懐かしい匂い


「いやぁ、見つかっちゃいましたか」
「しばらく店に顔を出してなかったようだが…なんだ、久々に来たと思ったら立ち聞きか? いい趣味してんな、お前」
「そんなに怒らないで下さいよ。何となく、入り損ねていただけなんですから」

 シュウはそう言いながらジンの前まで来ると、立ち止まって頭を下げた。

「名乗るのは初めてでしたね。私はこの国の禁軍の将軍を勤めさせていただいております、シュウといいます」
「へぇ…只者じゃねぇとは思っていたが、将軍様だったか。で、その将軍様が立ち聞きまでして、俺に何か用か?」
「はい。ユウヒの事で少し」

 ジンが肩越しに振り返りユウヒの様子を窺う。
 ユウヒはシュウが何を言おうとしてきたのかわからず、肩を竦めて首を横に振った。
 ジンはシュウの方に向き直ると怪訝そうに言った。

「ここで話を聞こう。こいつがどうかしたのか?」

 禁軍の将軍が話があると言っても臆するでもなく、ユウヒにその場を離れさせるような素振りも見せないジンの態度を、シュウはずっと見つめていた。
 自分がじっくりと観察されているのはジンも気付いているようだったが、それでも態度を変えるような気配は全く見せていない。
 ユウヒはどうする事もできずに、ただジンの後ろで事の成り行きを見守るしかなかった。
 怯む様子すらも見せないジンに、シュウは思わず顔を歪めてつぶやいた。

「まったく、ユウヒといいあなたといい、どうにも興味深い人間ばかりだ」

 そう言って一息吐くと、見てすぐにそうとわかる愛想笑いをこれ見よがしに浮かべたシュウが口を開いた。

「大した用じゃないんですよ。ただちょっとユウヒが長旅に出ることになりそうなので…世話になったというあなたに挨拶でも、と思って寄らせていただいたのです」
「長旅? そりゃまた…で、どこへ?」

 既に羽根からの情報で事の次第は全て知っているジンだったが、何食わぬ顔でシュウに聞き返す。
 シュウもまた、いろいろと気付いているようにも見えたが、こちらも涼しげな顔のままで答えを返した。

「西国…砂漠の国ルゥーンへ」
「ほぅ、ルゥーンねぇ。長旅で、しかも砂漠に行くってぇわりには、こいつの荷物は随分と…」

 ルゥーンへ行くとなったらそれなりの準備もいる。
 ジンの言葉はもっともで、それにはシュウも頷いて言った。

「えぇ、まだ十分ではありません。こちらで用意できるものは用意させますが…明日、一日でユウヒの方でもそのへん、どうにかしてもらえるとこちらとしても助かるんですが。で、彼女を二晩ほどこちらに泊めてはもらえませんかね?」

 シュウの言葉にユウヒはまたしても驚いた。
 やはり何をどう考えても自分の待遇はおかしい。
 ただそれをジンにここで伝えてしまっては、シュウがいったいその言葉をどう受け取るかもわからない。
 目の前に立つジンの背中を見つめながら、ユウヒはどうしたものかと困り果てていた。

「あぁ、そんな事こっちはいっこうにかまわねぇが…」
「そうですか。良かった。では話はこれで…あと今日はこの後ユウヒは店に?」
「出すつもりはないが…なんだ?」
「いえ、そんな事情ですので、馴染みの…まぁうちの部下達なんですが、ユウヒを見送ると言いますか、別れの一つも言いたいとこちらの店に来ているのです。少しでも話ができるとありがたいのですが…」

 そう言われて、ジンは背後にいるユウヒの方を窺う。
 ユウヒは苦笑しながら頷いた。
 ジンは珍しく微かに笑みを浮かべると、シュウの方を向いて言った。

「そういうことならかまわんよ。送別会でも何でも、好きにやるといい」
「ありがとうございます。では、私はこれで…」

 シュウはそう言うと、頭を軽く下げて調理場を出て行った。
 あとに残された二人はシュウの気配が完全に消えた後、おもむろに向かい合って口を開いた。

「…なんだ? お前罪人じゃねぇのか?」
「うん、そうなんだけど…終始この調子なんだ。薄気味悪いったらないよ」
「そうか」

 ジンは何か考え込むような顔をして、また新しい煙草に火を点けた。
 ふぅっと小さく音を立てて、白い煙を吐き出すと、ユウヒに向かって言った。

「まぁ、話は店が終わってからだな。お前はそういう事らしいから、店の方にいけ。ここは俺一人でいいから、連中の相手をしてこいや」

「うん…わかった」

 ユウヒは戸惑いながらも頷くと、そのまま賑やかな店の方へと姿を消した。

 ジンは静かになった調理場でふぅっと一つ溜息を吐くと、腰をとんとんと拳で叩きながら調理台にもたれかかった。

 ――ついに動き出す、か。

 この次に何が起こるか、そのためには今何をしておくべきか、ジンは煙草の煙を燻らせながら考えていた。
 店の方からは懐かしい笑い声が聞こえてくる。

「はぁ…緊張感も何もねぇな」

 呆れたように、だが少し愉快そうにそう言って体の向きを変え、大鍋を火にかける。
 ふと、こみ上げてくる笑いをごまかすかのようにジンはその表情を歪めた。