胎動


 時は少し遡り……――。

 その朝、黒州州都ゲンブにある州城は騒動の渦中にあった。

 日頃から穏やかな笑みを絶やさないこの州の長、黒主オウカも、さすがにこの時ばかりはその眉間に深い皺を刻み、険しい表情で執務室の窓から外の様子を眺めていた。
 降りしきる雨音が迷い戸惑う心に沁みていくようで心地良い。
 重苦しい雲に覆われた空から落ちてくる雨が、ともすればその思考から逃げ出そうとする自分をそこに押し留める。
 まるでそこにはまり込む事こそが今は必要なのだと言わんばかりに、どんよりと湿った空気がオウカの肩に圧し掛かっている。
 一つ一つ頭の中を整理しながら、オウカは手にした羽扇を無意識にユラユラと揺らしていた。

 オウカが思案に暮れている間も、城内は慌しく動き続けている。
 いつもは閉めてあるこの部屋の扉は、今日は朝から開け放たれたままだ。
 引っ切り無しに訪れる官吏達のため、そのようにしておくよう指示したのはオウカ自身だった。

 そしてまた一人――。

「黒主様! オウカ様!!」

 息を切らして入ってきたのは、黒州軍の武官の一人だった。

「どうですか? 見つかりましたか?」

 落ち着いた声に、その武官は我に返り慌てて服装を正して拝礼する。
 オウカは構わないと首を横に振り、報告の方を急ぐよう促した。

「それが……やはりもう城内のどこにもいらっしゃらないようで」
「そうですか」

 そう言ったオウカの顔に影が落ちる。
 報告をしに来た武官もまた、悔しそうに肩を落とした。
 そこへまた次の報せを持った者が駆け込んできた。

「オウカ様!」
「どうしました?」

 また落ち着いた声で応対する。
 駆け込んで来たのは黒州軍の副将軍、シキだった。
 先ほどの者とは違いシキは落ち着いた様子で一礼し、顔を上げるなり口を開いた。

「城門の警備に当たっている兵より報告がありました。何でもオウカ様に会いたいという女が来ている、とか」
「女性が、ですか。お一人で?」
「えぇ。いや、正確には五歳くらいの男の子を連れた身重の女だそうで……どうなさいますか?」

 シキの言葉にオウカは何か引っかかるものを感じた。
 副将軍の来室に、先に来た武官は緊張した様子で部屋を出ていき、部屋の中には二人だけが残った。

 オウカはついと顔を上げてシキに言った。

「会いましょう。いや、ここでは階段がきついか。その女性は身重だと言っていたね。この雨の中、外にいては身体に障る。暖かい部屋に通してあげなさい。私がそちらまで出向きます」
「黒主様。お言葉を返すようですが、今は州軍将軍の失踪という大きな問題を抱えている時です。そのような誰ともわからぬ者と会っている暇などありましょうか」

 咎めるような口調でそう言ったシキの胸を、オウカは手にしていた羽扇をとんと突いた。

「シキ。ではあなたは体調をおしてわざわざ来てくれた身重の女性を追い払いますか?」
「え……っ、いや。そういうわけではありませんが。何もこんな時に、と」

 オウカは羽扇でまたシキの胸をとんとんと突いた。

「こんな時だからこその訪問、かもしれませんよ?」

 そう言って静かに笑みを浮かべるオウカに、シキは首を傾げて質問した。

「いったいどういう意味ですか? だいたいなぜその様に落ち着いていらっしゃるんです」
「そうですねぇ。私は報告を待っているだけですし、時間はありますから。それにね、シキ」

 オウカの顔から笑みが消える。

「うちの将軍は、考え無しに職を辞して姿を眩ますような男ではありませんよ。違いますか?」
「それはまぁ、そうですが」
「何か思うところがあったんです。未然にわかってあげられたら良かったのですが。私も、まだまだですねぇ」

 そう言ってオウカは羽扇をじっと見つめた。

「シキ。急いで客人を暖かい部屋に通してあげなさい」
「……わかりました。では、私はこれにて」

 戸惑いながらも指示に従い、シキは部屋を出ると階下へと急いだ。

「さてさて。何かわかるといいのですが……全く、若い頃と何も変わりませんね、あなたは……ソウケン」

 そう小さくつぶやいてから、奥の間に控えている女官達に声をかける。

「ちょっと出てきますから。誰か来たらここで待たせておいてもらえますか? そうですね、お茶でも出してあげて下さい」
「仰せの通りに」

 呼ばれて出てきた三人の女官は、そう答えてちょこんと膝を折って拝礼した。

「では行ってきますね」

 オウカはそう言って執務室をあとにした。