越境


「さっきの関塞が国境に一番近いんだ。物見遊山でここまで来たわけじゃないからな。白州内を横断するのも今のこの状態じゃきついだろうし……」
「気を使ってもらってすみません」
「あぁ……いや、そういうつもりで言ったんじゃないよ」

 近付くに連れてその物々しさが伝わってくる。
 その城砦を見ただけで、何度も繰り返されたという戦いの歴史を知ることができた。
 文字通りここが、この町自体が最後の砦となっていたのだろう。

「何だかすごいですね、ここ」

 ユウヒが思わずこぼすと、シュウは目の前の城砦を見上げて言った。

「すごいと思って思わず引いてしまうのは、今が平和だからだろう。これなら安心だ、これではまだ手ぬるいと、これを見て思ってた時代だってあったんだろうからな」

 シュウの言葉はユウヒの胸にまっすぐに飛び込んできた。

 改めて見上げる城砦にユウヒの手が震える。
 ユウヒがまだユウヒではなかった頃、同じようにこの聳える壁のような城砦を見上げたと「記憶」が、何も知らないはずのユウヒの心をかき乱す。
 悟られないように、シュウに気付かれないように、震えの止まらない手をユウヒはぎゅっと握り締めた。

「さて、ここを抜けるにはさっきよりもちょっと手間がかかるぞ」

 そう言ってシュウは、騎獣の背に括り付けてあった細長い包みを手にとり、覆っていた布を豪快に取り去った。
 風を孕んではたはたと音を立てた布が風に靡く。

「ぁ、それは……っ」

 包みの中から出てきたそれに、思わずユウヒは息を呑み、そのまま釘付けになった。

「月華……」

 ぼそっとつぶやいたユウヒの言葉を、シュウは聞き逃さなかった。

「なんだ、この剣の事知ってるのか?」

 驚いたように言うシュウに、どう言葉を返すかユウヒは思案した。

 月華、その意味は月光……――。

 それは王より下賜される宝剣、その時の禁軍将軍だけが持つ事を許される、唯一無二の剣にして「王の軍の長」である事の証である。
 月の名をもつ王を戴くこの国において、月光は王の力、権威の象徴。
 月の光の名を持つその剣を振るう事は、王の名において力を行使することを意味し、それは忠誠の印でもある。

 話に聞いた事がある者はいても、実際にそれとわかった上で目にした者は少ない。
 それをユウヒは一目見ただけでその剣が月華である事を見抜いたのだ。
 シュウが驚くのも無理からぬ事だった。
 だがそれを月華だとすぐに見抜いたのは、正確にはユウヒではない。
 かつてその剣を手にしたことのある人物、元禁軍将軍ヒリュウ、その人だった。
 見間違えるはずなど、ありはしなかった。

「いえ、その……どうやってシュウの身分を証明するのかなぁ、なんて思っていたから。すぐにわかるようにしておくみたいな事は言っていたでしょ? その……月華の事は昔どこかでその説明を見たことがあるの。王様から賜る禁軍将軍の剣、よね?」

 我ながら言い訳臭いと自嘲するように笑うユウヒと、その中で一瞬の昂りを抑え込んでまたその宿主の意識の奥深くに沈んでいくヒリュウ。
 歩みを止めたシュウはやはり何か思うところがあったようで、その顔に笑みはなかったがそれでもその国の宝と言ってもいい剣をユウヒの方に無造作に差し出した。

「いかにも。月華だ。いいぞ、手に取って見てみるといい」
「はい、ありがとうございます」

 ユウヒは足を止め、騎獣に少し待つようにと声をかけると、シュウの方に歩み寄り、その両の手でもって月華を受け取った。
 その重さは、その剣を持つことの責任と覚悟の大きさに比例すると言われる月華。
 ずしりと確かに感じるのは、その剣の経てきた歴史の重み。
 それと知らなければ妖刀かと見紛うような月華の「気」が、剣に触れている部分からからみつくようにユウヒに流れ込んでくる。
 その「気」に共鳴するかのように、ヒリュウの心の揺れがユウヒをも揺らす。
 いくらヒリュウの意識がユウヒの奥深くに沈んで行ったと言っても、一滴の水を落とした水面のように、その波紋はユウヒの心の中心から、どんどん周りへと拡がっていく。
 ヒリュウから感じるその思いをまともにくらったユウヒは、剣を受け取った後、しばらく動けなくなってしまった。

「おい、どうした? お前なら大丈夫だろうと思ったんだが……きついか?」

 その様子を見て、月華の持つ「気」にユウヒが中てられてしまったのだと判断したシュウが慌てて取り上げようと歩み寄ると、そんな心配をよそにユウヒはあっさりと月華を抜いた。
 そのあまりの呆気なさに、シュウは思わず苦笑する。

「なんだよ、大丈夫なのか!?」
「……はい。大丈夫です」

 拍子抜けするほどにユウヒは大丈夫だった。
 それでも万が一のためか心配そうに見守るシュウの視線を感じながら、ユウヒは手にした月華をまじまじと見つめた。
 柄や鍔の細工、組紐、彫金が見事な鞘。
 どれをとってもかつて知る懐かしいそれに間違いなかった。
 女のユウヒの手にはやや余る太い柄なのに、初めて手にしたそれはやけに手に馴染んでくる。

 ――まずい、泣きそうだ……。

 その妙にむず痒いような感覚に、ユウヒは慌てて剣を鞘に納め、月華をシュウに返した。

「もういいのか」
「はい。ありがとうございます」

 礼を言って、それでもまだ名残惜しそうに剣を見つめるユウヒに、シュウは嬉しそうに笑った。