胎動


 久しぶりの城は何とも居心地が悪かった。

 もともとリンにとって好きな場所ではなかったが、今のそれはそういう類の問題ではない。
 まるで雰囲気が違ってしまっていて、そこに流れる空気さえも緊張で張り詰めている。
 城にいる人間達の心はいったい何に支配されてしまっているのか、リンは息苦しさすら覚えた。

「カナン」
「はい」
「あなたも気付いているでしょう? ここは何かおかしくなってしまっている。これは、姉さんがいなくなった事とやっぱり関係があるのかしら?」
「全てではないでしょうが、おそらく」
「……そうだよね、やっぱり」

 リンは窓側にある扉を開け、露台というにはやや小さい物見台に出ると、そこから城の中庭を慌しく動き回る宮仕えの者や女中、女官達の姿を悲しげに見下ろした。

「私が妹だから、皆とても気を使ってるの。何を聞いても大丈夫しか言ってくれないわ。大丈夫じゃない事なんて、このところ不在だった私にだってすぐわかるのに」
「そうですね。ですが、それとはまた別に……これは私の憶測なのですが」

 少し風が強いため、カナンは話をしながらリンに室内へ入るよう促した。

「皆、何かに脅えているように思えます。それが何に対してなのか、おわかりになりますか?」

 カナンの問いかけにリンは苦笑したもののすぐに答えた。

「何となくわかるわ。だから私はここに帰ってきたんだもの……皆、心のどこかでわかってるのよ。本当は誰がこの国の王として立つべきなのか。ただずっと違う道を歩いてきたから、どうやって本来の道に戻ったらいいのかわからなくて、その道に自分のあるべき場所があるのかどうかを知るのがこわくて、立ち止まることも進むこともできずに様子を伺ってるんだわ」
「皆、自分がかわいいですからね。保身という言い方はしたくありませんが、そうですね……どうしたら今の場所にあり続けられるのか必死なんでしょう。それはもう、痛々しいほどに」
「カナンもそう思っているのね」
「はい。尤もこれほどの事態になるとは思ってもおりませんでした」

 室内に戻ったリンが椅子に腰を下ろし、お茶の準備をしたカナンがその向かい側に座る。
 まるでそれを見計らったかのように扉を叩く音がして、返事をするや否や一人の女官が甘い香りと共に部屋の中に入ってきた。

「おかえりなさいませ、ホムラ様」

 恥ずかしそうに頬を薄桃色に染めてちょこんと礼をしたその手には、白い布がかけられた皿があった。

「お疲れでしょう。皆で作って参りました、お召し上がりくださいませ。もちろん、毒見も済んでございます」

 そう言って卓子に皿を置いて覆っていた布をとると、そこには独特の黄色い色をしたあの焼き菓子がのっていた。

「セイ、だったかしら? わざわざ作って持ってきてくれたのね。時間もなくて大変だったでしょう? ありがとう、早速いただくわ」

 思いもかけず名前を呼ばれたセイは驚きに目を瞠り、小さく頭を下げると嬉しそうに微笑んだ。
 すでに等分に切り分けられているそれを皿に盛ると、セイは丁寧に拝礼して部屋を出て行った。

「カナンも一緒に、ね」
「はい」

 リンから皿を受け取ると、カナンは小さく笑みを浮かべた。

「さて、これを食べたら大仕事が待ってるわ」

 そう言ってリンはお茶を一口、ゆっくりと喉の奥に流し込む。

「ねぇ、カナン。私の言葉にはどれくらいの力があると思う?」

 カナンの返事を待つリンの双眸には、何かしら覚悟のような強い意志が感じられた。
 その姿を嬉しそうに見つめ返したカナンは、茶器に伸ばしかけた手をすっと引いて口を開いた。

「あなたはこの国のホムラ様です。この国においてホムラ様とは神の意思をその身に受けている神聖なる存在。その口から発せられる言葉ですから、それ相応の力があるのではと存じますが」
「そう……ありがとう、カナン。実際のところがどうであれ、今私が一番欲しかった答えだわ」
「……恐れ入ります」

 微かにその表情に柔らかな笑みを浮かべて頷き、カナンは改めて茶器を手にした。

「遅かれ早かれ、姉さんは戻ってくると思うの。最初は姉さんの心配をしていたのだけれど、姉さんには姉さんを助けてくれる、支えてくれる仲間がたくさんいるわ。そういう人だもの。だから大丈夫。私がここに戻ってきたのは、シムザを守るためよ、カナン」
「承知しております」
「私がそれを口にしてはいけないのだろうけれど、今のこの国の王様の在り方なんてただのお飾り。長老院がいいように動かせる都合のいい人間を玉座に据えているだけ。シムザは自己顕示欲が旺盛だけど政には明るくない。でも言葉巧みに乗せてしまえば、気分良くそれらしい王であり続ける、まさに今のこの国の制度にはもってこいの人よね」

 自分の恋人をそこまで言い捨てるリンにカナンは内心とても驚いていたが、そこにリンの決意の強さを見て、表情には出さずにただ耳を傾けている。
 リンの話はまだ続いた。

「シムザもそれに気付いていないわけじゃないけど、王であるという格に囚われて見ない振りをしてる。あれじゃ……姉さんが帰ってきたら、おそらく真っ先に首をとられるわ。自分を王に仕立て上げた張本人達、長老院によってね」
「えぇ。おそらくは」
「そんな事、絶対にさせない。別にシムザを王にしておきたいわけじゃないの。この国の王様は姉さんだわ。私は……ただ何がどうなっているか理解できないままにシムザが命を奪われるような事は絶対に許さない。それだけ」
「ホムラ様……」

 そうつぶやいて心配そうにリンを見つめるカナンの瞳に映ったのは、何か吹っ切れた顔をした一人の女だった。
 それまでは何かといえばシムザをたてて、自分の意思を曲げ、信念をひた隠し、常に控えめにその側に寄り添い続けていたリンとは全くの別人。
 自分の意思で立ち、何に遠慮することなく自分に正直になったリンは今、その心身から溢れんばかりの輝きを放っている。
 いつもどこか影のある笑みを浮かべていたリンとは明らかに違っていた。
 何もかもがおかしくなりかけているこの城において、リンはその闇の中から光を信じ、手を伸ばすことを決意したのである。

「ただ神託が下ったのだと思われてもいいの。私自身の言葉として伝わらなくてもいい。でもまず傾きかけているこのお城をいつものように回してもらわなくてはね。こんな大変な時なのに、強い気を放っている人が誰もいないなんて……いったいどうなってるの?」
「確かに。今こそ気を引き締めてかかる時だと私も思います」
「えぇ。シムザだってそれくらいの事は言っているはず。それでも城の機能が混乱したままだというのなら……私が言うわ。しっかりしろって」

 リンは少し顔を歪めて悲しげな笑みを一瞬浮かべて、焼き菓子の皿に手を伸ばした。

 その顔の意味がカナンには何となくわかっていた。
 シムザはリンの事を過小評価している、いや、自分の中で作り上げた架空のリンという人物像で、実物のリンの事を見ているように思っていた。
 実際のリンはシムザよりも器も大きく視野も広い。
 さらにはその知識も行動力もシムザよりも優れていて、シムザが側にいなくとも一人で立って、自分の足で歩いていける女性だとカナンは思っている。
 ただリンはシムザを想う余り、無意識にとはいえ、自分をそのシムザの用意した小さな器に閉じ込めていたのだ。
 今、目の前にいるリンはそんな自分を自らの手で解放したのである。
 誰に遠慮することなく放たれるリンの心からの言葉は、今まで以上にカナンの心を惹き付けた。

「はぁ……シムザには嫌われちゃうだろうな…………」

 柔らかい焼き菓子を頬張りながら寂しそうにそうつぶやいたリンに向かって、カナンは優しく微笑みかけて言った。

「私から言わせていただきますなら、今のホムラ様の魅力のわからぬようなつまらない男など、ホムラ様の方から捨てておしまいになるくらいでよろしいのですわ。自分を磨いて出直して来いくらいのつもりで、凛として背筋を伸ばしておわしますよう」

 カナンの言葉にお茶を口にしたばかりのリンは思わず派手にむせ返ってしまった。
 慌てて側に駆け寄り背中をさするカナンに対して、リンはその瞳に涙を浮かばせて静かに言った。

「ありがとう……カナン」

 カナンはゆっくりと首を横に振り、そしてもう一度、尊敬と信頼を込めてすぐ横にいる主に微笑みかけた。