辺りを覆っていた霧が緩い風に追いやられるようにゆっくりと山の斜面を滑り降りていく。
見下ろす砦の上でそれは薄い雲となって、遠くへ、より遠くへと静かに流れていく。
明るくなり始めた東の空は薄く淡い橙色から白を経て水色から青、そして夜の名残を留めた蒼い西の空へと続いている。
雲の向こうから一筋の光が天を貫き、次いで幾筋もの光が放たれる。
やがてそこに光の点が現れ、次第に膨れ上がったそれは光の塊となっていく。
あらゆるものにその光の手を伸ばし、世界がそれ本来の色を取り戻して鮮やかに輝き始めると、朝の訪れを告げながら鳥達が飛び立っていく。
その特別な一日は、そんないつもと同じ朝から始まった。
国境を見下ろせる比較的傾斜のなだらかな草原に、ユウヒは立っていた。
その傍らには当然のように黄龍とサクが肩を並べている。
「今日も晴れるね」
そう言って大きく伸びをして、朝の冷たい空気を体全体に送り込むように深呼吸をする。
揺るがない視線のその先にあるのは国境の砦、ガリョウ関塞だ。
「……どうかしたのか?」
思い詰めたように砦を見つめるユウヒに、そう声をかけたのは黄龍だった。
「ん? あぁ、私?」
ユウヒはそう言ってちらりと横目で黄龍を見やり、すぐにまたその視線を戻す。
「いや、ずっと風の民やってたから、国を離れるなんていつもの事なのにさ。なんでだろう……今こうしてこっから見てると、それだけで涙が出てきそう。苦しいくらい、早く帰りたくて仕方がない」
言い終わるのを待たずにユウヒの頬を一筋の涙が伝う。
ずっと堪えていたのか、流れる雲とその先の砦を映した瞳からは涙がどんどん溢れてくる。
「それはそうだろう。お前の中にはあいつらがいるんだから」
そう言った黄龍も顔を歪める。
黄龍の言葉と、その表情にサクが小さく微笑んで言った。
「四神の方々以上に、この日を待っていたのは黄龍の方だろう?」
ユウヒはハッとしたようにサクを見て、そして黄龍の方を振り返る。
瞳に溜まっていた雫が零れ落ち、ユウヒはくしゃくしゃっと笑った。
「泣きたいなら泣いたらいいのに、黄龍。ひどい顔」
「誰が泣きたいって? それに……そんな顔して泣いてるお前がそれを言うか」
無表情を装う黄龍だが、ユウヒにはそれがわかる。
切なそうに眉間に皺を寄せて涙を堪えるその表情は、ユウヒも見慣れた幼馴染みのそれそのままだった。
「……やっと帰れるよ、黄龍。遅くなっちゃって本当にごめん。結び目は絶対に見つけるから。見つけて、それで……」
「あぁ、わかってる」
黄龍が静かに答える。
そんな二人を交互に見て、サクが口を開いた。
「それなんだけど……俺にちょっと心当たりがある」
ユウヒは驚いて、はじかれたようにサクの方を見た。
「どういう事?」
「うん、詳しくは言えないんだけどね。城に着いたら俺は別行動にさせてもらっていいかな?」
「それは構わないけど……サクヤ、一人で大丈夫?」
その言葉にサクが小首を傾げる。
「俺、そんなに弱そう?」
「いや、そういうわけじゃ……その、サクヤは文官でしょ? それに、あんまり剣振り回してるところとか、想像できない」
「……やっぱり弱そうに見えてんだな」
サクは苦笑して、一つ溜息を吐いた。
「まぁ確かに剣はあまり得意な方ではないよ。だいたいあんなの腰に提げて歩くなんて、想像するだけでも邪魔で仕方がない。あれはちょっと、勘弁だな……だから俺は……これを使う」
そう言って、サクは音を立てて両手を胸の前で合わせ、その掌の中にあるものを両側に広げるようにすぅっと両手を引いた。
するとその手と手の間に陽炎が立ち、ぼんやりと何かが見え始め、やがてはっきりとした形を成すとサクはそれを手に取り、しっかりと握り締めた。
「え? 扇?」
「そう、扇」
「それが何? 頭を小突くくらいしか出来なそうじゃない」
ユウヒがそう言うや否や、小気味のいい音を立ててサクが扇でユウヒの額を小突いた。
「……本当にやる事ないじゃん」
悔しそうに言うユウヒを見てサクはにやりと笑うと、扇を持った手をすっと前方に伸ばした。
「? 何?」
不思議そうに扇の先を見つめるユウヒの耳に、サクの低く囁くような声が微かに響いた。