その声はユウヒのものではなかった。
女の声ですらなかった。
驚いたジンが立ち上がった勢いで、座っていた椅子が倒れた。
仕込み刀を手に、すぐさまユウヒとの間合いをとる。
「貴様…何者だ?」
それまでとはまるで違った、殺気立った緊張感がジンを包み込む。
だがユウヒは驚くどころかいつもよりも落ち着いた様子で、さらに言葉を継いだ。
「驚かせてしまったようで申し訳ない。私は昔、この国で禁軍将軍を務めていた者でヒリュウといいます。と言っても、もう鬼籍に入って久しく……未練たらしく魂だけが、こちらに引っかかっている有様です」
そう言ってばつが悪そうに頭を掻く仕草も、ジンの知っているユウヒではなかった。
一般の人間に比べて、おそらくジンは相当に多くの奇異な経験をしている。
だがそのジンをもってしても、ユウヒの変貌には言葉を失っていた。
ただ構えていた仕込み刀は、いつまた仕舞いこんだのか、もうその手にはなかった。
ジンが何か掴もうとするかのようにじっと見つめている様を見て、ユウヒの中のヒリュウは再び口を開いた。
「この者は、ユウヒは黄龍を解放しようとしている。それはユウヒの意志だ。だが、私は昔、黄龍と約束したのだ。必ず、どれだけの時を隔てても必ず迎えに行くと。約束を果たしに戻ると、黄龍に。頼む、力を貸して欲しい」
そう言ってユウヒの姿をしたその男はジンに頭を下げた。
ジンは何かをしきりに考えていたようだったが、やがて諦めたように盛大に溜息を吐いて、また椅子に腰を下ろした。
「まったく。こいつといると本当に調子の狂う事ばっかりだ……」
やれやれといった風にジンがこぼすと、ヒリュウが思わず苦笑した。
「……なんだよ?」
ジンが訊ねると、ヒリュウは笑ってしまった事を小さく詫びてから言った。
「漆黒の翼の筆頭というものは、同じような人間が勤めるものなのだなと……私達の時代の筆頭に、雰囲気がとてもよく似ている」
それを聞いたジンは、居心地が悪そうに頭を掻いて、そのままでヒリュウに言った。
「しかし、なんだ。なぜそいつなんだ? 普通に考えて、同じ土使いであるスマルに入った方が良さそうなもんだろう? そりゃまぁ…野郎の中にいるよりはそんなんでも女の中にいた方がいいような気がすんのは同じ男としてわからんでもないが」
ジンの言葉に、ヒリュウが思わず噴出した。
何か言葉を継ごうとしているようだが、その度に笑いがこみ上げてくるらしい。
だがそれでも何かを言おうと試み、口を押さえ、腹を押さえて縮こまっている。
ジンは不思議そうにヒリュウを見つめていたが、あまりの挙動不審さについには声をかけた。
「お、おい…お前。大丈夫か?」
「へっ!? あぁ、はい……だっ、だぁっ、だ、大丈夫、です……っ」
「……とても、大丈夫ってかんじじゃねぇけどなぁ」
おかしなものでも見ているような顔で、ジンは卓に頬杖をついた。
爆笑を堪えているような、妙な動きが収まると、ヒリュウはやっと口を開いた。
「いや、さっきの発言。あれのせいで……おかげで私までなんだかひどく肩身の狭い思いをさせられてます。ユウヒ、ものすごく怒ってますよ」
「へぇ、そうか。ま、お前が表に出てるんなら、俺に害はなさそうだな」
「しっかり抑えておくことにします」
「話のわかる将軍で良かった。さて、わざわざ出てきたんだ。そっちの話、聞かせてもらおうか」
ジンに窺う様にヒリュウを見ると、またユウヒとは違う仕草で頷いて、ヒリュウは口を開いた。
「では、この形にこの声では気持ち悪いでしょうがお話いたしましょう。まず先ほどの問いですが、この国において、男であっては絶対に成しえないことが一つ、ありますよね?」
「ん? あぁ、蒼月か。お前…ヒリュウと言ったか。時間がねぇんだよ。まわりくどい言い方もいいから、遠慮せずにさっさと話せ」
そう言われたヒリュウは、少し困ったような顔をしてから言った。
「私は昔、どうにも立ち行かなくなったこの国を立て直すという大義名分でもって、我が君、王陛下をこの手で討ちました。何をおいても王をお護りするという職にありながら、さらには共に国を支えていく土使いでありながらも、この国の理を自ら破ったのです」
「あぁ。まぁ、あんたがどういう人間か知っているわけじゃねぇが……そうする以外に道はなかったわけだろう? 結果的にその後のクジャが持ち直して栄えてきてんだから、あながちその判断も間違っちゃいなかったんじゃねぇの?」
「そう思っています。でも、そうであって欲しいと、ただ自分が思いたいだけなのかも……いや、そういう話はいい。黄龍の話をしましょう。黄龍を封じたのは我々の時代よりももっと昔、四神達の手によると聞いています」
そうしてヒリュウは自分達の時代に聞いていた黄龍についての話を中心に、さらには自分達が何をしたのか、どうしたかったのかを簡単に説明した。
時に頷きながら、ジンは黙ってそれを聞いていた。
ユウヒの姿のままで、その口から男の声で吐き出される言葉に、耳を傾けている自分が不思議でならなかった。
普通に考えれば、ユウヒが何者かに操られていると判断した方が自然であるのにも関わらず、ジンはユウヒと、その中にいるというヒリュウという男の話が真実であると何の根拠もなく信じてしまっている。
こんな事ではいけないと思いながらも、ジンは黙ってヒリュウの話を聞いていた。
そんなジンの心の揺れに気付いたのか、ユウヒの口からこぼれるヒリュウの言葉がぴたりと止まった。