胎動


 青龍省、通称春省の大臣執務室の中で、小さな灯がゆらりと揺れた。

「ほぅ? ジンが自ら動きましたか」

 口許に薄く笑みを浮かべ、ショウエイはその小さな紙を傍らの燭台の火で燃やした。

 サクが城から姿を消して、もう随分になる。
 それまでサクに頼りきって動いていた官吏達がその無能さを気の毒なまでに晒し、ショウエイはそれらを迷わず解雇した。
 人事は一掃され、一時は若干の混乱を見せていた春省の中も、今では混乱以前同様、ほぼ通常通りに機能している。
 それとは対照的に夏、秋、冬の各省は未だ混乱の最中にあり、ショウエイは春省の大臣でありながらもその豊富な知識故、すでに第一線を退いている王の取り巻きと言われる重鎮達と共に、事態を収拾するためあちこちの省に顔を出す機会が増えていた。

「さすがに少し、骨が折れますね……これは」

 そうぼそりとつぶやいて、ショウエイは執務机から長椅子に移動する。
 ゆったりと腰を下ろしてその身体を背もたれに預けると、長い手足をだらりと伸ばし、ショウエイは深く息を吸った。

 ――しかし、このような時に城に戻ってこられるとは……ホムラ様も何を考えておられるのか。

 細く吐き出した息が、自然と溜息のようになり、その眉間に皺が刻まれる。
 ずっと小さく燻っていたものにあちこちで火が着き始め、このところ国内における武装蜂起や小さな武力衝突の報告が後を絶たない。
 中途半端な鎮圧は逆に民意を煽る結果となり、次の新たな火種となっている。
 最初は大海原に投じられた小石程度であったはずの動きが、思わぬ波紋を生み出し、王やその周りの者達の想像を遥かに超える勢いで大きなうねりとなって民意を動かしているのだ。

 人間以外の者達もこの国の民であり、選ばれた「人間」が四神を従え、蒼月という称号を授かってこの国の王となる――。

 誰もが知っている、ただの作り話だと思っていたその伝承が真実味を帯びてきた今、その王たるべき存在を国外に追放したというその事実が、長い年月人々の中で眠っていた小さな疑問を呼び覚ましてしまったのだ。
 その存在こそが、これまで何度も繰り返し自問自答してきたこの国の矛盾を解消する鍵となり得るのならば、例えそれが誰かの思惑により動かされているのだとしても、この機を逃してはならないという焦燥感が力なき民達を動かす原動力となっている。
 城の者達の対応は全て後手後手に回り、サク不在の混乱と相まって、危機感にも近い異様な緊張感が城内に漂っていた。

「ショウエイ殿はご在室か」

 扉の向こう側から声が聞こえ、返事をするよりも前にその扉が動いた。

「失礼する」
「これは……珍しい。如何様な用向きでこちらへ? シュウ将軍」

 ショウエイが身体を起こして突然の訪問者を迎える。
 禁軍将軍を務めるシュウが祭祀・儀礼を管轄する春省を訪れる機会は決して多くない。
 少し広げた扇で口許を隠し、ショウエイはシュウの返事を待った。

「座っても?」
「どうぞ」

 シュウはショウエイの向かい側の椅子に腰を下ろすと、苛立った様子で言った。

「ショウエイ殿が多忙なのは承知しているが……夏省の連中、どうにかならないか」

 朱雀省、通称夏省と呼ばれるその省は、軍事、警備や警護関係の全てを統括している。
 音を立てて扇を閉じたショウエイが襟元の乱れを整えて少しだけ身を乗り出した。

「どういう事です?」

 小首を傾げて聞き返すその様は、なるほど女官達の噂通り、同性であるシュウが見ても妙に艶がある。

「どうもこうもない。話のできる人間はどこにいると聞けば、皆おろおろするばかりで何の答えも返ってこない」
「それはそれは……夏大臣は不在で?」
「いや、いた。直接会って話もした。あれは駄目だ。事が起こる前からもうすでに保身の事しか頭にない。王の周りのジジイ共と大差ないな」
「……言いますねぇ」

 ショウエイは小さく笑った。

「で、将軍はなぜ夏省へ? 王の軍である禁軍、兵を動かすなら夏省を通す必要はないはず」
「あぁ、そうじゃない。黒州の方で何か軍に動きがあったと連絡があった。その詳細が知りたかったんだが……それに、各州軍共かなりの数を混乱の鎮圧に兵を割いているだろう? うちは近衛である禁軍と王都警護の中央軍に分けられるから、必要であれば王都に禁軍を残し、中央軍を各州の加勢に出そうかと思ったんだが……」

 軍備については余り明るくないであろうショウエイにわかるよう、シュウは必要な情報と共にそれを過不足なく伝える。

「黒州で、ですか? 白州ではなく」

 ユウヒが追放されたのは西方の国、ルゥーン。
 何か動きがあるとしたら、白州であろうと城の誰もが思っていた。

「あぁ、黒州だ。それに……これはまだ噂の段階で未確認の情報なんだが」
「はい」
「ルゥーンとガジットがどうやらあっちに付いたらしい」
「あっち? そうですか……」

 ショウエイが短く問い返し、シュウがそれに頷いた。

「なるほどね。それで日に日に混乱が増して、使えない人間が増えているわけですね。納得しました」

 呆れたようにそう言ったショウエイを、シュウは興味深げに見つめた。

「国内の護りを固めるべきでしょうか?」

 ショウエイが訊ねると、シュウはそう問われるとわかっていたかのように即答した。

「いや、まだ黒州の動きってのがどういったもんかわからん。後手に回っても困るが、今はまだ時期尚早だろう。情報が足りんのだ」
「軍の方でも、ですか?」
「……情けないことにな。情報が錯綜していて信憑性に欠ける。どうもこちらは踊らされているようで気分が悪い」

 そう言ったシュウの脳裏に薄笑いを浮かべるある男の顔が思い浮かんだ。
 間違いなく動いているであろうあの男が、いったいどこまでの情報を操作しているのか。
 だいたい一人の男にいったいどれだけの力があるというのか。
 民意をここまで動かした一連の出来事に、あの男がいったいどこまで関与しているのか、得体の知れないものを相手にしているような不気味さがあった。
 ショウエイも何か思うところがあるらしくシュウの言葉をそのまま継いだ。

「それは同感ですね。動かなかった我々も悪いのでしょうが、この短期間にここまでの混乱になるとは王の取り巻き連中も思ってはいなかったでしょう」
「あぁ、誤算だったろうな」
「もちろんそれは、我々も……でしょう?」

 ショウエイの言葉に、シュウは椅子の背にもたれかかり、頭の後ろで手を組んで大きく一息吐いた。

「どこへ言っても名前が出るからここへ来ればあるいはと思ったんだが……」

 まるで当てが外れたと言わんばかりの言葉にショウエイの眉がぴくりと動いた。

「他の省にあまり干渉しすぎるのもどうかと思ってこちらからは動かずにいたのですが……そういう事なら、いいでしょう。少し時間をいただけますか?」