懐かしい匂い


「あいかわらずだな、皿はもっと丁寧に洗え。で、お前…夕飯は? 何か食ったのか?」

 ジンに言われて、とりあえず洗い終わった皿数枚を漱いで傍らに積み重ねて置いたユウヒは、当然のようにジンの前掛けで濡れた手を拭いてにやりと笑った。

「まだだけど、今はあんまりお腹も空いてないな。もうちょっとしたら、何か作ってもらえる?」
「わかった。それはそうといったいどうした? こんなところに来てる場合じゃねぇだろ」
「あ〜…うん。まぁ、そうなんだけど…ね。私自身、何が何だか…」

 困ったようにそうつぶやくユウヒを横目に見ながら、ジンは自分の持ち場に戻り、作りかけていた料理を仕上げて大皿に盛り付けた。

「これ、壁際の三番目の席に座ってる客に…そういや手伝えるのか? 連れは? いるのか?」
 ジンの言葉にユウヒは思わず苦笑して口を開く。
「手伝っていいもんかどうか…ジンが聞いてよ。その連れに、さ」
「なんで俺なんだよ、めんどくせぇ」
「ちょっとね、罪人の護送にしちゃ…どうもいろいろと妙でね。私の連れ、誰だと思う?」
 手にした大皿の料理を気にしていたジンが、ユウヒに視線を戻す。

「誰なんだよ」
「聞いてないんだ…シュウだよ。禁軍の、シュウ将軍」

 それを聞いたジンは、表情こそ変わらないが、やはり何か思ったらしい。

「ほぉ…」

 そう一言つぶやいて、ユウヒに渡した大皿をまた自分が受け取ると、それを手にそのまま店の方へ行ってしまった。

 調理場に一人残ったユウヒは、何となく手持ち無沙汰でまた洗い場の皿に手を伸ばす。
 料理を持って行っただけにしては戻りの遅いジンを気にしながら、ユウヒは黙々と桶の中の食器を洗っていた。
 ユウヒ一人だけの調理場に、水音とがしゃがしゃという皿のぶつかり合う音だけが響く。
 その音に耳を傾けながら皿を洗うユウヒは、いつしかぼんやりと物思いに耽り始めていた。

 この店に着いてから、いや、もう少し前からだったかもしれない。
 何かがずっと引っかかっているようですっきりしないのだ。
 その想いの正体が何なのか、ユウヒは皿を洗う手が止まっていることにも気付かずにずっと考え続けていた。

「おい」
「うわぁぁっ!」

 不意に後ろから声をかけられて、驚いたユウヒの手から皿が桶の中に滑り落ちた。
 皿は大きな音は立てたが割れてはおらず、ユウヒはそれを確認すると大きな溜息を一つ吐いて振り向いた。

「何よ、いきなり。驚くじゃない」
「いきなりじゃねぇよ、ずっと後ろにいたのにお前が気付かなかったんだろうが」

 そう言って近付いてきたジンが、桶の中の皿を手に取って割れていない事を改めて確認する。

「あんまり粗雑に扱うなってのに…わかんねぇ奴だな」

 厭味ったらしく静かに皿を桶の中に戻してジンがユウヒを睨む。

「何か考える事があるならここはいいから部屋へ行け」
「いや、いい。自分でも何が何だかわかんない事が多くてさ」
「…ところで、お前の連れは将軍だけじゃなかったのか? 何だありゃ…禁軍の宴会でもあるのか、今夜は」
「誰がそうだか、ジン、わかるの?」
「まぁ、少しは…な」

 そう言ってはいるが、おそらくジンは全部わかっているのだろうとユウヒは思った。
 そしていつものように振舞ってはいるが、ジンが妙な緊張感を漂わせていることにもユウヒはその時気付いた。
 かと言って何かを話そうにも店の中があの状態ではとてもじゃないが気が気でなく話どころではない。
 ユウヒは苦笑しながら濡れた手を今度は自分の手ぬぐいで拭いた。

「ごめんね。厄介なことになっちゃって…私がここに来たいって言っちゃったんだよ」
「お前が?」
「…うん。どこか行きたいところはないかって言われて…あ…っ」

 ユウヒが突然何かを思いついたように言葉を切った。
 ジンが片方の眉をぴくりと動かしてユウヒに声をかける。

「どうした?」

 ユウヒは力なく首を横に振って、ジンの問いに答えになりきらない返事をした。

「あぁ、そっか。そういう事か…ううん、なんでもない。ちょっと考え事…」

 そう言って俯くユウヒの正面にジンが立った。
 あまりの近さに何事かとユウヒが言葉を切り、顔を上げようとしたその途端、煙草を投げ捨てたジンが調理場の外に向かって声をかけた。

「そんなところに突っ立ってねぇで入ってきたらどうだ? 構いゃしない。どうせ大した話はしてねぇよ」

 何者かが調理場に入ってくる気配がすると、ジンはユウヒの肩に手をやり、ぐいっと自分の背後に押しやった。
 ユウヒはされるがままになり、ジンの肩越しにその人物の様子を窺う。

 そこにはシュウが立っていた。