懐かしい匂い


 その頃シュウは、店の裏手にある厩舎の方へ、ジンを追って歩いていた。
 灯りもなく薄暗い厩舎からはその独特な臭いが潮風に混ざって流れてくる。
 今度は気配を消さないで近付いていったシュウは、中から出てきたジンとばったり鉢合わせた。

「ぁあ?」

 薄暗い中でも怪訝そうな顔をしているのがわかるほど訝しげにジンが言うと、敵意がないことを示すかのように両手を肩の高さまで上げたシュウが軽く頭を下げた。

「俺ですよ、ジンさん。シュウです」
「あぁ、将軍様か。で? なんだよ、こんなところまで追いかけてきて」

 ジンが言うと、シュウは手をおろしてそれに答えた。

「俺はあなたに呼ばれたと思って出てきたんですが…違いましたかね?」
「俺が呼んだって? 何の用事があるっていうんだよ」
「え? いや、ユウヒの事とか、ですかねぇ」
「くだらねぇ…ルゥーンでもどこでも行きゃいいだろうが。あいつは元々風の民なんだし」

 呆れたようにそう言うと、ジンは店の方に歩き出した。

「待って下さいよ。冗談ではなしに、俺を外に引っ張りだしたのはあなたでしょう。何か話があるのではないんですか?」

 そのまま行ってしまうかと思えたが、意外にもジンはその足を止めた。
 何を言い出すのかとシュウが注意をそちらに向けていると、ジンはゆっくりとした動作で煙草に火を点けた。
 風によってその煙が厩舎の方へと運ばれていくのを見たジンは、親指を立ててついてくるようにとシュウに合図する。
 シュウがついていくと、店から少し離れた場所でジンが不意に振り返った。

「ここなら、誰かに聞かれる事もねぇだろ」

 そう言って、不自然に転がっている大きな岩の一つにジンが腰掛ける。

「盗み聞きしようにも、丸見えだからな。俺達も、そんな物好きも…」

 ジンがそう言って笑うと、シュウもすぐ側にあった岩に腰を下ろして口を開いた。

「港を整備した時の残骸ですかね、これ」
「あぁ、あっちこっちごろごろ転がってるぞ。片付けにも来ねぇから、もうずっとこのままだ」
「へぇ、そうですか」

 そう言ってシュウは辺りを見渡した。
 店にいる時よりも波が打ち寄せる音がずいぶんと近くに聞こえる。
 目を懲らすと、砕けて白く泡立つ波打ち際が少し先に見えていた。

「国外追放だってな。スマルから聞いた」

 唐突に話を切り出したのはジンの方だった。

「王を騙ったにしちゃ、これまたずいぶんと寛大な措置じゃねぇか」

 ジンが手にした煙草の火が、暗い景色の中に小さく赤い点となって浮かび上がる。
 吐き出された煙は夜の闇に溶けて消えていった。

「ルゥーンへってことだったが、解放したように見せかけて、そこへ行くまでにお前が手を下すようにって事なのか、将軍様?」

 ジンがそう言ってシュウの様子を窺う。
 暗くてシュウの方からはわかりにくいが、ジンの顔にいつものあの薄笑いが浮かんでいる事はその口調から何となく察することができる。
 シュウはそれを知ってか知らずか、思わず苦笑して口を開いた。

「もしそうだったらどうしますか? この場で、俺の方を始末しますか?」
「なんで俺がそんな事するんだよ、めんどくせぇな。お前は仕事しようとしてるだけだろう? 俺がどうこう言うこっちゃねぇさ」
「ユウヒを助けたいとは思わないんですか? 最期の別れになるからと連れてきたのかもしれないでしょう」

 その言葉を聞いたジンが溜息のように大きく息を吐き出して答える。

「それはねぇと思ってるよ。まぁ俺から話振っといて何だが、こんなわかりきってる事を話してても仕方がないな、お前だってそうだろう? あーやめだやめだ。で、なんでうちの店に来たんだ?」

 正直なところ、シュウはもう少しこの酒場の店主というだけにしてはあまりに胡散臭いジンという男を突いてみたい気分だったが、突いたところですぐに何か出てくるような男ではないと判断したのか、ジンの話に自然と乗ってきた。

「ユウヒが言ったんですよ。一人だけ、会いたい人がいると…それがジンさんだったんですよ」
「へぇ…よりにもよって俺をご指名とはねぇ」
「はい。国外へ出る前にどこか行きたい所はないかと、会っておきたい人はいないかとユウヒに訊ねたんです。正直、ホムラ様も今、故郷のホムラ郷に帰っておいでですし、ユウヒはホムラ郷に行きたいと言うと思っていました。まさかここに来ることになるとは…いや、驚きましたよ」
「そうか」

 照れるでもなく、ジンはそう一言だけ返事をした。

「で、いったいあなたは何者ですか? ジンさん」

 唐突に切り出してきたのはシュウの方からだった。
 その問いにも微塵の動揺も見せず、ジンはめんどくさそうに口を開いた。