懐かしい匂い


「何者って…見りゃわかるだろ。酒場の主人だ」

 やはりそう来たかとシュウは苦笑して、それでもすぐに言葉を返した。

「こんな状況下で、ユウヒは家族よりも誰よりも、ただの酒場の主人に会いたいと言った…って事ですか?」
「そういう事だろ? あいつは馬鹿だからな」

 どこか愉快そうにそう口にするジンに、シュウはまだ食い下がった。

「さっき調理場で、あなたは俺がいる事に気付きましたね。あの時俺は完全に気配を消していたはずなのに。まさか気付かれるとは思ってませんでしたよ…それでもただの酒場の主人だって言うんですか?」

 そう言ってジンの反応を見るが、困った様子もなく、何を考えているのか全く読めない。
 さらにジンを問い詰めるべく、シュウは口を開いた。

「最後にユウヒが会いたいと言うくらいだ。それ相応に親しい仲だろうに国外追放と知っていても心配そうな様子すらない。何か考えがあっての事ではないかと思いたくもなるでしょう? そこへさっきのあれだ…それでもただの酒場の主人だと?」
「どんな答えを期待してるんだか知らんが、俺はただの酒場の主人だ。あぁ、まぁ…そうだな。強いていうならものすごく勘が冴えてる酒場の主人、かな?」

 シュウはジンのその言葉に思わず噴出した。

「…何だよ、そりゃ」

 笑いを噛み殺してシュウがそう言うと、ジンは溜息混じりに言った。

「お前もうちにユウヒが居座るようになった経緯は知ってるだろう? あれで変なところで妙に律儀な女だ、拾ってくれた恩とか何とか、柄にもねぇ事でも思い出したんだろう。だからうちに来たんだろうよ。お前がいったい何を聞き出したいのか知らねぇが、俺を叩いたって埃しか出てこねぇよ。将軍様?」

 ジンの言葉に首の後ろに手をやりながらシュウが口を開く。

「そうですかねぇ。こういう勘にはけっこう自信がある方なんですけどね、これでも」

 それを聞いたジンはもう短くなった煙草を指で摘まむようにして持ち、煙を吐きながら小さく咳をして言った。

「…自信をなくすことはねぇ。俺にとっちゃ不本意だが…あいつを連れて来てくれた礼に、少し言い方を変えてやるよ。いくら叩いても俺は埃しか出さねぇ、これなら納得か?」

 ジンのこの言葉には、さすがにシュウもその表情に驚きの色がうっすらと浮かんだ。
 シュウの様子を見たジンは自嘲するように苦笑すると、ジンはシュウに向かって言った。

「まぁ、ものすごく勘の鋭い酒場の胡散臭い主人って事だな。さっきも言ったろ?」
「…何だよ、そりゃ」

 シュウはまたそう言って、困ったように頭を掻いた。

「あなたの方が一枚も二枚も上っていうこと、ですかね。それで、わざわざ俺を店の外にまで引っ張りだした理由は、教えてもらえないんですか?」

 シュウがそう続けると、ジンは少し考えるような素振りを見せてから口を開いた。

「なんだ? 俺から何か聞きだすのはもう諦めたのか?」
「無理そうだし、聞いたところで今の俺にどうこうできるようなことは何もなさそうですしね」
「…そんなんでよく禁軍の将軍なんてやってるな、あんた」
「ユウヒには、頭がいいって言ってもらえましたけどね」
「へぇ…それはそれは」

 ジンはそう言って愉快そうに微かな笑みを浮かべ、そのまま続けてシュウに言った。

「ルゥーンまで、あいつをよろしく頼む」
「えっ!?」

 何を言い出すのか、何を切り出されるのかと内心構えていたシュウは、思いもしなかったジンの言葉に不意を衝かれたように言葉を失った。
 ジンの薄笑いの顔がまっすぐにシュウを見つめている。
 シュウは戸惑ったように聞き返した。

「それだけ…ですか?」
「ん〜、まぁ…いろいろ聞きたい事はあったんだが、ユウヒがお前さんの事を頭がいいと言ったんだろう? なら…それで十分だ」
「はぁ…え? 俺には話が見えませんが」
「まぁ、気にするな。正直、俺は国境いにつく前にあいつは始末されるんじゃないかと勘繰ったりもしてたんだ。そこいら辺りからいろいろ聞いてみようかと思っていたんだが…お前が馬鹿じゃないとわかった以上、もう特に俺の用事はなくなっちまったわけだ」

 ジンがそう言うと、シュウが首を傾げて言葉を返した。

「ずいぶんと俺の事を買い被られておられるようだが…どうしてそう言い切れるんです? こういったかたちで話をするのも初めての相手を、そう簡単に信用なんて…」
「だってお前、頭いいんだろう? ユウヒがそう言ったって、お前さっき言ったよな。あいつの人を見る目は確かだ。だからだよ」

 座っている岩に煙草を押しつけて火を消すと、ジンはまた新しい煙草に火を点けて言った。

「城の爺さん達にどう言われてるんだか知らないが、お前は無事にユウヒを国境いまで送り届ける…だろ?」

 シュウの反応を伺うように、じぃっと見つめながらにやにやと笑っているジンを見て、シュウは背筋がぞくりとした。
 力量を測りかねるような、得体の知れない敵と対峙した時に感じる、あの恐怖や焦燥の入り混じった緊張感。
 それとよく似た感覚だった。
 シュウは諦めたように溜息を一つ吐くと、搾り出すように言った。

「まったく…嫌な人だ。腹の中まで見透かされてるようで、どうにも居心地が悪い」
「ほぅ? そりゃ褒め言葉か?」
「どうとでも…」

 茶化すようなジンの言葉に、シュウは適当な返事をして視線を逸らした。

「ユウヒは、俺がルゥーンとの国境まで無事に送り届けますよ。その後は知りませんがね」

 シュウが言うと、ジンは立ち上がって腰を叩きながら店の方に向かって歩き始めた。
 それを追うようにシュウも歩き出すと、前方を行くジンがぼそりと言った。

「それでいい。その先は、あいつ次第だからな」
「よくわかりませんが、まぁ…俺は自分の仕事を責任持って最後までやるだけですよ」

 少し足を早めてジンのすぐ後ろについたシュウが言うと、ジンはただ黙って頷いた。