懐かしい匂い


「何なんですかシュウさん、今のは?」

 目の前に座っている自分の部下から声がかかる。
 その後ろに背中合わせに座っていた男も向きを変え、身を乗り出してシュウに問い質す。

「今朝見た時とは、またずいぶん二人の雰囲気が変わってるじゃないですか。いったい何があったんです?」
「何もありはしないよ、馬鹿者共が。いったい何を考えているんだ」

 呆れたようにシュウが吐き捨てると、申し合わせたようにそこに居合わせた禁軍の面々がシュウのところに集まってきた。

「ユウヒが今難しい立場だってのは自分達だってわかってるつもりです」
「ですがシュウさん。俺達だって、ユウヒから話が聞きたいんですよ」

 皆その顔は真剣で、悪ふざけをしているような様子はない。
 もちろんそれはシュウにもわかってはいたが、かと言って何も咎めずに見過ごすわけにもいかなかった。

「これが王の周りの連中に漏れたら厄介だぞ。俺が奴らに良く思われていないのはわかっているだろう?」

 そうは言っても、内心そんな部下達をどこか嬉しく思ってしまう自分にシュウは気付いていた。

「まぁ、もう言っても仕方がないが…おそらくユウヒからは何も聞けないと思った方がいいぞ。俺だってそのへんの事情は何も知らんのだ」

 その言葉に、何か力になれることがあればと思っていた兵士達の肩ががくりと落ちる。
 だが誰からともなく聞こえてくる言葉は、どれも苛立ちの混じった諦めの声だった。

「いいんですよ、シュウさん。もしかしたら、なんていう気もなかったわけじゃないですが…わかってた事です」
「どうにもならないのなら、せめてきちんと別れの言葉を伝えるくらい、かまいませんよね?」
「…あぁ。でもあいつはあいつで世話になったここの店主に挨拶に来てる。わかってはいるだろうが、その邪魔はしてやるなよ?」

 手渡された酒を一息に飲み干したシュウは、そう言って自分の部下達の顔を見渡した。
 皆どこか寂しげだが納得した顔で、顔を見合わせ頷いていた。

「さ、いつまでも突っ立ってちゃ他の客の迷惑だ」

 シュウの言葉に皆それぞれのいた席に戻っていき、店の中にいつもの光景が戻ってきた。

 ユウヒは店の奥に入ったその場所で店内の様子をずっと窺っていた。
 自分を信じてくれている事の喜びと、少なからずその思いを裏切っている事への憤りとで、複雑な思いがユウヒの中でぐるぐると渦巻いていた。
 しかし、その想いに囚われていては心が揺れ、足が止まってしまう事をユウヒは知っている。
 何かを断ち切ろうとするかのように首を振ったユウヒは、溜息を一つ吐いてその場所を離れた。

 忘れてしまおうにもいつの間にか自分の中にしっかりと焼きついてしまっていたその光景は、余りに何も変わっていなかった。
 あいかわらずの殺風景な通路を抜けて、料理の良い匂いの漂ってくる先にある調理場には、いつもと変わらぬ背中があった。
 すぐ横の壁をこんこんと二度叩いて、ユウヒは声をかけた。

「…ただいま」

「ぁあ?」

 めんどくさそうに振り向いたその人は、いつもの銜え煙草に怪訝そうな表情を浮かべていた。

「久しぶりだね、ジン」

 ジンにしては珍しく、その表情に驚きの色が浮かぶ。
 その口からこぼれるように落ちた煙草の火が、床に零れた水に触れて、小さな音を立てて白い煙の細い線を描く。
 それをもったいなさそうに摘まんで投げ捨てると、ジンはゆっくりとユウヒに歩み寄ってきた。

「さっきから店の様子がおかしいと思ってたら…お前だったのか、ユウヒ」
「商売の邪魔をしにきたわけじゃないよ。ごめんね?」
「いや、別に気にしちゃいねぇよ」

 そう言って肩を軽く小突くジンの顔には、あの懐かしい薄笑いが浮かんでいた。
 その顔に妙な安堵感を覚えてユウヒは照れ笑いを噛み殺すと、そのままジンの横を通り過ぎて洗い場の方へと向かった。

「もうちょっと驚くかと思ったのに」

 慣れた手つきで皿を洗い始めたユウヒがジンに向かってそう言うと、ジンはユウヒの横に並び新しい煙草に火を点けて静かに笑った。

「これでけっこう驚いてるんだけどな…」

 にやけたような顔で言うジンの方を、皿を洗う手を止め、ユウヒが睨みつけるように覗き込む。
 ジンは涼しげな顔をして、ユウヒの方を見下ろしていた。

「そうなんだ。なんか…わかりづらい」

 ユウヒはそう言って笑うと、また皿をがしゃがしゃと洗い始めた。