アクセス解析 11.焦燥の中で

焦燥の中で


 まるで長い旅でも終えたかのように、ユウヒは再び城に戻った。
 ユウヒとしてではなく「蒼月」という名を背負った、この国の王としてである。

 何も変わっていないようで、何もかもが変わろうとしていた。
 国の混乱は落ち着いているというだけで、全てが解決したというわけではない。
 誰もが戸惑い、道を探しているような状態なのだ。
 これまでの当たり前が、そうではなくなったという現実。
 人、つまり人間のみで動いていた社会を、全てのものに開かれた社会にする。
 言うは容易いが、それを受け止め、受け入れるとなるとそれはまた別の話で、どうしてもそこに大なり小なりのわだかまりが生じる。
 それは城内のみならず、国内全土で起きている問題でもあった。

「すぐに即位だなんだって、そんな状況じゃないね、これは……」

 そうサクがこぼしたのも無理もないことだった。

 ここは飛翔殿にあるサクの執務室である。
 やらなければならない事は山とある。
 それを一つ一つ片付けていきながら、手が空くとこのサクの部屋に逃げるように転がり込むというのが、このところのユウヒの常であった。

 この時もまたユウヒは忙しく動き回るサクを横目に、サクの執務机の椅子に腰掛け、ぼんやりと天井を眺めていた。

「あぁ……そっか。やっぱりこの懐かしさって、ヒリュウの記憶だったんだなぁ……」

 ぼそぼそとそうつぶやくユウヒの頭を、横を通り過ぎるその瞬間サクが軽く小突く。

「暢気なもんだな、ユウヒ。いいのか? こんなところでまた油売ってて」
「良くはないかな。っていうかサクヤ、小突くことないでしょう!?」
「こっちが忙しくやってる時に、その腑抜けた顔見るとイライラするんだよ」

 そう言われてユウヒが少しむくれると、それを満足そうにサクが見て笑う。
 ユウヒは盛大に溜息を吐いてサクに言った。

「息抜きよ、息抜き。少しくらい頭の中からっぽにする時間くれたっていいでしょ? もうずっとなんだから。朝から晩まで、そりゃもうみぃ〜っちりなんだから!」

 うんざりといった表情で言うユウヒに、サクが呆れた顔で言い返す。

「お前が指示出したんだろう? ロダ殿だって、まさかの起用にそりゃもうやる気満々じゃないか。腹括って頑張れよ」
「頑張ってるわよ。頑張ってるけど、息抜きだって大切でしょう?」

 そりゃそうだけどな、とサクは小さく笑って、女官達にお茶の用意をしてやるようにと声をかける。
 女官達ももう心得たもので、そう言った直後にはもうユウヒの前にはお茶と甘い香りのする焼き菓子が用意されていた。
 ユウヒはそれを礼を言ってから口に運ぶ。
 香りの通りの菓子の甘さが、ユウヒの心身を解きほぐすように口の中で広がった。

「はぁ……」

 安堵の声を漏らし、ユウヒは大きく伸びをする。
 そこにもう何度目になるかわからない、怒りをすべてそこに込めたような、どすどすという荒っぽい足音が聞こえてきた。

「ほら、ユウヒ。お迎えだぞ?」

 サクが笑いを含んだ声でいつものようにそう言うと、女官達が心底気の毒そうな顔をしてユウヒの方を見つめる。
 ユウヒはお茶を一口啜ると、また一つ、大きな溜息を吐いた。
 執務室の扉をどんどんと二回叩く音がして、返事を待たずに扉が開く。
 女官達は関わらないようにとばかりに控えの間に消え、サクは訪問者を同情を込めた瞳で見つめて迎え入れた。

「毎度ご苦労様です、ロダ殿」
「これはこれは……サク殿。何度も言うように、もう私を殿など付けてお呼びになりますな。無位無官の、ただの爺ですぞ」
「そう仰られてもこればっかりは」

 そう答えたサクにロダは丁寧に拝礼し、恐縮した様子で顔を歪めた。

「おそらく今この城で一番大変なのはロダ殿ですよ。息抜きと称しては逃げ出してくる、こんな困った態度の人間の教育係をなさっておいでなのですから」

 サクが同情たっぷりの声でロダに言う。
 ロダは小さく笑い、そしてまるで他人事のように目を逸らし続けるユウヒの方を見た。

「姫様、ほら。戻りましょうぞ」
「だったらまずその呼び方をどうにかして、ロダ」
「はて、何の事ですかな」
「はて、じゃないわよ、もう」

 ユウヒはそう言いながら、まだ椅子から立とうとせずにお茶を啜っている。
 ロダもどうやらそれは承知のようで、まるで孫でも見るような温かい眼差しでユウヒの事を見つめている。
 サクは噴出しそうになるのを堪えながら、自分の仕事を続けた。

「確かに息抜きも大切。ですが、あまり時間もないのですぞ? こう何度も逃げ出されては……」
「わかってるけど、そう一気に詰め込まれてもね、追いつかないのよ。何ていうかこう……そう、自分の中にすとんと落っこちてこないの。だからちょこちょここうやって咀嚼する時間が必要なの」

 ユウヒが言い返すが、ロダも慣れたものでさらりとそれを聞き流している。
 ロダにもそれはわかっているのだ。
 わかった上で、少し時間をおいてユウヒを迎えに来ているのだ。
 ユウヒもそれを承知で、逃げも隠れもせずに必ずこの部屋でロダを待っている。
 そう、これはお決まりのやりとりなのである。

「これ飲んだら戻るわ」
「承知致しました。では、先に戻って準備をしてお待ちしております」
「わかった」
「なるべくお早めに頼みますぞ、姫様」
「わかってるよ、ロダ。ってか姫様はやめて」

 ユウヒの返事をするりと聞き流し、ロダは再びサクに向かって、次にユウヒに向かって拝礼すると、そのまま静かに部屋を出て行った。
 来る時とは違って足音は全く聞こえない、静かなものである。

「まったく。なんだかんだ言って、息ぴったりじゃないか」

 書類をとんとんと揃えながら、サクがユウヒを見てくつくつと笑って言った。

「ロダが大人なんだよ。私みたいなのにとことん付き合ってくれてさ。たぶんいっぱい我慢もしてるんじゃないのかなぁ。とか思ったって、やっぱり私にはこういう風にしかできないんだけどさ」

 ユウヒは苦笑しながらサクにそう返した。

「まぁ……ロダ殿にとっては恩返しか何かのつもりなんだろうよ。さっきも言ってたけど、今あの人、本当に無位無官なんだろう?」
「うん、まぁね。その必要はないって言ったんだけど、周りへの体裁だとかいろいろ。それもわからなくはないからこっちも呑むしかなかったんだけど」
「そりゃそうだろう。死罪になってもおかしくないところを投獄されもせず、それどころかまさかの大抜擢だろう? 他の長老方だって、無罪放免にしたらしいじゃないか。よくもまぁそれで他の連中から物言いがつかないもんだよ。いったいどんな手を使ったんだか……」

 呆れたようにサクはそう言っているが、別にその事を責めている風でもない。
 どちらかと言えば心配そうに、ユウヒの事を見つめていた。
 ユウヒは何か考え込むように少し難しい顔をしていたが、サクの視線に気付いて力なく笑った。

「……それが良かったのかどうか、私だって思うところはいろいろあるよ。でもあの人達にも納得してもらえるような人間にならなきゃって思ったし、何より私自身足りないものがありすぎて……何より時間もなさすぎて、ね。こうするのが一番手っ取り早いかなって思ったんだよ。何もかも、自分の思ってることを集まった人達に洗いざらい話したら、最後にはこういう事になってた」
「そうだったな」
「落ち着くところに落ち着いたって、そう思いたい」
「うん」
「そのためには私がそれだけのモンになってさ、全ての判断が間違いじゃなかったんだって、周りに納得してもらうしかないでしょ」
「だな。そうわかってんだったら、お前そろそろロダ殿のところに戻れ」

 ユウヒはその言葉を受けて小さく頷くと、おもむろに立ち上がった。
 そして甘い香りのする焼き菓子を皿に敷いてあった紙で無造作に包んで懐に収め、お茶の残りを一息に飲み干した。

「ごちそうさま。お菓子、ありがとう。これはあっちでゆっくりいただくね」

 奥から顔を出している女官達にそう声をかける。
 ユウヒは大きく伸びをしてからサクに向かって言った。

「そっちの方が大変でしょう? 悪いね、いろいろ」
「あぁ? あ、まぁ……ね、そりゃ確かに大変は大変だけど。でもこっちはお前が気にすることじゃないよ」
「うん、わかってる」
「じゃぁ早く行け」

 ユウヒは扉の方へと足を向けたが、すぐに立ち止まって言った。

「うん……ねぇ、サクヤ」
「ん? どうした? まだ何かあったか?」

 不安そうに自分を見るユウヒに、サクは首を傾げた。

「うん。あの、さ……サクヤ。私が蒼月に、王様になったらさ。サクヤは……」

 そのことか、とばかりにサクが小さく笑みをこぼす。

「……大丈夫だよ。もうグダグダ言ったりしないから」

 ユウヒの言葉を最後まで聞かずにサクが答える。

「俺が朔をやってやる。こっちの持分はちゃんと背負ってやるから。だからお前はお前の場所で頑張ればいいよ、ユウヒ」

 それを聞いたユウヒが何か言いたげに顔を歪めたが、サクはそれを遮るように言葉を続けた。

「あんまり焦るな、ユウヒ。生まれた時から王になるべく育てられたルゥーンのヨシュナ陛下みたいな方とは違って、お前はここからなんだから。急がなくていいよ、やる事は多いけどそっちはちゃんと引き受けるから。お前はさ、それでもお前に付いていこうって思ってくれてる連中のために、天辺でどーんと構えてくれてりゃそれでいい」
「サクヤ……」
「あんまり頑張りすぎるな、ユウヒ。お前はちゃんとやってるよ、大丈夫だから」

 サクがそう言うと、ユウヒは黙って頷いて、そのままその部屋を出て行った。
 サクはしばらくユウヒの出て行った扉を見つめていたが、小さく溜息を吐いた後、まるで何か言いたげな女官達の視線から逃れようとでもしているかのように、また自分の仕事へと戻った。