春省にて


 その夜、思いがけず意気投合したスマルと酒を飲んで盛り上がった。
 いろいろな話をしたが、その中でもなぜか印象に残ったのがそれだった。

 ――魂の記憶、か。

 その時は世間話程度のつもりで口にした言葉だったが、あれからユウヒとたくさんの話をして、今ではあの時のユウヒの不可解な様子は全て、本当にそういったもののせいだったのではないかとサクは思い始めていた。

 サクは呪術や超常現象などについて何でも信じ込むような事はなかったが、かと言って頑固なまでの現実主義というわけでもなく、納得するしないは別とすれば、いろいろと説明のつかないような現象や出来事もあるのではないかと認められるくらいの柔軟な考えは持ち合わせていた。

 わかっている限りで最後の土使いヒリュウの魂がユウヒの中には存在しているのだという。
 自分に経験がない以上、それが本当なのかどうかはわかるはずもないが、そういう事があっても別にいいのではないか、くらいには思っていた。
 そしてなぜか、そのヒリュウという昔の禁軍将軍の話を聞いてからというもの、どうも『何か』が引っかかって仕方がないのだ。

 だがサクにはそれが何なのかがまったくわからなかった。
 ユウヒをルゥーンに送ったことは間違っているとは思っていないし、おそらく剣を届けると言っていたスマルもそれについていくだろうと予想していた。
 護衛という面においても、スマルが一緒に行くのであれば問題ない。
 罪人の国外追放と言っても、結局のところ城の人間達は面倒に関わりたくないというのが本音だろうとサクは見ていたため、スマルがユウヒについていったところで、物好きと思われる事こそあれ、王に対する反逆だなどという者はおそらくいないだろうと考えていた。
 ましてやスマルとユウヒは真偽の程はともかく恋仲と噂されていた二人だ。
 仲良く逃避行くらいに思われてくれればありがたいとすら思っていたのだ。

 だが『何か』が引っかかる、それがサクにはわからない。
 ここまでの判断は間違っていないはずだった。
 となると見落としでもどこかにあるということなのだろうか。

 城の者達との会話、漆黒の翼から入ってくる情報、スマルの話や自分が今まで目にしてきたもの、そして、常闇の間でのユウヒとの時間。
 その全てを何度も何度も反芻しては、選択は間違っていないと確認する。

 やはり、わからない。
 ならばここは少しずつでも前に進んだ方がいいだろう。
 見上げた天井に向かい大きな溜息を吐くと、サクはおもむろに立ち上がった。

「お茶、ありがとう。奥の間にそのままにしてきてしまった、すまないが片付けを頼む。春大臣に呼ばれているんだ。これから青龍殿に行ってくる。片付けが済んだら、今日はもうあがっていいよ」

 サクが声をかけると、わらわらと顔を出した女官達が丁寧に拝礼した。
 小さく頷いてその前を通り過ぎたサクは、扉の前で立ち止まると思いだしたように言った。

「ショウエイ殿について、何か思い出したことがあったら明日聞かせてくれ。じゃ、行ってくるよ」
「はい、行ってらっしゃいませ」

 その声を背中で聞いたサクは、振り返ることなく執務室を出て青龍殿へと足を向けた。
 執務室のある棟を出ると、無言のままのサクは長い回廊をやや俯き加減で歩いていく。
 春省のある青龍殿に着くと、サクはそのまま大臣であるショウエイの執務室へと急いだ。

 もう執務時間はとうに過ぎているとはいえ、即位式を目前に控えたこの忙しい時期にほとんど人影がないというのは何とも笑えない状況である。
 思わず苦笑しそうになるのを抑えてサクは歩き、大臣の執務室の前に立った。
 その扉を二回ほど叩き、サクは中に向かって声をかけた。

「春大臣。サクでございます」
「あぁ、もう半刻経ったんですね。入りなさい」

 少しおいて、サクは返事をして扉を開けた。

「失礼します」

 丁寧に拝礼してから入室する。
 ショウエイはすでに髪をおろし、官服を少しだけ着崩した楽ないでたちでサクを待っていた。
 着崩してはいるものの、だらしないどころか妙に艶っぽさが足されて、その整った顔とあいまって同性のサクですら見惚れるほどに様になっている。
 後ろで簡単にまとめただけの髪もその姿によく似合っていて、頬の横に垂れた後れ毛が振り向きざまに肩にかかってぱさりと落ちた。
 部屋に入った途端にサクが、ショウエイの姿を見てふと言葉に詰まる。
 ショウエイは何事かと首を傾げたが、やがて着崩すことなくきちんと官服を着ているサクに気付いて、その顔に妖艶な笑みを浮かべる。

「あぁ、そうか。まだ仕事中でしたね。私はね、サク。実はいつも正規の執務時間が終わったらこうなんです。きちっと装うのも、髪を上げるのも嫌いではないんですが」

 そう言って立ち上がり、着衣を直そうとする様を見たサクは、すかさず歩み寄ってショウエイの腕をつかんで言った。

「どうかそのままで、お気遣いは無用です。私にはとても真似できそうにありませんが、よくお似合いですし。女官達が見たら大騒ぎでしょう」

 とてもお世辞を言える柄ではないサクの言葉に、ショウエイの双眸が驚きで少し瞠られる。
 サクはつかんだ腕を離して一歩下がると、いきなり腕を掴んだ事を詫びるように小さく頭をさげ、そして自分の官服の襟元を少し寛げた。

「私も官服は嫌いではありませんが、襟元をかっちりと絞めるこの詰襟だけには閉口いたします」

 本当に嫌そうに襟を開いたサクに、ショウエイは小さく笑った。

「ありがとう。じゃ、このままでいさせてもらうよ」

 官服のその着崩した着こなしのせいか、ショウエイの所作はどれをとってもいつもよりおそろしく優雅に見える。

 こちらへと促されるままに、サクはそのショウエイの後をついていった。