懐かしい匂い


 波の音がずいぶん遠くなってきた。
 店の喧騒が聞こえてくる位置まできた時、ジンがふとその足を止めた。
 なにごとかとシュウが顔を上げると、ジンが何かのついでのような言い方でシュウに訊ねた。

「そういや…スマルはどうした?」

 いきなりの問いだったが、シュウはすぐに答えを返した。

「俺の遣いで今ホムラ郷に戻ってます。ユウヒの剣をヒヅ刀にするってんで、今頃必死になって作業してんじゃないですかね」
「ユウヒとは一緒に行かないのか?」
「ご自分は何も言わないのに、俺にはまたいろいろ聞くんですね」

 シュウが切り返したが、ジンは何も言わずに黙ったままだった。
 少しの沈黙を挿み、シュウは溜息混じりに返事をした。

「ルゥーンとの国境に剣を持ってくるように言ってはありますが間に合うかどうか…ユウヒに同行する否かはあいつ次第で…俺は別にどっちでもかまわないと思っているし…あぁ、でも女一人よりもスマルも一緒の方がいいんじゃないかって気もしますね」

 ジンが自分の言葉に耳を傾けているのを確認して、シュウはそのまま言葉を継いだ。

「異国に、しかも砂漠に女一人では、いくら何でも心細いでしょう。ユウヒはもう…あの力は使わないと言っていますから」

 シュウはそう言ってジンの反応をじっと観察した。
 そんなシュウの様子を知ってか知らずか、ジンはまるで興味なさそうに白い煙をゆっくりと吐き出すと、振り向きもせずに一言だけ言った。

「…何の話だ?」

 そしてジンはゆっくりと歩き出し、先に店の中に入っていった。
 その姿を目で追っていたシュウは、また一つ溜息を吐いて独りこぼした。

「はぁ…疑問が増えただけで収穫無しか。まったく…揃いも揃ってわけのわからん連中だ」

 少し大股で店の入り口まで行き扉を開くと、すでに身内だけとなった店内で、ユウヒと自分の部下達が大いに盛り上がっていた。
 聞きたいことは何も聞けていないようではあったが、皆、楽しげに騒いでいる。
 シュウは笑みを浮かべてその輪の中に加わった。

「シュウ! どこ行ってたの? もう、その…いいの?」

 ユウヒがそう話しかけてシュウに酒の入った大きな茶碗を渡すと、それを受け取ったシュウがにやりと笑って頷いた。
 それに応えるようにユウヒもにこっと笑って、二人はこつんと音を立てて乾杯し、茶碗の酒を一気に飲み干した。
 その様子に周りの禁軍兵士達がわっと歓声を上げる。
 互いに酒を注ぎあいながら、シュウを中心に談笑し始めると、ユウヒはその席をすぅっと抜け出し調理場へと向かった。
 何をするわけでもなく作業台によりかかり、ジンはぼんやりと煙草の煙を燻らせていた。

「ジン…」

 ユウヒはゆっくりとジンに近付いていった。

「ん?」

 ユウヒの様子を窺うようにジンが微かに小首を傾げると、ユウヒはジンのすぐ隣に並んだ。

「…なんだよ。連中、まだ店にいるんだろう?」
「うん…」

 少し表情が曇っているユウヒを横目で窺いながら、ジンは天井に向かって白い煙を吐き出した。

「妙な真似はしてねぇよ、馬鹿。お前の言うとおり、あいつは頭がいい。俺が変な気を回す必要なんざぁなかったな」
「ジン…」
「俺は相当に胡散臭ぇ奴だと思われてるようだが、それについても別に突っ込んできやがらねぇ。大丈夫だよ、連れがアレならな」

 ジンはそう言ってユウヒの頭にポンと手を乗せると、髪を掴むようにしてぐいっと引き寄せその顔を覗きこんだ。

「…な、何?」

 突然間近からジンに見つめられ、戸惑ったようにユウヒが言うと、ジンは静かに微かな笑みを浮かべて言った。

「お前な、もうちょっと自分を信じてやれよ。それともうちょっと力を抜け。張り詰めちまう気持ちもわからんでもないが…それじゃ危うい、俺なんかが突いてもすぐに崩れそうだぜ? 無理にでも笑って、気楽にやれよ」

 ジンの言葉にユウヒの顔に朱が入る。
 その顔を驚いたように見つめるジンの胸元に、ユウヒはゆっくりと倒れこんでその身を預けた。

「んー?」

 態度とは裏腹に間の抜けた声をユウヒがあげた。
 ジンはそんなユウヒの事を抱きしめるでもなく、かと言って支えているだけにしてはあまりに優しく肩に手を添え、指にその髪を絡ませながら頭を静かに撫でている。
 銜え煙草の灰がユウヒの髪に落ちやしないかと内心ヒヤヒヤしながらも、ジンはユウヒが落ち着くのを待った。
 しばらくすると、ジンの胸に額を当てて俯いたままのユウヒが小さくぼそりとつぶやいた。

「…ジンの匂いだ」

 その声色を聞いてジンの表情に安堵の色がうっすらと浮かぶ
 ずいぶんと長くなった煙草の灰を、慌てて床にとんと指で弾いて落とすと、それを手にしたまま、抱き寄せたユウヒの頭を軽く叩いて言った。

「俺の? 匂いがわかるほどお前に近付いた覚えなんて…」
「あるよ、一度だけ。あれで私は前に踏み出す勇気をもらったんだよ、ジン」
「んー? あれで、って…あ、あぁ。あれ、か」

 ユウヒが城へと発つ前、自分がした事を思い出したジンは思わず苦笑し、柄にもねぇと頭を掻いた。
 その様子に、俯いたままのユウヒの顔に笑みが浮かんだ。

「それでお前、ここに来たのか?」

 頭の上から聞こえるジンの言葉に、ユウヒは小さく頷いた。

「私、冷たい人間なのかな? 会いたい人って言われた時、ホムラの友達とか家族とか、考えもしなかったんだよね…シュウに言われて、初めてあぁそうかって思ったくらい」

 ジンは黙ってユウヒの言葉に耳を傾けている。
 ユウヒの話はまだ続いた。

「皆の事、好きだよ。大切にも思ってるのに…会っておきたいとか、思いもしなかった。何なんだろうって…」

 そこまで言って、ユウヒが言葉に詰まったとみると、今度はジンが口を開いた。