蒼天にあがる


「え……」

 ユウヒの足が思わずすくむ。
 その瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、ユウヒは全てを『開いて』しまった。

 今、この国のいたるところで溢れているであろう新しい王、新しい時代への期待。
 これまで支えて、支えられてきた者達の想い。
 この日を迎えることができたことへの喜びと、この国を想う人々の熱気が、露台に立ったユウヒの上に大きな渦となって降りかかってきた。

 たまらずに目を瞑ったが、それではどうにもならなかった。
 奥歯がカタカタとなるほどに震えだしたユウヒの手を、サクがしっかりと握り締める。
 シュウがそっと肩に手を添えて、ユウヒに向かって小さく笑みを浮かべる。
 サクの、そしてシュウの手の温もりを感じながらユウヒはゆっくりと目を開ける。
 その双眸に映ったのは、長い時間を経てやっと一つになり歩き出そうとしている、このクジャという国の姿そのものだった。
 震えながら『閉じ』ようとしたユウヒの周りを、柔らかな風がふわりと包み込んだ。

「閉じるな」

 その声と共に、ユウヒの目の前の中空に姿を現したのは、聖獣の姿をした黄龍だった。
 眼下から畏れおののくどよめきが聞こえ、次の瞬間、その声が歓喜の叫びに変わる。

「黄龍……」

 ユウヒの口からその名が零れ落ちる。
 黄龍は円を描きながらくるくると上昇し、ふわっと霧散してその姿を消した。
 あっという群衆の驚きの声を受けて、今度は金色の長い髪を靡かせた青年が中空に現れ、宙をゆっくり歩いてユウヒに近付き、ふわりと露台に舞い降りた。

「閉じるな」

 そう繰り返した黄龍は、何かを自慢するように得意げな顔つきで右手をさっと大きく広げ、目の前の光景を見るようユウヒに促した。

「しっかりと全身で受け止めてやれ。歓喜の声も、その声の陰に隠れた悲しみの声も、全てお前が背負うと決めたこの国の民の心だ。この瞬間をお前は忘れるな」

 もはや一つ一つ聞き取る事すらままならない、ユウヒの中で溢れかえる誰かの想い。
 それを全てぶつけられるがままに受け止めながら目の前の光景を心に刻んでいく。
 言い方は決して優しいとは言えない素っ気無いものだったが、ユウヒは自然と黄龍の言葉に従っていた。

 カラカラという音をたてながら、五色の吹流しが風に揺れている。
 黄龍、青龍、朱雀、白虎、玄武を現す五つの色。
 その一つ一つがその他の色を際立たせながら、支柱を大きく撓らせてばたばたと靡いている。
 その音を時々掻き消すのは、風を孕み、大きく翻る禁軍旗、そして王旗。
 もう何年も掲げられることのなかった満月の王旗が、城の三つの塔、全ての城門、そして飛翔殿の屋根の上で揺れている。

 東西南北の四方の空は、それぞれ不思議な色をうっすらと帯び、そのどの方角からも親しい友が自分に向かって近付いてきている気配が感じられる。
 即位、戴冠を終えた頃には、おそらく皆その姿を見せてくれるのであろう。
 晴れ渡る空はどこまでも澄んで、見えないはずの守護の森の、故郷のホムラ郷の気配さえも風に乗せて運んでくる。

 国中から熱を感じた。
 そして一番の熱い塊はその目の前にあり、それは城の中庭に、そして城壁の外のライジ・クジャの街に集まった人々から発せられているものである事はもう疑いようがない。

 人間と、そしてそれ以外の種族の者達と、まだ距離を測りかねたような微妙な隙間がところどころに見てとれるが、それでも共にその時を迎えようとその場にあり、同じ時間を共有している。
 中央の塔の前、特別にあつらえられたその場所には、近隣諸国を代表する者達が正式に王となったユウヒを迎えるために、静かに事の次第を見守っている。
 全身がざわざわと粟立ち、総毛立つ。
 ともすると腰くだけになってしまいそうなほどの重圧の中、ユウヒはその場に足を踏ん張って立ち続けた。

 ふっと黄龍が小さく笑う。
 安心したようにシュウとサクがユウヒをまた見つめる。
 そしてサクはもう一度ユウヒの冷たい手を強く握り締め、呆けているようなユウヒにわかるようゆっくりと言った。

「もう、いいそうだ……ユウヒ。閉じても大丈夫だぞ」

 言い聞かせるように言ったサクの言葉は、一度ではユウヒに届かなかった。
 シュウがぽんと肩を叩く。
 サクは握った手にもう片方の手を添え、再度ユウヒに向かって言った。

「ユウヒ。もう閉じても大丈夫だよ」

 ハッとしたように我に返り、ユウヒの視線がぴたりとサクに定まった。
 サクは安心したように添えていた手を離し、握った手を静かに下ろした。
 黄龍がユウヒの前まで来てその足を止めた。

「なるほど……」
「……? 何?」

 訝しげな表情で首を傾げるユウヒに向かって、黄龍は興味深そうに笑って言った。

「意地になって髪を伸ばし続けた甲斐があったというものだな。見事なもんだ」

 少し茶化したようなその言葉にシュウとサクが小さく噴出し、ユウヒは少し恥ずかしそうに言った。

「意地になってはないでしょ。余計な事言わないで、黄!」
「あぁ、そうだな。悪かった」

 ユウヒに向けられた黄龍の笑みが少々違う色合いになり、それと同時にその左手が、ユウヒに向かってすっと差し伸べられた。

「来い、蒼月」
「あ……うん」

 優しい微笑みとは裏腹の強い語気に押されるようにユウヒはその手を取って一歩前に出た。

「歩きにくそうだな」
「まぁね。重たいし……頭もね、素敵にしてもらったんだけど、すごく力入れてないとがくーんって首がなりそうなの」
「……そりゃがっかりな王様だな」

 はははと声を上げて笑う黄龍と共に、ユウヒは露台の際に立った。
 どっとまた一段と大きな歓声が上がる。
 ユウヒはその声に応えるかのように、無意識に手を小さくあげていた。
 それを受けてまた歓声が上がる。
 眼下の光景に視線が釘付けになっているユウヒの横で、同じ光景を見つめながら黄龍が言った。

「まだまだこれからの国ではあるが……礼を言う。よくここまで逃げずに踏ん張ってくれたな」

 ユウヒは一瞬だけ黄龍の方に視線を流し、何事もなかったかのようにまた視線を戻した。

「四神達もじきここに到着する。俺はここにいるから、お前は残りの仕上げを済ませてこい」
「……わかった」

 力強く頷いたユウヒがゆっくりとサクの方を振り返る。
 差し伸べられた手を取って、ユウヒがゆっくりと歩き出す。
 露台から戻ると、禁軍の兵士達、それに女官達が皆そろって片膝をついてその手を胸に頭を下げていた。
 ユウヒはそれを見渡すと、シュウ、そしてサクと顔を見合わせて笑みを浮かべて頷いた。

「さぁ、行こうか」
「あぁ。ショウエイ殿が通路を開いて下さっている。扉の向こうはもう王の間の入り口だよ、ユウヒ」
「わかった……開けてくれ!」

 ユウヒの力強い呼びかけに禁軍兵士達が広間の扉を開けると、サクの言った通り、扉の向こうには隣にある中央の塔の王の間に通じる廊下になっていた。