越境


「さて……動くかな?」

 月華をそのまま帯剣し、歩き出したシュウが楽しげにそう言って砦の方を見つめる。
 明らかにその顔は少し前までのシュウとは違う、武人の顔をしていた。

「どういう意味ですか?」

 不思議に思ってユウヒが聞くと、シュウは視線だけで砦の方を示して言った。

「こんなに国境に近い場所で剣を抜いてる馬鹿がいるんだ。こんなあからさまにやったというのに、もしも動かなかったら? あいつら、駄目だろ」
「あぁ、そういうことですか。そういや私、何も考えないで光を反射させたりしちゃったな」
「それでいいんだよ。さて、行くか」

 シュウは何だか楽しんでいるようにも見える。
 月華を腰にぴたりと固定し、先を歩き出したシュウの後ろをユウヒは少し遅れてついていった。

 前を行くシュウの注意が城砦の方に注がれているのが何となくわかる。
 だがユウヒはそれどころではなかった。
 自分でも滑稽な程に体の震えが止まらない。
 平静を保とうにも、ゆっくりと拡がる波紋が思っている以上にユウヒの心を揺さぶっている。
 涙はどうにかこらえた。
 だが脈は速く、吐く息すらも小刻みに震えている。

 ――ヒリュウ?

 禁軍の将軍まで勤めた男が、こうも動揺しているのはあの月華を目にしてからだ。
 ヒリュウの心の揺れをユウヒが共有することはこれまでもあった。
 だが今回はヒリュウ自身はもうユウヒの心の奥深くで閉じてしまった状態にあるのに、その余韻のようなものがユウヒを揺さぶり続けて止まない。
 月華というものに、おそら懐古の念以上の何かがあるのは間違いないだろう。

 ヒリュウに問いかけるのは容易い。
 だがなぜかそこは触れてはならない気がしたユウヒは、自分のものではないその感情を持て余しながら、何とか落ち着こうと深い呼吸を何度も繰り返すしかなかった。

「おぉ、来たな」

 シュウの言葉にユウヒが顔を上げる。
 前方の城砦の方から、二頭の騎獣がユウヒ達の方へと近付いてきていた。

「シュウ、あれは?」
「ん? 問題ない。ちょっと話をしてくるから、お前はここにいなさい」

 シュウはそう言って、ユウヒの返事を待たずに前方の道を塞ぐように降り立った騎獣達の前へと歩み出た。

「止まれ!」

 騎獣から降りた武官が、並んでシュウの前に立った。
 そのうち一人はいつでも抜刀できるよう剣に手をかけたままで構えている。
 シュウはその二人の前に立つと、順に一人ずつ視線を走らせる。
 不審人物として扱われているにも関わらず怖気づくでもないその様子に、武官の顔が訝しげに歪む。
 それを見たシュウは、おもむろに口を開いた。

「警備の者か? わざわざの出迎えご苦労。で、何も異常はないか?」
「はぁ? 貴様、何を言っておるのだ!?」

 腹立たしげに言い返した武官に、剣を構えた武官が驚いたように歩み寄って耳打ちした。
 どうやらそちらの武官は、シュウの腰にある月華に気付いたらしい。
 ユウヒは後方で、ことのなりゆきを見守っていた。

「あ、あの……禁軍将軍、シュウ殿とお見受けしますが……」

 先ほどの威勢が嘘のような力のない声に、ユウヒは思わず噴出しそうになる。
 シュウは落ち着いたもので、圧倒的な格の違いを見せ付けるかのように余裕があった。

「いかにも。身許はこの月華が保証する。で、何か動きはあったのか?」

 何でもないこの言葉も、禁軍将軍の口から出ると辺境の地の下っ端武官には堪えるらしい。
 まるで悪さしているところを見つかった子どものようにびくついている。
 シュウは苦笑しながら言った。

「普通に話してくれればいい。別に取って食やぁしない。それに俺は今休暇中だ」

 穏やかな口調に警備兵二人は顔を見合わせて安堵の表情を浮かべる。

「は、はいっ! あの…っ、異常ありません。事前に連絡は入っておりましたが、罪人奪還などという動きは、白州内のどこでも確認されておりません」
「そう、か……わかった。引き続き警備の方を頼んだぞ。私はここを抜け、ルゥーンまで罪人を護送したらまた戻る」
「承知いたしました。どうかお気を付けて!」

 警備兵二人は現れた時の態度が嘘のように姿勢を正し敬礼した後、踵を返してそのまま騎獣に乗り、また城砦の方に戻っていった。