不思議そうに首を傾げていたシキだったが、ここは書簡に目を通すのが早いと判断したのか、何も言わずに書簡の文字を追い始めた。
 オウカは手にしている羽扇を弄びながら、シキの次の言葉を待っていた。

「オウカ様。これはいったい……」

 眉を顰めるシキを見て、オウカは柔らかく笑みを浮かべて言った。

「私も文献でしか知りませんから、実際に見るのは初めてですよ」
「何を悠長に仰っておいでですか、オウカ様。真昼の星空などとふざけた戯言を……それをわざわざ手紙に認めてまでよこすとは、我々を馬鹿にするにも程があります!」
「シキ、落ち着きなさい。彼女は別に我々を馬鹿になどしていませんよ」
「そうでしょうか」

 納得のいかない様子で、シキは腕を組んで鼻息も荒く、肩を怒らせている。
 オウカはゆるゆると羽扇で仰ぎながら、手の中の書簡を小脇に挟んだ。

「今までそんな事はないと思っていた事が現実となる瞬間が近付いているのですよ、シキ。四神を引き連れた彼女は、それをどうすればすんなりと受け入れてもらえるか、きっと考えたのでしょう。もっとも、こんな演出を考え出したのはもっと別の人物……恐らくは、ルゥーンの星読みあたりでしょうけどね」
「……ではオウカ様はやはり現体制ではなくその女の方を支持すると、そういうことですか」
「そういきり立つのはおやめなさい、シキ」
「ですが……」
「シキ?」

 何かを言いかけて、シキはそのまま俯いてしまった。

 オウカはしばらくは何かをシキが言おうとするのを待ったが、固く握り締められた拳を見つめて気が変わり、その場でくるりとシキに背を向けた。

「シキ。強制をするつもりはないのですよ。お前の信念のままに行動すれば良いのです。何かを成そうとする時には大きな力が必要ですし、それだけの覚悟をしなくてはなりません。そこには同時にそれ相応の痛みも伴うものですしね。出て行くなり、私を追い出すなり、してもらってかまいませんよ」
「いえ! いいえ、その……そういう事ではないのです。そういう事では」

 大きく頭を振って、シキは真っ直ぐにオウカの背を見つめた。

「これを……副将軍である私がこれを口にするのは障りがありましょうが……そこまですっきりと思いきれる程の勇気がないのです。この判断が間違っているとは思っていません、私はオウカ様に付いていく所存です。ですが、その事がいったいどれ程に周りに影響するか読めないから、怖いのです。不安でたまらないのです」
「……大切な何かを持つということは、とても大きな勇気と力を己に与えてくれるのと同時に、それと同じくらい人を臆病にします。満たされているからこそ、失う事がこわくなる。当然のことです」
「オウカ様……」
「ですが、臆病になるからこそ、慎重になります。死を恐れます。生きることに対して貪欲になるんです。それでいいんですよ、シキ」

 振り返ったオウカはゆっくりとシキに歩み寄り、ぎゅっと握り締められていた手を解いて自分の手を添えた。

「だからこそ、あなたは頼りになるのです。自身をもっと信じておあげなさい」
「……将軍も、ソウケン殿もそうだったのでしょうか?」

 シキの思いもかけない言葉に一瞬驚きの表情を浮かべたオウカは、その眼差しを少し翳らせて言った。

「もちろん。ただ今回ばかりはそんな自分に決別してしまったようで……大切なものを私に託して行ってしまった。今のソウケンにはこわいものはないでしょう。だからこそ我々が今立たなくては。ずっと彼が背負ってきたものを私達は知ってしまいました。この国の最大の矛盾です……そこにあるものをそれと認めない、間違っているとは思っていても踏み出せなかった領域へ進む機会を、我々は彼のおかげでやっと得たのです」
「……はい」
「これからだというのに、おそらく今のソウケンは何をも捨てる事を厭わない。大切な者達に未来を約束できるのならば、ここで自分の命すら捨てても構わない……そんな風に考えているのでしょう。ですがこれまで同じ道を歩んできた友として、私はそれを許すわけには行かない。その未来に自分も存在していいのだということを彼は見失ってしまっているのです。全てを受け入れて前へ進むためならば、私は今、歩みを止めようとは思いません。ソウケンが導いてくれた道です」
「そう、ですね」

 躊躇いながらもそう言ったシキに、オウカは微笑みかけた。

「城の者達にどの道を進むかと問うて、その答えが出るのが今日。いったいどれ程の者が残ってくれるのか……残って、私について来てくれるのか」
「オウカ様、こればかりは……私にも量りかねます」
「待ってみましょう。真昼の星空の下、彼女達が来るのを」

 そう言って二人で見上げる空には、すでに透き通るような青が広がっていた。