ガリョウ関塞


 それはもう既に誰も口にする事のなくなった古の言葉。
 だがユウヒには、それが何を意味する言葉なのか理解できた。

「つむじ風?」

 ユウヒが問うと、サクは小さく笑って頷いた。

「そう。ただ今は小さいやつを……ね」

 そう言って、サクが閉じた扇を持った手をくいっと反す。
 すると、その先の方で地面を這っていた霧が渦を巻いて小さく舞い上がった。

「あ……」

 思わずユウヒが声を漏らす。
 その小さなつむじ風は、すぐに消え、かき乱された霧はそのままあたりの空気に溶けて消えてしまった。

「なんか……これじゃ説得力の欠片もないな」

 たまらずユウヒが口を挿む。

「うん。やっぱりちょっと心配なんだけど。それで身を守るとか、戦うとか、申し訳ないけど想像つかない」
「……だよな。じゃ、仕方がない。ユウヒ、ちょっとじっとしてて」
「うん? 何をするの?」
「んー、そうだな。風の刃というか……」

 不思議そうにサクの顔を見つめながら、言われた通りにユウヒがその動きを止める。
 何をしようとしているのか理解した黄龍が、少しだけユウヒから離れた。

「え? え? 何よ!?」

 困惑気味のユウヒの声をサクの声が遮った。

「かまいたち」
「え……」

 不意に髪を束ねていた結い紐が切れて、ユウヒの髪が風に煽られて緩やかに靡く。
 飛ばされて少し離れたところに落ちた結い紐を拾い上げ、サクが呆然と立ち尽くしているユウヒの手にそれを手渡す。

「髪の毛もちょっとだけやっちゃったね。ごめん」

 サクがそう申し訳なさそうに言うと、ユウヒは手の中の切れてしまった結い紐を見つめ、そしてサクを見た。

「何、今の」
「何って……かまいたち?」
「いや、それは聞いてりゃわかるんだけど……え? 切ったの?」
「切ったというか、裂いたというか。まぁそんなとこ」

 ユウヒはもう一度切れた結い紐を見つめて、小さく息を吐いた。

「何にもしないって顔してとんでもない事やってくれる、サクヤっぽい、いやらしい攻撃だわ」
「いやらしいって何だよ」

 サクはそう言って笑って、そしてまた言葉を継いだ。

「こんな芸当があるからさ、大丈夫だよ。今はわかりやすいように声にしたけど無言でいけるし」
「……あんたの事は怒らせないようにするよ、サクヤ」

 ユウヒがそう言うと、黄龍がサクの方を一瞥して言った。

「もしや、とは思っていたが……やはりそうか」
「どうかした?」

 ユウヒが聞くと、黄龍はそれに答えながらユウヒの手から切れてしまった結い紐を取った。

「ヒリュウの時代の朔が……ザインがそうだった。お世辞にも器用な男ではなかったが、なぜか風を扱うのには妙に長けていた」
「そっか……で、お前はそんな紐持って、どうすんの?」
「あぁ、これか?」

 何かまずい事を聞かれたかのように黄龍は顔を少しだけ歪める。
 不思議そうにユウヒが顔を覗き込むと、黄龍はスッと目を逸らして言った。

「これは……直しておく」

 そう言うと、黄龍は気まずそうに俯き、そのまま踵を返してどこかへ行ってしまった。
 ユウヒは呼び止めようとしたがそれをサクに制されて、何か思い詰めたような視線で黄龍の後姿を見送っていた。

「何かあった?」

 少しユウヒの様子に違和感を感じたサクが訊ねると、ユウヒはつぶやくように小さく言った。

「紐を直そうって思ったのは……たぶんスマルじゃないかな」
「スマル?」
「うん。いつもやってくれてたし……何だろうな、時間が経つにつれて黄龍が黄龍っぽくなくなってきてるというか。時々だけどね、あれ?って思う瞬間があるの」
「あいつといるみたい?」
「んー、うん。そんな感じ」

 サクはもう随分遠くなった黄龍を見た。

「できない約束はしないんだろ、スマルは。だからちゃんと踏ん張ったんじゃないの? 今でも黄龍の中にあいつはいるって事じゃないのか?」
「……そう、ね。そうかも」

 ユウヒは首にまとわりつく髪を指で梳いて、もう一度、国境の砦を見つめた。

「あいつも一緒に帰るんだね、今日」
「ま、そういうことだな……で、どうする気なんだ? 真正面から行って扉を開けさせるなんて言ってたけど」
「うん。それなんだけどね。へへ、ちょっと……夜のうちに朱雀を使ってお手紙なんぞ、オウカ様に……」
「はあ?」

 初めて聞くことにサクの声が思わず裏返る。

「お前! 聞いてないぞ、そんなの」
「へへへー。ごめんね、勝手しちゃって」
「いや、別にかまわないけど……誰かには言ったの? ジンとか」

 ジンの名前が出てユウヒの顔から笑みが消えた。

「いや、ジンにも言ってないよ。だって知らないうちにいなくなっちゃったし。でも何も言わずにいなくなったってことは、たぶん私の好きにやれって、そういう事だと思うのよ」
「なんだよ、それ」
「いや、そういう事だと思ってるのは本当。だから……せっかくの演出もあるし」
「あるし? 何?」

 不安そうに眉間に皺を寄せてユウヒを見つめるサクに、ユウヒは少し楽しげに言った。

「太陽が隠れたら、一人で空から行ってくるよ」
「はあっ!? お前、正気か?」
「うん。そして中から必ず門を開けさせてみせる。だからサクヤは……」

 ユウヒが言おうとした言葉を遮り、サクは静かに笑って言った。

「わかった。門の外で待ってるよ」
「……止めないの?」

 驚いたように目を瞠るユウヒにサクは溜息混じりに言った。

「止めて聞くような女じゃないだろ、お前」

 それを聞いたユウヒは嬉しそうに笑みを浮かべて、皆のところに戻ろうと言って歩き出した。
 サクはというと、そんなユウヒの後姿を楽しげに見つめて、その後を少し遅れてついて行った。